第十話 西東南の教師達
「いっつも悪いねー、古峰くん。準備室でお茶でも飲んでいって」
中間テストを終え、五月も下旬に入る頃の放課後のこと。
輪転機で印刷したばかりの授業用プリントの束を抱えた晃誠を、印刷室の扉を閉めながら女性教師がねぎらった。
ライトグレーのセットアップに、グレージュカラーの髪を低めの位置でフィッシュボーンに編み込んだ、若い教師だ。
「言われなくたってちゃんと部屋まで運ぶよ、先生」
「あっ、古峰殿~。我をばな忘れたまいそ~」
とてとてと擬音がつきそうな様子で小走りに追いついてきた教師に、晃誠は歩調を合わせた。
国語教師の
晃誠も去年今年と言語文化や文学国語を教わっている。一年の頃からたまに雑用を申しつけてくる存在で、タイミングや空気によっては晃誠もそんな風に呼ぶこともあった。
身長は百六十はあるだろう。ただ、骨格が華奢で肩幅も狭く、手足も細いシルエットは、強めの風でも吹けばどこかへ流されていきそうな雰囲気があった。運動も苦手だという話で、立っても歩いてもなんだか頼りない。
逆らったりできずに使いっ走りのような身に甘んじている理由のいくらかは、そのか弱い印象に騙されたからだと晃誠自身は思っている。これで話してみるとだいぶ太い性格をしているのだが。
敷地が広く、校舎も余裕のあるつくりをしている西東南高校は教科全てに準備室が用意されている。英国数あたりの教科準備室は比較的珍しい存在だろう。
教師達には好評で、資料置き場や教科会議、職員室にいたくない時など重宝されているらしい。
国語科準備室では国語科主任の男性教師、安藤が中央に並べた長机の奥で、一人ノートパソコンとにらめっこしていた。
剣道部顧問で、本人も腕前は六段。年齢は四十代半ば過ぎ。十年くらい前までは自身も全日本剣道選手権出場を目指していたという。
他にも柔道部顧問は社会科教師、競技空手部は数学教師でしかも女性と、この学校は体育教師以外に武闘派が揃っていたりする。
安藤は晃誠が一年の時の担任であり、ことさら目立つ問題児がそういないこの学校において、『古峰担当』のような空気が既に醸成されていた。
上級生との暴力的なトラブルにより訓告と謹慎処分を受けてから、晃誠はたびたびこの準備室で指導という名目でお茶の時間を過ごすようになっている。
既に他の教師の管掌にあると思えば、わざわざ干渉しようという教師も出てこない。風よけになってくれているということに気がつかないほど、当時の晃誠も愚かではなかった。
晃誠は長机の端にプリントの束を置く。それぞれ使う学年も違う複数種類のプリントを一度にまとめて印刷したため、そこそこの量があった。
「香苗ちゃんさ、たまには他の奴に頼んでもよくない?」
部屋の隅でお茶を用意している国見に向かって言う。
「女性教師が男子生徒に媚びて侍らしたりしたら、各方面からの信用に関わるでしょ。問題児を安藤先生の権威を借りて指導している体裁でこき使った方がいいの」
「ええー……この教師、しらふで目の前の生徒を問題児よばわりしたよ……」
「――酒を飲んで生徒と接してたらその方が問題だな」
長机の奥から安藤の声が飛んでくる。
「よろしければ安藤先生もお茶おいれしますよ」
「あっ、ではお願いできますか。ありがとうございます」
『記憶』が晃誠にもたらした変化は情緒面だけに留まらなかった。いや、情緒の変化がそれをもたらしたのかもしれないが、以前よりは色々と見えるようになったという自覚がある。
例えば目の前の教師達について、先月までは授業で見る以外の姿をあまり想像したことがなかったが、今はそうでもない。
「段取り八分、仕事二分」「準備九割、実行一割」といった言葉はどこで聞いたか既に憶えていない――『記憶』によるものであるかもしれない――が、一般に仕事というのはたいてい人目につくことのない事前の計画とか準備作業がその多くを占める。
そういうわかっているようでわかっていなかったことが晃誠にも掴めてきた。
教師の授業の背景にも見えない準備や段取りがあるだろう。
