第二十一話 泉地真白
メッセージの後、真白から通話で事情を聞きだした晃誠は、まず真白のマンション――『ソラティオいずみ』という名前らしい――で落ち合うことにして家を出た。
ちょうど駅を挟んで中学の学区が別れているだけで、それぞれ駅表と駅裏の徒歩圏内であるため、知ってしまえばさして遠くない。歩くのはちょっとした運動になるが、自転車ならすぐだ。
「そろそろバイクが欲しいとこか……」
マンションの駐輪場に自転車を止めると、晃誠は汗ばんだ額をハンカチで拭ってそう独りごちる。七月を前にして気温も高くなってくる時期だ。走っているうちはまだいいが、止まると風がなければ体の内側から熱が上がってくる。
「悪い、待たせた」
外で晃誠を待ち構えていたのか、すぐ駐輪場に現れた真白に声をかける。
「ごめんなさい。私、どうしていいかわからなくて」
「いいって、別に。特に用事もなかったし」
真白を駐輪場の日陰の中に招き、晃誠は本題を切り出す。
「で、早速だが俺たちにできることは二つだ。一つ目はコンビニに直接言いつける。防犯カメラの映像を確認したら一発だ。後は大人に任せる」
真白の顔色が良くないのを確認して続ける。
「もう一つは俺たちで捕まえて――ま、事情を聞いてそれからだな。店に言わなかったってことは、泉地はこっちがお望みなんだろ」
「そう……なんでしょうか」
「怒るなり、店に言いつけるなり、話を聞いてから考えりゃいいさ」
「でも、どうやって捕まえるんです?」
「それなんだよな」
晃誠は頭をかき、自転車を漕ぎながら考えていたことを伝える。
「昨夜も妹の方がパン食べてたろう。ひょっとしたら、夜のぶんをとりにまた来るんじゃねえかな」
「あっ……」
(さあて、思わぬことになったもんだ……)
突然助けを求めるメッセージが入った時は驚いた。そこまでの関係性を築いているとは思っていなかったが、去年のことなどもあり、意外と信用を置かれているのかもしれない。
話を聞けば隣に住む少年の万引きを目撃したという。
立派な窃盗であり、放置していいものではないが、晃誠の認識からすれば子供の万引きなどショックを受けるほど珍しい話でもない。
ともすればグループで組織だって行ったり、秘密基地に戦利品を隠したり。小学生くらいになれば時に大人顔負けの犯罪組織を作り上げることだってあるのだ。
ただ、盗んだのが惣菜パン一つ――おもちゃの類どころかお菓子や清涼飲料のような嗜好品でないということに多少の引っかかりを覚えないではなかった。昨夜の、菓子パンを頬張る少女の姿がよぎったというのもある。
「こんなことに付き合わせてしまって、すみません。他に近くで相談できそうな知り合いなんていなかったから……少しパニックになっちゃって」
コンビニで買ってきたペットボトルを手に、真白が頭を下げる。
「別に謝って欲しくて相談に乗ったわけじゃねえから気にするなって。飲み物もおごってもらったし」
言って、晃誠はペットボトルのカフェオレを一口飲む。
あれから一時間以上、駐輪場で二人きり、コンビニに斗虎が現れるのを待ち構えていた。
コンビニをチェックしながら時間を潰せるような場所はなく、二人それぞれ自分の自転車に寄りかかるように腰掛け、スマホを弄ったり、たまに話題を振ったりして過ごした。
「あの子供の部屋は二階で、多分エレベーターは使わないってことでいいんだよな」
「はい……二〇三号室、です。私のうちの、二〇四号室の手前で」
(いや、部屋番号までは別にいいんだけどさ)
晃誠はふっと頬を緩める。
「昨日と比べると口数が増えたのはいいけど、その敬語もやめたら? 同級生だろ」
「すみません」
「いつまでもそういう態度だと、卑屈なところにつけ込む奴が出てくるぞ。俺が悪い男で、泉地に悪いことしようと企んでる奴だったらどうすんだ」
言いながら、晃誠はわざとらしくいやらしそうにニヤついてみる。
真白はきょとんと目を見開くと、まじまじと晃誠の顔を見つめた。
「……ごめんなさい」
「それはどういう意味のごめんなさいなんだ……?」
「――あっ、来ました」
釈然としない何かを覚えながら視線をコンビニに向けると、丁度斗虎が入っていくところだった。
「俺は階段で待ち伏せするから、泉地は店の中であいつがまたやるかどうか確認して、確認できたらメッセージを送ってくれ。角や天井の防犯ミラーが使えるようならそれで見た方がいいな」
真白は頷いて足早にコンビニへと入っていった。
マンション階段の折り返しの陰で待ち構える晃誠のスマホに「やりました」という、他に何か言い方があったのではないだろうかというメッセージが入る。
やがて小走りの足音が階段を駆け上がる気配――踊り場で折り返しに飛び込んできた小さな人影を、晃誠は拘束した。
人影は驚きに悲鳴を上げ、自分を捕まえている人物を確認すると騒ぎ始めた。
「なんだよ! 誰だよお前!」
