第18話 地図を探す学生

 時任堂の古びたドアノブを、俺はゆっくりと回した。

 カラン、と鳴るドアベルの音は、前回と同じはずなのに、やけに大きく、そして不吉に聞こえる。


 一歩、店内に足を踏み入れる。埃と古い紙、線香の入り混じった独特の匂い。

 薄暗い店内に目が慣れると、壁一面を埋め尽くすガラクタ……いや、古物の山が見えてくる。

 その多くが、依然として奇妙な気配を放っていた。


 俺は意識して呼吸を整え、前回練習したように、自分の気配を抑え込む。

 大丈夫だ、ただの客だ。そう自分に言い聞かせながら、店の奥へと視線を向けた。


 カウンターの奥。そこにはやはり、あの老人が座っていた。

 手元の何かを弄んでいたようだが、俺の入店に気づき、ゆっくりと顔を上げる。

 その皺だらけの顔には、驚きの色はない。むしろ、全てお見通しだと言わんばかりの、食えない笑みが浮かんでいた。


「おや、また来たのかね、若いの」


 やはり、待っていたか、あるいは来ることを予期していたか。

 俺は内心の警戒を悟られぬよう、努めて平静を装う。


「すみません、先日も少し見させていただいた者ですが……」


 まずは挨拶から。そして、用意してきた口実を切り出す。


「実は、この辺りの古い地図を探しているんです。学校の課題……地域の歴史研究か何かで、必要になりまして」


 我ながら、取ってつけたような理由だ。だが、これしか思いつかなかった。俺は老人の反応を窺う。

 老人は「ほう」と、興味深そうに(あるいは、面白そうに)相槌を打った。


「古い地図、かね? それも、この旧市街あたりの、となると……ちと厄介じゃがな」


 彼はカウンターに肘をつき、探るような目で俺を見た。


「して、具体的にはどんな時代の、どんな地図を探しておるんじゃ? ただ古いというだけでは、ここには掃いて捨てるほどあるがのぅ」


 鋭い質問だ。俺の知識レベルと、口実の信憑性を試しているのだろう。

 まずい、そこまで具体的には考えていなかった。

 俺は一瞬言葉に詰まるが、すぐに当たり障りのない答えを返す。


「いえ、その……できるだけ古い時代のものがいいんですが……特に、この辺りの地形や区画が、どう移り変わってきたかが分かるようなものを……」

「ふむ……地域の変遷、とな。なるほどな」


 老人は意味ありげに頷くと、顎髭を撫でた。

 俺の口実を信じたのか、それとも、何か別の意図があるのか、その表情からは読み取れない。


 しばらくの沈黙の後、老人はカウンターから立ち上がり、店内の奥にある、ひときわ高く積まれた古書や巻物の棚を指差した。


「まあ、探してみるがよい。あの辺りに、古い地図やら絵図の類が、いくつか埃をかぶっておったはずじゃ」

「え……?」


 意外な言葉だった。もっと疑われるか、あるいは何か条件を出されるかと思っていた。

 「ただし」と老人は付け加える。


「わしの店は、見ての通り整理整頓というものとは無縁でのぅ。お目当てのものが見つかるかどうかは、にいちゃんの『運』次第じゃな。もちろん、他の品に勝手に触ったり、壊したりせんように頼むぞ。中には、ちと『機嫌』の悪いものもあるでな」


 老人はそう言うと、再びカウンターの椅子に腰を下ろし、手元の道具の手入れを再開してしまった。

 まるで、俺のことなどもう気にしていない、というように。


 これは……罠か? それとも、本当に探させてくれるつもりなのか? あるいは、俺が何を探し、何に反応するかを、じっくり観察するつもりなのか。


 どちらにせよ、俺は店内を探索する機会を得た。

 俺は老人に軽く頭を下げると、警戒を解かないまま、指し示された棚へと、ゆっくりと歩を進めた。


 ◇


 老人に促され、俺は店の奥にある、古書や巻物が山積みになった棚へと向かった。

 「古い地図や絵図の類がいくつかあったはずじゃ」と老人は言っていた。


 棚は予想以上に高く、そして乱雑だった。埃をかぶった巻物、虫食いだらけの古書、黄ばんだ紙の束などが、何の脈絡もなく積み重ねられている。

 まさにガラクタの山だ。


(本当にこの中に地図なんてあるのか……?)