毎日の授業のための自分の勉強や教材の準備、スケジューリングとその微調整。連日大小の会議とそのための資料作り。保護者や地域住民、業者との折衝。学校のイベントなど運営面にも参加する。
そうしたホワイトカラーとしての教務作業に加え、部活動顧問となれば朝晩言うに及ばずだ。生徒一人一人の受験や就職といったことも通年で考えて並行的に様々な作業を進めていく。
その隙間を縫い、彼らは今こうして自分のような問題生徒にも個別に目を配っているわけだ。
(ありがたいというより、申し訳ないと感じてしまうのが、俺のこじらせてるところかな。わかっていてもなかなかどうしようもないところも含めて)
朝礼や式典における校長訓話だって、毎回毎回仕事の合間にネタ本をひっくり返し、そこからオリジナリティの一つも出るように話を練っているのだろう。
(あれっ。それはやめた方が校長も俺たちもWin―Winじゃないのか)
「どうかした? 古峰くん」
指導用に用意された小テーブルに湯呑みと個包装のどら焼きを置き、差し向かいに座った国見がぼんやりしていた晃誠の顔を見てそう言った。
「いや……十年後、俺も先生くらい大人になれてるのかちょっと不安になっただけですよ」
「なに、本当にどうしたのいきなり」
国見はぎょっと目を見開いて体を後ろに引き、こちらをしげしげとながめる。そして姿勢をただすと両腕を組んだ。
「でも言っとくけど、先生今年で二十六だから。君とは九歳差だから。さりげなく一年盛らないで欲しいんだけど?」
「……そりゃ、すみません」
謝ると、国見はくっくっと喉を震わせる。
「古峰くん、この春から物腰というか、態度も表情もずいぶん柔らかくなったよね」
「あー……。香苗ちゃんも知ってんじゃないの、うちの事情。一年にも関係者がいるんだし」
「聞いてはいるよ。古峰……睦希さんも言文は私が受け持ちだし」
「すごくいい人達だからさ。そこでいつまでも俺だけ
『記憶』のことなど説明もできないので、こう言い張るしかない。全くの嘘というわけでもなし。
「春休みの間に大人になったんだねえ……あの錆びたナイフのようだった古峰くんがねえ……」
国見は何かを噛みしめるようにうんうんと頷く。
「錆びたナイフってなんだよ」
そう言って、晃誠はため息をつく代わりに肩をすくめた。
「――で、高峰くんのその心情の変化には、姫萩さんも関わってるのかな?」
「……そっちに話がいくのか」
上目遣いにからかうような国見に、晃誠は右手で顔を覆い、天を仰ぐ。
「先日からお昼を一緒に食べたりしてるって噂。あなたたち二人とも目立つから、すぐに職員室にまで回ってくるわよ」
「言っておくけど、別にそういう男女のつきあいはないですよ。この間、トラブルの解決を手伝って縁ができただけの話なんで」
「――そっ。恋バナじゃなかったのはちょっと残念だけど、親や教師にもなかなか頼れない悩みもあるだろうから、そういう友達がいるのはいいことだわ。姫萩さんにとっても、古峰くんにとってもね」
「教師が生徒に妙な話を期待するなよ……」
「あら、別に全然妙な話じゃないわよ。イケメンとか優しいとか、趣味や話が合うとか足が早いとか、きっかけや理由はなんでもいい。単純に『好きだー』って気持ちだけ抱えて、まっすぐ恋愛できるのなんてそれこそ若いうちの特権なんだし」
国見は手にとった湯呑みのふちを指先で軽くこすった。
「十代くらいに健全にやっておくべきそれをすっ飛ばすと、色々と拗らせることもあるんだからね? 体だけが目的になってそれ以外の意味がわからなくなったり、お金や地位みたいなステータスしか興味がなくなったり。そんな哀しきモンスターなんて探せば世の中にいくらでもいるんだから」
晃誠としてはこの手の話は中学時代のとある失敗をほじくり返されているようで辛いし居心地が悪くなる。とうぜん国見はそんなこと露ほども知らないとわかってはいるが。
ただ、こういう時に「俺そういうの興味ないんで」とでも言えば、どんなげんなりする反応が返ってくるかは想像に難くないので、我慢できるうちは黙っている。
