『忍ヶ岡 暗影斬り』

松宮 黒

第1話

『雨の日の出道場』第一話──濡れた足音──


あらすじ


かつて仕えた道場は、今や他人の手に。

静かに暮らす浪人・新之助のもとに届いたのは、ひとりの女の失踪を告げる報せだった。

雨に濡れる上野の町で、再び彼は歩き出す──。

物語は、師の死をめぐる静かな疑念から始まる。


登場人物紹介


● 小幡 新之助(おばた・しんのすけ):浪人。かつて「日の出道場」の師範代を務めた剣客。師匠の死に疑念を抱いている。

● おせん:町の手習い所で筆を教える娘。筆に特別な力を持ち、現在失踪中。

● 靖枝(やすえ):元・道場の帳場役。現在は池之端の茶屋「やすや」で働いている。

● 有代(ありよ):語り芝居を演じる芸人見習い。新之助と印象的な出会いを果たす。

● 千原(ちはら)・今道(こんどう):現在の日の出道場を実質支配している二人の男。

● 宮原 豊山(みやはら・ほうざん):故人。新之助の師であり、かつての道場主。


◇ 一、霧雨と廃れた道場


霧雨が、上野御徒町の裏通りを、灰の絹のように覆っていた。


屋根の雫が、ぽたり、ぽたりと、まるで時を刻むように垂れる。


人通りも絶え、軒先の竹箒がひとりでに揺れていた。


その細い路地に、ひとつだけ足音が混ざる。


泥に濡れ、土の匂いとともに、ゆっくりと近づいてくる。


新之助──かつて「日の出道場」の師範代として、その名を知られた男。


今は浪人として、刀を帯びぬ身ながらも、目の奥にはなお、鋼が光っていた。


立ち止まったのは──あの道場の門前だった。


今や、千原と今道という男たちに“乗っ取られた”場所。


看板こそ昔のままだが、そこで流れるものは、もう剣の道ではない。


門柱に染みついた苔と、雨に濡れた木の匂い。


失われたものは、気迫だけではない。


あの道場が宿していた“何か”が、確かに抜け落ちている。


新之助は、そっと足を踏み入れる。


袴に触れた埃が、かすかに揺れた。


「……道場は、生き物のようなものだ」


ぽつりと誰にともなく呟いた声が、柱に吸い込まれていく。


木刀の打ち合う音、若い声、汗の匂い──それらは、もう遠い。


代わりに今は、天井から、ぽつ、ぽつ、と雨の雫が落ちていた。


かすかに軋む床の音が、新之助の記憶を呼び戻す。


「あの時、師が斬った男の名も、いまでは忘れられている」


「だが、その男の目と、斬る直前の一瞬だけ……師の呼吸が変わったのを、私は知っている」


その時だった──


戸口が開く音とともに、男がひとり、駆け込んできた。


三十前後、かつての門弟のひとりか。


濡れた傘を乱雑にたたみ、深々と頭を下げる。


「先生……いえ、新之助様。……ひとつ、お願いがございます」


◇ 二、女の筆は刀よりも鋭し


男が語ったのは、ある女の失踪であった。


名は「おせん」。


手習い所で筆を教える、町でも評判の娘である。


「おせん様は、ただの手習いではありませぬ。あの方の筆には、人の心を動かす力がありました」


その女が、数日前より姿を消したという。


町方も動かず、奉行所も家出と決めつけた。


「女の筆が、男の刀より鋭いこともある」


新之助の目が細まる。


「靖枝様なら、何かご存じかと……」


門弟はそれだけ言い残し、雨の中へ姿を消した。


靖枝──かつて道場主・宮原を支えた女。


宮原の死後、千原によって暇を出され、今は池之端の茶屋に身を移している。


新之助は、靖枝の行方を追い、池之端へと向かった。


◇ 三、池之端の風


池之端は、湯屋と茶屋が軒を連ねる、穏やかな界隈。


水のにおいが鼻をかすめ、軒の下では猫が丸くなる。


池の水面には、夕陽が橙色に滲み始めていた。


雨上がりの風が、竹笛の音をかすかに運んでくる。


夕暮れどきの空気が漂う中、茶屋の帳場から語り芝居の声が聞こえてきた。


ひときわ通る若い女の声に、新之助は自然と足を止める。


その語りには、ただの芝居では済まぬ熱と切実さがある。


女の声は、客の視線だけでなく、風の向きすら変えそうな張りを持っていた。


その語りが終わると、数人の客が小さく手を叩き、銭を小皿に落としていく。


「……あの声、ただ者ではないな」


新之助のつぶやきは、誰に聞かせるでもなく、風にまぎれて消えた。


彼の足は自然と茶屋の軒先へと向かっていた。


そこで、彼は──出会う。


◇ 四、夕陽と芝居の女


白に薄桃をあしらった着物の若い女。


名は有代。


芸人見習いの語り女である。


「昔々、池の端にて、狐が人に化けて恋をしたとさ……」


芝居の途中、人垣を割って一人の男が歩み出る。


新之助だった。


「……芝居は上手い。だが、どことなくぎこちない」


彼はそう思いながら、女の前に立つ。


「お侍様、そんな目で見られると、膝が震えますよ」


軽やかな声の奥に、棘と寂しさが混じっていた。


「声はよい。だが、台詞を覚えるよりも、何かを捨てた方がいい」


「……何を、です?」


「他人にどう見られたいか、という欲だ」


その言葉に、有代の目が揺れた。


「へえ……きっと、斬られるより痛いことでしょうね」


新之助は茶屋をあとにし、ふと振り返った。


「その話の続き、いつか聞かせてくれ」


有代は、唇をほとんど動かさずに応えた。


「……願わくば、晴れた日に」


◇ 五、闇に潜む耳


その夜──再び雨が降り出していた。


人気のない道場。戸は閉ざされ、灯も絶えているはずだった。


だが、天井裏には、確かに気配があった。


しなる板のきしみ。天井の梁に身を伏せる影が、目を凝らして下を見つめていた。


「……来やがったか。あの影……まだ消えてねぇ」


かすかに漏れる声は、誰に聞かせるでもなく、暗闇に溶けていく。


その影は、指先で音を消しながら、ゆるりと移動を始めた。


床下には仕掛けがある。旧主・宮原が人知れず遺した構造だ。


その存在を知る者は、数えるほどしかいない。


影はそのひとりだった。


「影が動くには、理由がある。音もなく、香もなく──それが恐ろしい」


ふいに、足音。濡れた草履の音が、土間ににじむ。


誰かが来る。


影は息を潜めた。


戸がゆっくりと開く。


その隙間から、濡れた傘と、風に揺れる紺の袴が見えた。


「……遅かったか。もう、いたのか」


小声で呟いたのは、新之助だった。


彼の背後からは、遠くで囁くような雨の音がついてくる。


静けさの中、気配と気配が、無言で交差した。


──闇はまだ、完全には晴れていなかった。


次回予告


道場に忍び寄る気配の正体は誰なのか。


拾われた“蓮の文”に滲む筆跡が、新たな沈黙と謎を呼び起こす。


筆が導く静かな追跡が始まる──。


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