 半信半疑になりながらも、俺は「地図を探している学生」を演じるべく、手前の比較的手に取りやすい巻物や紙束から、慎重に調べ始めた。

 カウンターの奥からは、老人の視線を感じる。油断はできない。


 同時に、俺は自身の感覚を密かに研ぎ澄ませていた。

 この棚、あるいは周辺に、あの箱や公園で感じた異質なエネルギーの痕跡はないか? あるいは、禁忌の徴に繋がるような、何か別の手がかりは? 老人の「機嫌の悪いものもある」という警告を思い出し、不用意に奥の物や、妙な気配を発するものには触れないように細心の注意を払う。


 いくつかの巻物を広げてみる。確かに、この辺りの古い時代のものと思われる地図や、屋敷の見取り図のようなものがいくつか見つかった。

 中には、旧市街がまだ今とは全く違う姿をしていた頃の、興味深い地図もあった。

 口実としては、十分すぎるほどの収穫だ。


 だが、俺が本当に探しているものは、見つからない。

 異質なエネルギーの痕跡も、禁忌の徴を思わせるような図柄も、この棚からは感じ取れなかった。


 探索を続けるうち、ふと、棚の隅に挟まっていた古いアルバムのようなものが目に入った。

 埃を払い、何気なく開いてみる。中には、色褪せた家族写真が何枚か収められていた。

 おそらく、この店に持ち込まれた誰かの遺品なのだろう。

 楽しそうに笑う子供、穏やかな表情の老夫婦……ごくありふれた、しかし今は失われてしまったであろう、誰かの「平穏な日常」の記録。


(……俺が、取り戻したいもの……)


 一瞬、胸が締め付けられるような感傷が込み上げてきた。

 そうだ、俺は、こんな風に当たり前に笑い合える、穏やかな日々を取り戻したいだけなんだ。

 そのために、こんな得体の知れない場所で、危険な探索をしている。


 いや、感傷に浸っている場合じゃない。

 俺はアルバムをそっと閉じ、元の場所に戻した。今は、感傷よりも、やるべきことがある。


 結局、一通り棚を調べてみたが、地図以外にめぼしい発見はなかった。

 あの老人は、やはり俺を試していただけなのかもしれない。あるいは、俺の感覚がまだ鈍いだけで、何か重要なものを見逃しているのか……。


 どちらにせよ、今日のところはこれ以上深入りするのは危険だろう。

 俺は、見つけた古地図の中から、一番それらしい(そして値段も手頃そうな)一枚を選び出した。これで、店を出る口実は立つ。


 俺は選んだ地図を手に、カウンターへと戻った。

 老人は、磨いていた道具から顔を上げ、俺の手にある地図を一瞥したが、特に何も言わなかった。

 その表情からは、相変わらず何を考えているのか読み取れない。


「……これを、いただけますか」


 俺が言うと、老人は黙って頷き、慣れた手つきで代金を受け取り、地図を古新聞で包んでくれた。


「毎度あり」


 短い言葉と共に地図を手渡され、俺は軽く会釈して店を出た。

 カラン、とドアベルが鳴り、再び外の空気に触れる。


 結局、今回の訪問で得られた具体的な手がかりは、この一枚の古地図だけだった。

 俺が本当に求めていた答えには、一歩も近づけなかったのかもしれない。


 だが、諦めたわけじゃない。今日の偵察と訪問で、状況は少し動いたはずだ。

 俺は、得られたわずかな情報と、胸に刻んだ決意を頼りに、次の一手を考えるべく、夕暮れの道を歩き始めた。

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