晃誠がもがく斗虎を抱え上げるように持ち上げると、シャツの裾から総菜パンが一つ転げ落ちた。
「誰だっていい。用があるのも、お前の事情が知りたいのも、あっちのお姉ちゃんだよ。泥棒少年」
踊り場の中央に進み出て階下を示すと、ちょうど真白が階段を駆け上がってきたところだった。
顔見知りを見て観念した斗虎から聞き出した事情は、次のようなものだった。
斗虎は七歳で小学二年生、妹の美鳥は五歳。
母親を怒らせてしまい、今日の食事や食事代を用意してもらえなかったこと。
そういうことはごくたまにあること。
自分は我慢できるが、妹はお腹が減ると泣くので妹のぶんだけはどうにかしたかったこと。
怒られなくとも母の仕事が忙しくて食事が不規則になることは多く、食事代をもらった時に節約して備えているのだが、今回はそれも尽きたために盗んだこと。
聞いているうちに真白の顔色は青ざめ、晃誠は腹が立ってきた。
「警察にいってもいいけど、その前に美鳥には何か食べるもの用意してあげて欲しい」
そう言った斗虎の頭を晃誠は撫でる。
「遊びやワガママでやったんじゃねえ、そういう事情なら個人的には怒りづらいんだよなあ。悪いことしたってわかってるんだろ。俺が弁償してやるから、まず一緒に謝りに行くか。お巡りさんは呼ばないように頼んでやるから。ああ、でも母親に伝わらないようにってのは難しいな……」
「君が行く必要はないよ」
階段の上から降ってきた言葉を仰ぎ見ると、六十過ぎと思われる男が下りてくるところだった。短めに刈り込んだゴマ塩頭の、若干ずんぐりとした体型の男だ。チノパンにポロシャツというこざっぱりした姿。
「お祖父ちゃん……」
その呟きに、晃誠は思わず真白と男の間で視線を往復させた。
「下のコンビニは知り合いがやってる店だからね。今さっきその知り合いから、若い男と逢い引きしてた真白が、今度は店の中で何か怪しい動きをしてるって電話が来たところだよ」
祖父に苦笑され、真白は真っ赤になってうつむく。
「聞いたのは途中からだがおおまかな話はわかった。店にはこっちから話をつけておくよ、警察沙汰にはならないようにね。その代わり最初からもう一度詳しい話を聞かせてくれないかな」
真白の祖父は斗虎の前で屈むと視線を合わせた。
「お母さんが帰ってきたらちょっと話したいことがあるから。ひとまず妹さんを連れてうちに来るといい。大丈夫、パンの万引きのことは言わないようにするから」
斗虎は戸惑っていたが、やがて頷いた。
「さて――」
視線を向けられ、晃誠は居住まいを正した。
「初めまして、古峰晃誠です。泉地――真白さんの同級生で、部活仲間です」
自分の風体がどんな人間にどのように映るかくらいはある程度理解できる。かといって媚びるようなこともせず、自然体で軽く頭を下げて挨拶した。
ファッションは自己責任――それで晃誠は納得している。
自分の装いがどんな層にどのように評価されるか想像もできずにやっているならただの馬鹿だし、どう判断されるかわかってやっているのに泣き言や不満ばかり言うのは幼児性に過ぎない。
嫌ならやめるか、理解を求める個人的な努力が必要だろう。
性別や国籍、人種、肌や地毛の色といった、自分では選ぶことのできない生まれに属するものや、後天的なものなら望まぬ事故や誰かの悪意で得たり失ったりしたものとは違うのだ。
もちろん限度というものはあるし、どう思われようが仕方ないとまでは言わないが、晃誠はおおむねそう考えていた。
ただ、そのせいで他人――今回は真白――に流れ弾がいくようなことがあるのも不本意なので、付け入れられることのないよう振る舞う責任も自覚している。
「ああ、初めまして。真白の祖父です、よろしく。泉地
相手はむしろ面白がるような視線で晃誠を眺めつつ、そう挨拶を返してくる。
「真白が世話になってるようで――今日も面倒をかけて申し訳ないね、ありがとう」
にこやかな笑顔に、晃誠は若干の圧力を感じた。
◇◆◇◆◇◆◇
何かあればまた連絡してくれ、と言い置いて帰った晃誠を見送って、真白たちは部屋に戻る。
「見た目のわりにしっかりしてそうな若者だったな」
斗虎に対する態度を見ていたからか、祖父は晃誠にさほど悪い印象を持たなかったらしく、真白もほっとした。
祖父母は兄妹に軽食をふるまって、夕方になる前には家に帰した。
斗虎から伝言を聞き、美猫が泉地家を訪ねてきたのは午後七時過ぎだった。
「夜分遅く申し訳ありません。子供達が面倒をおかけしました」
ひたすら頭を下げる美猫を、祖父母がまあまあと宥め、子供達の扱いについてやんわりと注意する。
美猫は恐縮した様子で丁重に礼と謝罪を述べ、「また後日改めてお礼にお伺いします」と、そそくさと隣――二〇三号室へと戻っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
(何が『母親一人では何かと大変なこともあるかと思いますが』よ!)