「そういうわけで先生としては、あなたたちにはまず気持ちというものを重視したおつきあいを経験して、学んで欲しいわけですよ。焦ってまで絶対やれとは言わないけど。例えば女子のお化粧だってそうなんだけど、高校を出て、大学に入ったり就職したらいきなり全解禁って言う方がなんでも危なっかしいでしょ。大人の目が届く範囲にいるうちにある程度触れておいて欲しいこともあるの。行き過ぎない程度にね」
そういえばこの学校は女子の化粧に関しても比較的緩い。だからといって派手な生徒も少数だが。
ネットでも情報が行き交っている、いわゆる『スクールメイク』にしろ、特に女性教師であればバレないことなどありえないわけで。この学校については校風もあるだろうが、よそでも国見のような考えの教師は意外と多いのかもしれないと晃誠は思った。
「まあ、節度を保ってというか――どうせダメと言っても止まりやしないんだから、見えないところでやってくれという行為もあるにはあるけどね」
身も蓋もないことを言って、国見は茶をすすった。
「知りませんよ、そんな調子で放任して」
「うちの学校は男子は大人しい方だし――」
こちらのくすんだ金髪にまっすぐ向けられた国見のそれを受け止め、晃誠も視線を返す。
「なんか言いたいことあるなら聞きますよ」
「べつにぃ。どっちかというと、女子の方が心配にはなるかな。やっぱり外からの誘惑が男子より多いし、被害者にもなりやすいから」
言いながらどら焼きを開封する国見を見て、晃誠もどら焼きを手に取る。
国見は続けた。
「私くらいの年齢になれば、一回り離れてようが二回り離れてようが当人達で納得しているなら好きにしろって感じだけど、若いうちは三つ四つの年齢差でも大きいでしょ。それだけで高校、大学、社会人と所属ステージもがらりと変わっちゃう。こっちとしては気が気でないわけよ」
そこで国見は振り返り、部屋の奥に声をかける。
「――その辺どう思いますか、年頃の娘さんもいる安藤先生」
「えっ、私ですか」
安藤は突然話を振られて頓狂な声を上げたが、一応こちらの会話は聞いていたらしい。
「そうですね……。私が子供の頃の話ですが、地元にあまり評判がいいとは言い難い女子高があったんですよ。で、放課後から部活終わりの夕方にかけて、周辺に路上駐車の車がずらりと列をなすんです。時間帯的には大半が大学生だったのかな。携帯電話が普及してなかった時代だから待ち合わせも簡単じゃなくて、男が迎えに来る姿も目立ったわけです。今考えるとなかなかキツい光景だったんだなあと」
「ああ、教師かつ父親になった今じゃ、自分の生徒や娘に置き換えて心配になっちゃうってことすか」
晃誠の言葉に安藤はうーんと煮え切らない様子を見せる。
「古峰の言うそれもあるが、違うことも考えるな。――保護者はもちろん、その光景を見た近所の人達から連日どんな苦情が学校に殺到していたことだろうかと。とうぜん警察経由もあったろうなあ」
「あっ、やめてください安藤先生。想像して胃がキュってなったじゃないですか」
国見がお腹を押さえて呻いた。安藤は苦笑して続ける。
「今はスマホやSNSがありますし、ネットに場を移して人目につかなくなっただけで、たぶん生徒達の現実はあの光景とあまり変わってないどころか、世代差や地域差を超えた繋がりはもっと混沌としてるんでしょうね。もう止める手段はないでしょう。教師にはだいぶ胃の痛い話ですが」
「ですよねえ……」
教師二人はそろって重い空気に飲まれた。
「先生達はやっぱり生徒が年上というか、大人とつきあうのは良く思わない?」
晃誠の質問に、二人は顔を見合わせる。
口を開いたのは国見だった。
「そうね。まずこれは一般論というか、教師という立場を踏まえた私個人の意見として聞いて欲しいんだけど」
「それはわかります」
「さっきも少し触れたけど、若ければ若いほど年の差というのは大きく感じるし、相手が自分よりも大人だと思えば受ける影響力も強くなるわよね」
「でしょうね。――俺みたいなのだって今ここでこうして、神妙な顔で先生の話を聞いてるわけだし」
大人が相手であれば子供は自然と受け身になるし、その言動に影響も受けやすい。
