第3話 欠片回収

「これが……最初の任務、か」


アカデミーの一室。俺、神田京介は、ホログラムに映し出された古びた羅針盤の写真を見つめていた。隣には秋葉大和、そして正面には腕を組んだ六本木蕾先輩がいる。


「正確には、『時の羅針盤』の欠片だ。現在、市内の郷土歴史博物館に『古代の航海用具』として展示されている。我々の任務は、今夜、閉館後の博物館に潜入し、これを『黄昏の蛇』よりも先に回収すること」


蕾先輩の説明は、いつも通り簡潔で冷静だ。だが、俺の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打っていた。潜入? 回収? まるでスパイ映画だ。


「は、博物館に忍び込むってことですか……? それって、その、犯罪じゃ……」


俺がおそるおそる尋ねると、大和が隣で青ざめている。


「だ、大丈夫だよ、京介くん。アカデミーの任務は超法規的な措置が認められてる……はずだから……たぶん……」


全然大丈夫そうに聞こえない。


「心配ない。警備システムは秋葉が一時的に無力化する。我々は誰にも気づかれずに回収し、離脱するだけだ。問題は……」


蕾先輩は、ちらりと俺を見た。


「……俺、ですよね」


「そうだ。神田、君はまだ自分の能力を制御できない。現場では私の指示に絶対に従うこと。勝手な行動は許さない」


「は、はい!」


背筋が伸びる。足を引っ張るわけにはいかない。



深夜。月の光だけが差し込む博物館の裏口に、俺たちはいた。黒い特殊素材のスーツに身を包んでいる。気分は完全に泥棒だ。


「よし、セキュリティ解除、第一次フェーズ完了! 監視カメラはループ映像に切り替え済み。赤外線センサーも一時的にオフにしたよ!」


大和が腕の端末を操作しながら小声で報告する。その指先からは、かすかにパチパチと電磁波のようなものが見える。これが彼のクロノ・アビリティか。


「よくやった、秋葉。神田、行くぞ」


蕾先輩が音もなく裏口の鍵を開け、俺たちは滑るように館内へ侵入した。ひんやりとした空気と、消毒液のような匂い。そして、暗闇に慣れた目に飛び込んできたのは、古代の土器や武具のシルエット。


「うわぁ……本物の博物館だ……」


思わず感嘆の声が漏れる。


「静かにしろ、神田。ここからは音を立てるな。展示物には触れるなよ」


蕾先輩に鋭く注意され、俺は慌てて口をつぐんだ。


展示室を進む。目標の「時の羅針盤」の欠片は、最奥の特別展示室にあるらしい。大和が端末で館内マップを確認しながら、先導する蕾先輩の後ろをついていく。俺はその最後尾だ。緊張で喉がカラカラになる。


と、その時。


「やっほー! みんな、お揃いだね!」


すぐ背後から、やけに陽気な声がした。俺は飛び上がるほど驚いた。


「うわっ!? し、渋谷さん!?」

「サキさん!? なんでここに!?」


大和も悲鳴に近い声を上げる。暗闇に慣れた目に、いつの間にか俺たちの後ろに立っている渋谷サキの姿が映った。彼女もなぜか俺たちと同じような黒いスーツを着ているが、頭には猫耳のような飾りがついたカチューシャをつけている。どこで手に入れたんだ、それ。


「なんでって、面白そうだったからついてきちゃった! ねぇねぇ、夜の博物館ってワクワクするよね! 肝試しみたい!」


サキは小声になるどころか、むしろ楽しそうに話している。


「静かにしろと言ったはずだ! どうやってここまで……いや、それよりも、なぜ君がここにいる! これはアカデミーの正式な任務だぞ!」


蕾先輩が、怒りを抑えた低い声でサキを問い詰める。


「えー? 任務ぅ? つまんない響きー。あたしは宝探しの方が好きだな! ね、京介くん、ここにお宝あるの?」


「お、宝っていうか……まあ、それに近いものを探しに……」


「やっぱり! よーし、あたしも手伝ってあげる!」


サキはやる気満々といった様子で拳を握る。


「手伝いは不要だ! 今すぐここから立ち去れ!」


蕾先輩が命令するが、サキは「えー」と不満げに唇を尖らせる。


「ケチだなぁ、蕾先輩。いいじゃん、一人より二人、二人より三……四人? の方が楽しいよ、きっと!」


「楽しくなるかは疑問だが、厄介事が増えるのは確実だ……」


蕾先輩は深いため息をつき、こめかみを押さえた。もはやサキを追い返すのは不可能と判断したらしい。


「……いいか、渋谷サキ。絶対に勝手な行動はするな。物音も立てるな。分かったな?」


「はーい、りょーかい!」


サキは元気よく返事をするが、全く信用できない。案の定、特別展示室に向かう途中、ガラスケースに飾られたキラキラした装飾品を見つけて、


「わー、これ可愛い! ちょっと触ってみてもいい?」


と言い出し、大和に「だ、ダメです! 警報が鳴ったらどうするんですか!」と必死に止められていた。本当に心臓に悪い。



目的の特別展示室にたどり着いた。中央の厳重なガラスケースの中に、古びた羅針盤の一部――欠片が鈍い光を放っている。あれが……。


「よし、秋葉、最終セキュリティを」


蕾先輩が指示を出し、大和が端末を操作し始めた瞬間だった。


「――見つけたぞ、アカデミーの犬ども。そして、『時の欠片』もな」


展示室の影が、まるで生き物のように蠢き、一体の人型を形成した。黒いローブを纏い、顔は影に隠れて見えない。黄昏の蛇だ!


