第10話 失われていた記憶

 翌朝のリビングには、ほのかにパンの焼ける匂いが漂っていた。

 香ばしく甘い香りが、夜の静けさを洗い流すように部屋を満たしている。


 レイヴンが目を覚まし、階段を下りてくると、すでにテーブルには朝食の準備が整っていた。

 食器はきちんと並べられ、湯気の立つスープと、籠に入った焼きたてのパンがあたたかな彩りを添えている。


 キッチンにはセレスの姿があった。

 淡い藤色のエプロンを身につけ、手際よく食事の仕上げをしている。

 その動きは落ち着いていて、どこか昨日よりもやわらかさを増していた。


 「おはようございます」


 振り返ったセレスが、自然な笑顔を向けてくる。

 レイヴンは少しだけ戸惑いながら、「……おはよう」と短く返した。


 ユウトはすでに椅子に座り、スプーンを手に持ってスープをふうふうと冷ましている。

 ノアもその隣で、静かに姿勢を正していた。


 不自然な沈黙は、そこにはなかった。

 誰も急かさず、誰も詰め寄らない。

 ただ静かに、柔らかく時間が流れていた。


 セレスがふと、皿を置く手を止めて言った。


 「……昨日、ありがとうございました」


 レイヴンは首を傾げる。


 「話を聞いてくれたことです」


 その言葉に、レイヴンは小さく頷いた。昨夜の会話をすぐに思い出した。取り止めのないような事ばかりだ。

 それ以上の言葉は口にしなかった。それでもセレスはそれで十分だとばかりに、穏やかに笑った。


 彼女が明るく振る舞うだけで、場の空気が整っていく。

 たとえそれが“家族ごっこ”であっても、奇妙なまとまりがそこに生まれる。


(……雰囲気を変える力。妻も、そうだった)


 家事や育児だけじゃない。

 その場にいる人の気持ちを察し、整える力。

 張り詰めた空気をほどき、誰かの沈黙をそっと受け入れる在り方。


 家族における「妻」の存在は、役割だけじゃ語れない。

 家庭に温度をもたらし、心に居場所をつくってくれる──かつての自分は、きっとその尊さに気づけていなかった。


 「……いただきます」


 ふいに、小さな声が響いた。

 ノアだった。


 三人の視線がそちらへ向き、一瞬だけ、時が止まったように感じた。


 セレスが微笑み、ユウトが「よしっ」と呟くように言う。

 レイヴンは無言でパンを手に取り、ふと窓の外へ視線をやった。


 朝の光が、再生寮の中庭を優しく照らしている。


 ──そして、ふと。

 心の奥に眠っていた記憶が、にじむように浮かび上がった。


 休日の朝、キッチンで忙しそうに動く若かりし頃の妻。

 テーブルでは、幼い息子が熱さに驚きスープをこぼしていた。

 慌てる息子の手をそっと包み、「大丈夫。泣かないの」と微笑む、彼女の優しい声。


 ……取り戻せない時間。


 けれど今、似たような風景が、確かに目の前にあった。


 セレスが笑う。

 ユウトが元気に声を出す。

 ノアが初めて“いただきます”と呟いた。

 同じ屋根の下、同じ食卓を囲んでいる。


 それだけのことが、今は──ほんの少しだけ、温かかった。

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