なにせ相手は『大人』なのだ。未熟な子供の自分より上の経験の持ち主であり、自分より先んじた、正しい存在なのである。そういう心理的な力関係が無自覚的に構築される。反発を感じるのだって、結局は同じ作用の鏡映しだろう。
晃誠としても、この時点で既に恋愛的な交際対象としては、あまり健全とは言えない関係なのではないかという気もする。
同年代の、精神的に対等の相手とのつきあいと比べ、かなり一方的に人生観、異性観、経済観、セックス観といった様々な価値観を強く刺激され、感化されることになるだろう。染められるとか、相手が悪ければ、歪められると言ってもいいのかもしれない。
(ま、魅恋みたいなやつもいるけどな)
「その子のそれからの人生にも関わる大きな影響を与えることになる。そういうことを十分に理解して、教え導いて手解きできるような大人ならいいかもしれないけど、そもそもそんな殊勝で人格者の大人が、十代の少年少女にうまうまと手を出すと思う?」
「……珍しいケースになるんじゃないですかね」
晃誠がそう答えると、国見は大きく頷いた。
「というわけで、先生はあまり若いうちから……殊に十代においての年の差恋愛に関してよくは思っていません。具体的に何歳差からアウト、何歳になればセーフ、とも言い難い話なんだけど」
それはそういうものだろうと晃誠も思う。法だって十八歳が成人年齢とされているが、実際はもっと色々と、年齢ごとに様々な規制がある。精神に関して言えばここだという線引きは肉体よりもさらに難しいだろう。
「あと、タイミングもあるわね。例えば大学一年や新卒社会人一年目を狙って近付いてくる先輩なんかは正直あれだし。慣れない環境で不安なところに、拒絶しづらい立場からつけ込んでくるようなやり方っていうのはね。――やっぱり年の差とか関係の非対称性そのものより、そこに乗っかる人間性の方が問題なのかな……」
何か過去に思うところでもあるのか、国見は少し考え込むように宙を睨んだ。すぐに晃誠の視線に気付いて咳払いし、居住まいを正す。
「ただね、世の中は広いし、何事も常識を飛び越えてうまく回ってる変わった関係の人達もいるから。あんまり堅苦しい杓子定規な考えで、古峰くんの受け容れられる世界を狭めては欲しくないとも先生は思ってます。これからいくらでも原則の外にいる、例外の人達に出会うこともあると思うの。もちろん法律の範囲内でね」
国見は晃誠の目をまっすぐ見つめ、言い聞かせるように語った。
「ずいぶん慎重な言い方しますね」
「教え導いて手解きする立場の大人だからね。――あっ、もし古峰くんが私のこと口説くつもりならそれはあなたも一人前の大人になってからお願いね。教師と生徒っていうのは保護者と他の生徒への裏切りになるし」
「そりゃありえないよ。だって俺が一人前になる頃には香苗ちゃんはさんじゅう――あががっ」
にんまりと笑みをはりつけた国見に、肉付きの薄い頬をつねられて晃誠は悲鳴を上げた。
「安藤先生くらい教職も長いと、教え子と結婚した教師の例も直接知ってそうですけどね」
「そうやっていちいち私に振るのやめてもらえませんか。まあ知ってますけど。――私個人はおおむね国見先生と似たような見解です。あえて何か言うなら、若者が大人やその世界に憧れて近づきたがるのはもうこれは仕方のないことですし、健康な反応なんでしょう。ですが、それで悪い大人の食い物にされるようなことだけは看過できません。それくらいです」
(悪い大人の食い物ね……)
晃誠は頬をさすりながら、ここのところのモヤモヤについて考えた。――気持ちがまとまってきて、少しだけスッキリしたかもしれない。
「香苗ちゃんは堅苦しいって言ったけど、教師はそのくらいの方が子供を預ける親としては安心するもんじゃない? ――ええとその、俺もお二人が自分の先生で良かったなって話なんだけど」
改まって咳払いし、晃誠がそう言うと国見は驚愕に目を見開き、口元に手を当てた。
「本当にどうしちゃったの古峰くん……。飢えた野良犬のようだったあなたが……」
「だからなんなんだよその表現」
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