春に寄す
湾多珠巳
To the Spring 1
右手和音の連打の中に異様なノイズを聞きとったような気がして、L氏は電子ピアノを弾く手を止めた。
春の静かな午後だった。氏はこの三月末に、実家の古い一戸建てへ引っ越してきたばかりだ。両親が老後を送る家として建て、二十年ほど暮らした建売住宅で、ふた親とも身罷った後は姉の家族が何年間か住んでいた物件である。それが、姉の旦那の実家の事情で転宅することになり、一時は売却し遺産分割する方向で調整していたのが、処分トータルだとむしろマイナス評価かも知れないといことが分かり、果ては姉弟で押し付け合いになって、結局L氏が住むことになってしまったのだった。
それまで大都市圏で気楽な独り身生活を謳歌していただけに、話し合いは平和的にとはいかなかったが、両親が
今日は引っ越して二週間目。長らく2DKでこじんまりと暮らしてきた身軽さもあって、転居作業そのものはとっくに終わり、家の使い勝手もだいたいつかめてきた。周辺の地理も一通り把握したし、そろそろ内面的な生活も充実させようと、午後いっぱい趣味のピアノ演奏にかかりっきりになっていたところだ。
それが、思わぬアクシデントで中断された。
L氏はしばらく動かなかった。演奏を中断した姿勢のまま、じっと耳を澄ませる。
ノイズは瞬時に消えた。気のせいか? あるいは楽器の不調か? さもなければ家のどこかで何かが?
装着しているヘッドフォンはイヤフォンと言ってもいいぐらいの小ぶりなもので、外さずとも家の内外の物音はだいたい聞き取れる。窓の外、庭を挟んだ通りを、若い学生だろうか、スポーツタイプらしき自転車で静かに走り去っていったのが分かる。階下では、台所の古い床の上で冷蔵庫が不機嫌そうにモーター音を唸らせているのが感じ取れる。他は? 特にない。あえて言えば、平素ほとんど意識することもない、寝台の目覚ましが立てる針の音ぐらいだ。
ヘッドフォンの調子が悪いのか? L氏は電子ピアノの端から伸びているケーブルをためしに持ち上げ、ヘッドフォンとの接続部分を少しぐにゃぐにゃさせてみた。それから、ヘッドフォンジャックを何度か抜き差ししたりつつ、片手で鍵盤をいくつか叩いて音にブレがないか確認してみた。
電子的なノイズが発生している様子はない。
気を取り直して最初から弾き直すことにする。曲はグリーグの「抒情小曲集」からの一曲だ。
気分で何となく選んだ曲である。六十近い、独りものの男が嬉々として取り組むような音楽では、本来ないだろうと思う。
(まあ、新居での肩慣らしにはちょうどいいさ。季節も季節だし)
そんな風に言い訳しつつ、嬰ヘ長調の清冽なコードを、いくばくかの熱も込めながら弾き連ねていく。前半部分は何事もなく演奏できた。中間部、にわかに暗雲が立ち込めるかのように嬰ニ短調へ変わり、和音の連打が低音へ移る。少しずつ切迫感を加え、テンポも上げて、山場に向けて両手いっぱいに和音を拡げた、その時。
(! …………何だ?)
L氏は再び手を止めた。
確かに聞こえた。眼前いっぱいに広がる大自然の景色の端で、いびつに走った走査線のノイズのような、看過すべからざる不純な響きが。
眉をひそめつつ、直前のフレーズから弾き直してみる。何か特定の響きにヘッドフォンのスピーカーが共振しているのかと疑ったのだ。だが、二回、三回と弾き直しても、もうノイズは聞こえなかった。
L氏は立ち上がった。楽器周りでないなら、家の中のどこかで何かが鳴っているとしか思えない。
階下に降りて、まず玄関を確認する。施錠はしてある。誰かが門から入ってきている様子もない。
そもそも、聞こえたノイズは金属質のような音だった。何かが擦れ合ったか、響きあったような。
(いや、声のようにも聞こえた……あるいは楽器、か?)