「待ち伏せか!」


蕾先輩が即座に戦闘態勢をとる。


「影使い……厄介なタイプだね」


大和がバックアップに回る。俺は……どうすれば?


「ふふふ、小賢しいネズミどもめ。その欠片は、我々がいただく」


影使いが腕を振るうと、床の影が鋭い槍のように伸びて、俺たちに襲いかかってきた!


「くっ!」


蕾先輩が驚異的な身のこなしで影の槍を回避し、懐に飛び込もうとするが、影使いは自身の体を影の中に沈め、別の場所から現れる。トリッキーな動きだ。


「これでも食らえ!」


大和が端末から電磁パルスを発射するが、影には物理的な攻撃が効きにくいらしい。


「きゃはは! 鬼ごっこみたい!」


そんな中、サキだけが状況を楽しんでいるかのように声を上げた。そして、ポケットから何かを取り出すと、影使いに向かって投げつけた。


ヒュン! カラン、コロン!


投げられたのは、ただのビー玉だった。しかし、それはありえない角度で床や壁に跳ね返り、影使いの足元を正確に狙って転がった。


「むっ!?」


影使いはわずかに体勢を崩す。その瞬間を、蕾先輩は見逃さなかった。


「はあっ!」


最短距離で踏み込み、強化された拳を叩き込む!


「ぐぅっ……!」


影使いは吹き飛ぶが、すぐに影に溶け込んでダメージを逃れる。


「小癪な真似を……!」


怒りに震えた影使いが、さらに濃密な影を生み出し、部屋全体を闇で包み込もうとする。まずい、視界が!


「うわっ、真っ暗! これじゃ何も見えないよー!」


サキの声が響く。次の瞬間、ガシャン!という大きな音と、けたたましい警報音が鳴り響いた。


「な、なんだ!?」


「えへへ、間違えて消火設備のボタン押しちゃったみたい。てへぺろ!」


サキの悪びれない声。同時に、天井のスプリンクラーから大量の水が降り注いできた!


「ぐっ……水だと!?」


影使いの動きが明らかに鈍る。どうやら水は苦手らしい。


混乱の中、俺は必死に目を凝らした。水浸しの床、点滅する非常灯、そして、ガラスケースの中で鈍く光る欠片――。


その欠片に、無意識に手を伸ばしていた。指先が触れた瞬間、脳内に激しいイメージが流れ込んできた!


――影の刃が、左斜め後ろから蕾先輩の死角を突く!


「蕾先輩! 左後ろ!!」


俺は叫んでいた。


「!?」


蕾先輩は俺の声に反応し、咄嗟に身を翻す。まさにその瞬間、彼女がいた空間を鋭い影の刃が薙ぎ払った!


「助かったぞ、神田!」


「今だ、京介くん!」


大和の声。彼はハッキングで一時的に警報を止め、非常灯の光量を最大にしていた。


俺は、欠片から流れ込んでくる情報――敵の次の動きの予兆――を必死に蕾先輩に伝える。


「右!」「足元!」「次は上から!」


俺の限定的な未来予知と、蕾先輩の卓越した戦闘技術、そして大和のサポート、さらにはサキが引き起こした(意図的か偶然か不明な)混乱が噛み合った。


「おのれぇぇぇ!」


影使いは連携攻撃に翻弄され、最後は蕾先輩の渾身の一撃を受けて、影の中へと完全に撤退していった。


「……行った、か」


静寂が戻る。俺たちは、水浸しの床の上で、互いに顔を見合わせた。


「やった……やったぞ!」


俺は思わずガッツポーズをする。初めて、自分の力が役に立った。


「よくやった、神田。見事な連携だった」


蕾先輩が、珍しく少しだけ口元を緩めて言った。大和も「京介くん、すごかったよ!」と興奮気味だ。


「まあまあ、あたしのおかげでもあるけどね!」


サキが胸を張る。確かに、彼女の行動がなければどうなっていたか……。


「……とにかく、目的の物は確保した。迅速に離脱するぞ」


蕾先輩がガラスケースから欠片を取り出す。任務完了だ。


と、思ったその時。


「あ、そうだ! これ、借りてくね!」


サキが、戦闘のどさくさで壊れた別の展示ケースの中から、キラキラ光る古代の首飾りのようなものをひょいと掴み取り、自分のポケットにしまった。


「なっ!? 渋谷! 何をしている! それは任務と関係ないものだろう!」


蕾先輩が目を剥く。


「えー? だって、なんか綺麗だったし、持ってたらいいことありそうじゃない?」


サキは悪びれもなく言う。


「それは『借りる』じゃなくて窃盗だ!」


「細かいことは気にしなーい! じゃ、あたし、お先に失礼しまーす! バイバーイ!」


サキは、またしても嵐のように、どこからともなく開いていた通気口の中へと消えていった。


「…………」


残された俺たち三人は、顔を見合わせるしかなかった。


「……あの人、本当に何なんだろう……」


大和が、心底呆れたように呟いた。


蕾先輩は、深い深いため息をつき、


「……今は考えるな。帰るぞ」


とだけ言った。


俺は、手の中にある『時の羅針盤』の欠片の、微かな温かさを感じながら、あのトリックスターな少女のことを考えていた。彼女は一体、何を知っているのだろうか。そして、あの「借りていった」首飾りは、一体……?


謎と厄介事だけが増えていく、そんな予感がした。

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