第12話 風邪の日
昼の個人演習中、訓練場の片隅で、小さなざわめきが広がった。
「アーディスユニットの子、倒れたらしいぞ」
その一言に、レイヴンは反射的に顔を上げた。視線を巡らせても、ノアの姿が見当たらない。
その瞬間、胸の奥で嫌な感覚が這い上がってきた。
理由なんていらなかった。ただ、いても立ってもいられなかった。体が勝手に前へ出る。
──まるで、実の娘が倒れた。間違いなく、そんな感覚だった。
「レイヴン。訓練中だ、勝手に持ち場を離れるな」
背後から教官の鋭い声が飛んだ。
「……トイレです」
わざとらしく棒読みで返す。
教官は呆れたように眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
レイヴンは迷うことなく、寮の方向へ駆け出していた。
*
ノアの部屋は簡素で静かだった。
カーテンは引かれ、昼の光がぼんやりと滲んでいる。
けれどその光すら、まるで彼女に届くのをためらっているかのように、弱々しかった。
空気はひんやりと静まり返り、外のざわめきもすっかり遠い。
ベッドの上では、毛布にくるまったノアが小さく体を丸めていた。
「入るぞ」
扉の前で声をかけると、かすかに布団が動いた。
そっとドアを開けて中に入ると、ノアがゆっくりと顔を上げた。
赤く熱を帯びた目、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「……ごめんなさい」
その声に、レイヴンは静かに首を振った。
「謝るなくていい。風邪か?熱があるんだろ。仕方のないことだ」
洗面所で濡らしてきたタオルを軽く絞り、彼はノアの額にそっと当てた。
ノアは少し驚いたように身じろぎし、そのまままた目を閉じる。
「……わたし、また……迷惑かけて……」
「親に迷惑をかけない子供なんていない。それに、風邪をひいた日くらい一緒に居なくて、家族なんて言えないだろ」
ぽつりとこぼれたその言葉に、レイヴン自身が一瞬、言葉の重みに気づいた。
──そう言えば、昔も同じことを言った。
風邪で泣きじゃくる娘の頭を撫でながら、おまえは自分の娘なんだから、自分が会社を休むのは当然だと……
けれど、いつしか仕事優先な父親になっていた。いや、もうそれは父親とは言えないな。
「もう少し寝た方がいい。起きたら……何か食べれる物を準備しておく」
そう言うと、ノアは弱々しくも小さく頷いた。
立ち上がり、部屋を出ようとしたときだった。
背後から、かすれた声が届く。
「……お父さん、みたい……」
レイヴンの足が止まった。
その一言は、小さな声だった。
けれど、胸のどこか深いところに、確かに刺さった。
“父”と呼ばれることを、もう許されないと思っていた。
すでに失ったはずの居場所。
誰かにそう思われる資格など、自分にはないと、何度も言い聞かせてきた。
だが──それでも。
誰かがそう思ってくれたのなら。
たとえそれが“まちがい”だとしても。
もしかしたら、自分はまた、いや今度こそ、誰かを守れる存在となれるのかもしれない。
レイヴンは振り返らずに、静かにドアを閉めた。背中が少しだけ、熱を帯びていた。
(……俺が、また父親に──)
その問いは答えを持たず、けれど確かに心の奥に刻まれた。
*
廊下に出ると、寮内はすでに夕食の準備が始まりつつあるらしく、どこかから鍋の沸く音や、誰かの足音が聞こえていた。
その穏やかな日常音が、耳にじんわりとしみる。
日常は、静かに、しかし確かに続いていた。
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