玄関からリビングへ移ると、がらんとした空間へのせめての埋めぐさという感じで、テレビと、何脚かの大きめのイス、それから壁際には、幼い時分からL氏とその姉が弾きこんできた古いアップライトが、二台目のピアノとして置いてあった。
テレビはつけていない。主電源から切れているし、何かの間違いで声が飛び出したことは考えられない。
ピアノは? 階上でヘッドフォンなしのまま電子ピアノをがんがん弾きまくれば、下でピアノの弦が共鳴することは、もちろんあるだろうが、さすがにそれは極端な仮説と言うべきだろう。普通の生活音の範囲で、このピアノの弦が大きく共振することなど、あり得ない。
が、たとえばネズミがねぐら代わりにしていたりしたら?
最近まで姉の一家が住んでいたんだし、その可能性は考えなくても、と思ったものの、一応確認はしておくべきかも知れない。L氏はピアノのふたを開けた。鍵盤を端から端まで覆っているワインレッドのカバーをめくりあげると、艶やかな八十八鍵の白と黒がL氏を出迎えた。
そういえば、引っ越してきてから今日まで、このピアノには触れないままだったな、と、その時になってようやく思い当たる。
(外見に異常はないようだが、中身はどうか?)
試しに変ニ長調の和音を中音域で鳴らしてみる。だーん、と、控えめながらも部屋いっぱいに響くようなふくよかな和音が鳴り渡った。
中でネズミなり虫なりが暴れている様子はない。
それで用件は済んだはずだが、そのままつられるようにL氏はピアノの前に座り込むと、変ニ長調つながりで一曲奏で始めた。今日のような春の日にふさわしいと思われる、L氏の十八番の一つ――リストの「ため息」である。
平素の電子ピアノはヘッドフォン使用が常、そのヘッドフォンも抑え気味のボリュームに設定しているので、アコースティックの生音はとんでもない大音量に聞こえる。ただでさえリストの
しかしこの響きは――いい。実にいい。
まるで高校の頃に戻ったような解放感だ。弾き心地もあの頃とまるで変わらない。
ほんの数フレーズのつもりが、いつの間にか本格的に全曲を弾き通す体勢になっているのを自覚して、L氏は内心で苦笑した。まるで何年もおあずけを食らっていた家庭料理にがっついている家出息子みたいじゃないか。そんなに俺はこのピアノが恋しかったのかな、と自問して、すぐに、そうだったのかもしれない、と首肯した。
なんといってもこのピアノは、俺がいちばん輝いていた時間がそのまま染み込んでいる楽器なんだから。どこまでも未来の可能性を信じ、夢見ることができた頃の時間が。
* * *
芸術家肌の学生には珍しくもない話ながら、L氏は中学時代でもう音楽の道に進むことを志していた。だがL氏の家庭には経済的に余裕があるとは言えず、私立の音楽大学を志望することは論外だった。
なら国公立の芸術系か教育系に進むのが順当な判断だが、先生になる気は全くないから教育学部は気が進まなかったし、かと言って東京や京都の芸大にストレートで合格できるほど自分は優秀だとうぬぼれるつもりもなかった。そもそも資金がないため、音大受験生がみんなやるような、受験対策専用のレッスンに通ったり、つてを頼って有名教授の弟子になったり、というような手順を、L氏は何一つ踏んでいなかった。
通っていたピアノの先生は、それなりに骨を折ってはくれたものの、もとより音大進学に当たって手際のいいアドバイスができる人ではなかった。今思えば、とりあえず国公立の教育系に進んで大学・大学院の間に研鑽を積む、というやり方もあったのだろうが、そこはL氏の方も、一生の大選択なんだから、と構え過ぎていたところがあったかも知れない。
進学先は一向に決められなかったものの、高校時代のL氏はひたすらピアノに打ち込み、その腕前そのものは近隣では有名だった。合唱部や学校のちょっとした音楽イベントで伴奏を頼まれるのは日常茶飯事だったし、文化祭ではクラシック系の団体の間で奪い合いになったほどだ。学外のコンクールや発表会へ出場する知人・友人の伴奏者を務めたことだって何度かある。師にはさほど恵まれなかったにしろ、高校を卒業するまでは、彼のピアノライフはそれなりに充実した、誇らしい日々だったのだ。
* * *
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