美猫は胸の奥でぐつぐつと煮えたぎる物を抱えながら部屋に戻った。
(先祖代々の土地にマンションやアパート建てて悠々自適の勝ち組ジジババに私の苦労がわかるわけないでしょ!)
「ママ!」
「うっさい」
玄関を抜けてリビングダイニングに入ったところ、無邪気に駆け寄ってきた美鳥を反射的に突き飛ばしてしまった。
尻餅をついて倒れ込み、何事が起こったかわからないという様子で目を見開いてこちらを見上げる娘を見て、罪悪感がこみ上げる。
(そうだ、悪いのは斗虎だ。お兄ちゃんなのに、余計なことして迷惑ばっかりかけて!)
一瞬で息子へとはけ口を転嫁してしまう。
「斗虎!」
おどおどとやってきた斗虎の頭に、今日は拳骨を叩きつける。斗虎は頭を押さえてしゃがみこんだ。
「あんた何やってんの。他人様の家でご飯なんか食べさせてもらってんじゃないわよ! いつの間に乞食になったのあんたは! お母さんに恥をかかせて! なんでそういうことするの!」
隣近所に聞こえないよう、できるだけボリュームを抑えて怒鳴る努力をすると、余計にドスの利いた声になる。
「だって……」
「だってじゃ――ないっ!」
美猫は斗虎のTシャツの背中をまくりあげると、背中を何度も思い切り叩いた。
既に言い訳のきかない一線を越えている自覚はあったが、だからこそ気が昂ぶり、癇癪も止まらない。
「ママ、やめて! やめてよー!」
美鳥がついに火がついたように泣き出した。
◇◆◇◆◇◆◇
『今回の件、もしまだ気になるようなら汐見にも相談していいか?』
美猫を見送った後、真白に晃誠からメッセージが届いた。
『あいつの母親、小学校の教師だそうだから。何か知恵でも借りられるかなって』
真白は暫く考え、「おまかせします」と返事を送る。
送った後で、自分から巻き込んだ話なのに無責任すぎないかと後悔する。
そうしているうちにどこからか、くぐもった子供の泣き声と、低い怒鳴り声がかすかに響いてくる。またお隣だろうかと、真白は戦慄した。
軽く動悸がして、呼吸が苦しくなる。
母子家庭を見て思い出すのは、自分の幼い頃――母親とのことだ。
「こうなると女なんてどうしようもないわね、幸せになんてなれないわよ。あなたも可哀想に。女に産んでしまったことだけは申し訳なく思ってるわ」
真白の両親はいわゆる駆け落ちカップルの類だった。
父とは母が東京の大学へ出た時に知り合ったという。
在学中に妊娠が発覚したが、バンドマン崩れのフリーターだった父との結婚に祖父母が難色を示したため、母は売り言葉に買い言葉で絶縁宣言。大学も辞めると、父に誘われて彼の地元に近いという福岡で結婚生活を始めた。
父は最初こそ真面目に働いていたが、やがて新しい仕事を探してはすぐ辞めるということを繰り返すようになったという。
両親が離婚したのは真白が小学校に上がる前だったが、二人がよく喧嘩をしていたという記憶は残っている。
「真白、ママはこれから真白のために自分の人生を使わなきゃいけないの。だから真白もママの言うことは絶対に聞いて、あまり手をかけさせないでね」
不幸なことに、真白は幼いなりに母親の立場を理解するだけの聡明さを持ち合わせていた。
そしてもっと不幸なことに、真白は母親の感情を正面から受け止めようとするだけの素直な優しさも持ち合わせていた。
「真白、愛してるわ。あなたがいるからママは毎日頑張れるの。あなたが幸せでいてくれればそれでいいのよ」
「何よ、遅くまで寝こけてた上に朝ご飯まで食べ残して、いいご身分ね。こっちは朝早くから夜遅くまで働き通しだって言うのに。子供なんて恩知らずでいい気なものね。はいはい、ママが我慢すればいいんでしょう」
「大丈夫よ。ママがついてるから、困ったことがあったらなんでもいいなさいね」
「いつまでたっても甘ったれで、本当女の子って駄目ね。男の子だったらもう少し頼りになったかしら」
