第12話 風邪の日

 昼の個人演習中、訓練場の片隅で、小さなざわめきが広がった。


「アーディスユニットの子、倒れたらしいぞ」


 その一言に、レイヴンは反射的に顔を上げた。視線を巡らせても、ノアの姿が見当たらない。

 その瞬間、胸の奥で嫌な感覚が這い上がってきた。


 理由なんていらなかった。ただ、いても立ってもいられなかった。体が勝手に前へ出る。


──まるで、実の娘が倒れた。間違いなく、そんな感覚だった。


「レイヴン。訓練中だ、勝手に持ち場を離れるな」


 背後から教官の鋭い声が飛んだ。


 「……トイレです」


 わざとらしく棒読みで返す。

 教官は呆れたように眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。


 レイヴンは迷うことなく、寮の方向へ駆け出していた。



 ノアの部屋は簡素で静かだった。

 カーテンは引かれ、昼の光がぼんやりと滲んでいる。

 けれどその光すら、まるで彼女に届くのをためらっているかのように、弱々しかった。


 空気はひんやりと静まり返り、外のざわめきもすっかり遠い。

 ベッドの上では、毛布にくるまったノアが小さく体を丸めていた。


 「入るぞ」


 扉の前で声をかけると、かすかに布団が動いた。

 そっとドアを開けて中に入ると、ノアがゆっくりと顔を上げた。


 赤く熱を帯びた目、額にはうっすらと汗がにじんでいた。


 「……ごめんなさい」


 その声に、レイヴンは静かに首を振った。


 「謝るなくていい。風邪か?熱があるんだろ。仕方のないことだ」


 洗面所で濡らしてきたタオルを軽く絞り、彼はノアの額にそっと当てた。

 ノアは少し驚いたように身じろぎし、そのまままた目を閉じる。


「……わたし、また……迷惑かけて……」


「親に迷惑をかけない子供なんていない。それに、風邪をひいた日くらい一緒に居なくて、家族なんて言えないだろ」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、レイヴン自身が一瞬、言葉の重みに気づいた。


 ──そう言えば、昔も同じことを言った。


 風邪で泣きじゃくる娘の頭を撫でながら、おまえは自分の娘なんだから、自分が会社を休むのは当然だと……

 けれど、いつしか仕事優先な父親になっていた。いや、もうそれは父親とは言えないな。


「もう少し寝た方がいい。起きたら……何か食べれる物を準備しておく」


 そう言うと、ノアは弱々しくも小さく頷いた。


 立ち上がり、部屋を出ようとしたときだった。

 背後から、かすれた声が届く。


 「……お父さん、みたい……」


 レイヴンの足が止まった。


 その一言は、小さな声だった。

 けれど、胸のどこか深いところに、確かに刺さった。


 “父”と呼ばれることを、もう許されないと思っていた。

 すでに失ったはずの居場所。

 誰かにそう思われる資格など、自分にはないと、何度も言い聞かせてきた。


 だが──それでも。


 誰かがそう思ってくれたのなら。

 たとえそれが“まちがい”だとしても。

 もしかしたら、自分はまた、いや今度こそ、誰かを守れる存在となれるのかもしれない。


 レイヴンは振り返らずに、静かにドアを閉めた。背中が少しだけ、熱を帯びていた。


 (……俺が、また父親に──)


 その問いは答えを持たず、けれど確かに心の奥に刻まれた。



 廊下に出ると、寮内はすでに夕食の準備が始まりつつあるらしく、どこかから鍋の沸く音や、誰かの足音が聞こえていた。

 その穏やかな日常音が、耳にじんわりとしみる。


 日常は、静かに、しかし確かに続いていた。

 

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