「あなたは女の子なのに愛嬌ってものがなくて困るわ。もっと笑うなり泣くなりしてみせなさいよ」
「なに下手くそな愛想笑いしてるの。そうやって人の顔色ばっかりうかがって、気持ち悪い子」
「子供はいいわね、泣けば済むと思ってるんだから。他人の同情を買って生きていこうって魂胆が見え見えなのよ、いやらしい子ね。いつもいつも、泣きたいのはこっちよ」
「お誕生日のプレゼント、欲しがってた熊のぬいぐるみよ。大事にしなさいね」
「ぬいぐるみなんて捨てちゃったわよ。どこにでも持って歩いて、ボロボロにしちゃって。買ってあげなきゃよかった」
「何モジモジしているの、言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「黙りなさいよ。ああ、子供のくせにママに文句があるってわけ? あなたも私を悪者にするつもりなんだ」
「そう、クラスで一番最初に九九が最後までできたのね。凄いじゃない」
「テストで百点だった? 小学校の成績なんて自慢できるようなもんじゃないわよ。そもそも女が勉強できたところでこの国じゃどうしようもないんだから」
「お洋服、よく似合ってるわよ。ほら、リボンが可愛い」
「何してんの、早く着替えちゃいなさい。可愛い子ぶって似合いもしないそんなヒラヒラした服着ようとするから! ほんと愚図。ただでさえ女なんて損なのに、のろまで可愛くもないんじゃ男も寄りつかないわよ。女の人生なんて、捕まえた男で全部決まるのにね」
「真白、あなたはママの宝物だからね」
「ああ、あなたさえいなければ私も……」
その日その時の気分でころころと変わる母の言葉と反応。
言われた通りにしても正解はなく、かといって迷って動けないでいればのろまだ愚図だと叱られる。
矛盾するそれらに振り回され、真白は自分の言葉も気持ちも見失っていったが、むしろ母の心の悲鳴は相変わらず痛いほどに感じ取っていた。
あの夜、母は泥酔して帰宅した。酔って帰ってくること自体そう多くはなかったし、あそこまでの深酒はそれこそ滅多なことではなかった。
「もういやぁ……なんで私ばっかり、私ばっかりこんな人生なの……」
玄関で泣き崩れ、子供のようにぐずつく母に言われて、真白はコップ一杯の水を持っていく。
母は水を飲み干すと、コップを放り投げて叩き割った。
「あなたさえいなきゃ!」
びくりと怯える真白に母は言い募る。
「あなたさえいなきゃ、こんなことにならなかったのに! 私が今ここでこんなになってるのは全部あなたのせいよ!」
こういうとき、真白はただ謝ることしか知らない。
「――ごめんなさい。いて、ごめんなさい」
母はそれを無視して独り言のように続ける。
「もう、最悪……大っ嫌い、あなたも! あたしも! 大っ嫌い! 大っ嫌いよ! うう……ごめん、ごめんね、真白……。もう帰るぅ、もう家に帰ろう……お父さん、お母さん……」
母はそのまま玄関で気を失うように寝てしまったが、十歳にもなっていない真白には抱えて移動させるだけの力もない。
真白は割れたコップを片付け、寝室から毛布を持ってくると母にかける。そして自身もタオルケットにくるまり、その場で母に寄り添って眠った。
(ごめんなさい。いて、ごめんなさい。いさせてください、ごめんなさい)
明くる朝。真白が目を覚ますと、母の体は冷たく、固くなっていた。
急性アルコール中毒という言葉を知ったのは、後のこと。
その後、真白は母が連絡を頑なに拒んでいた祖父母に引き取られて今に至る。
自分がもっとしっかりした、頼りになる存在だったら、母はまだ生きていたのだろうか。男の子に生まれていたら、母を助けられたのだろうか。
それとも、自分が生まれてきたこと、存在していること自体が間違いだったのか?
真白は、母を助けられなかったことを今でもずっと後悔している。
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