第七話 姫萩魅恋
姫萩魅恋が世間で言う夜遊びを始めたのは、中学二年の夏休みの頃のことになる。
まずきっかけの元を辿れば、シングルマザーの母が知り合いの経営するヘアサロンを手伝いに東京へ行くことになったことだろう。
小学校卒業とタイミングが重なった魅恋は、思い切って母についていくことにした。四つ上の姉、
東京では忙しい母とのコミュニケーションは減り、いつしか母娘の賃貸マンションには母より少し若い男が恋人として出入りするようになった。
発育の早かった魅恋はその男の視線に嫌悪感をおぼえ、逃げ出して遅くまで駅前などを徘徊するようになったのが始まりだ。
そのうち男は母に暴言や暴力を浴びせるようになり、余計に魅恋は外で過ごす時間が増えた。
――後に聞いたところによると、離婚した魅恋の父も似たような傾向の男であったらしい。
母がなぜそんな男とつきあっているのかさっぱり理解できなかったが、皮肉なことに逃げた先で魅恋がつきあった男も、いつしか魅恋に心ない当てこすりをぶつけ、腹が立って反論すれば手をあげてくるようになった。
そうなれば魅恋も冷めて男から離れるのだが、相手は泣き落としをしてすがるか、それが効かなければ怒って追いかけてくる。
そういう時には、新しく他の男を作って盾にすることも覚えたが、これはあまり上策とはいえなかった。騒ぎが大きくなることもあったし、困ったことに今度はその男が魅恋をひっぱたいたり他の友人に会わないように脅迫したりし始めるのだ。
一年ほどそんな生活が続いたある日、魅恋は酒に酔っていた母の恋人から逃げ損ねてしまう。抵抗したが殴られ、組み敷かれたところで母が帰ってきた。
そして母のあげた絶叫がこの生活に幕を下ろす合図になった。
『すぐにまたちゃんとしてくれると信じてたのに……』
母娘で話し合って地元に戻ることを決めた際、男に関して一度だけ言及した時の母の言葉がそれだった。
◇◆◇◆◇◆◇
ラーメン屋で魅恋は結局、晃誠に翌日の約束を取り付けた。荷物の回収についてきてもらいたかったからだ。いざとなるとやはり恐怖はある。
(ま、腰抜かしてたのはもう知られちゃってるわけだし……)
昨年、三年ぶりに戻ってきた地元だが、今の自分は大分変わって見られるのではないかという自問が頭を離れず、小学校の頃の友人達とは連絡を交わしていない。
スマホを買ってもらったのは引っ越すときで、小学校で特別親しかった友人達は登録していた。ただ、家で起こった悩みは相談しづらく、連絡はいつしか途絶えがちになっていった。
戻ってきてからの交友の中で一番頼れそうなのが、同級生とはいえ昨日連絡先を交換したばかりの男子という現実にうちひしがられる。
学校では特定のグループには所属しておらず、特別親しい相手は作れていない。
バイト先のコーヒーチェーンの仲間も基本的に女子だ。グループチャットで話したり、たまにカラオケや買い物に行く程度のことはあっても、あまりプライベートに踏み込んでいない。
周囲に思われているほどいもしない男の知り合いも、こうしたトラブルで頼るには若干不安が残る。
それ自体が悪いわけではないものの、妙な好意や下心なしにフラットな感情で接してくれる相手の方がこういう時は信頼できると思っている。
女の前でいい格好しようという意識が強い男は見ていて可愛いかもしれないが、トラブルを増幅することはあっても解決する能力には欠けていたりする。そんな男に頼って後悔した経験もないではない、その時は頼らざるを得なかったわけだが。
その点で言えば、古峰晃誠という男子は不思議と問題がなさそうな相手に思えた。単純に心配はしてくれているようだが、それ以上の余計な感情的入れ込みはあまりないようで、こちらも身構えずに自然体で済む。
「おーい、こっちー」
杢グレーのスクールカーディガンを羽織った晃誠が改札を出てくるところを見つけ、魅恋は手をあげて呼びかけた。
学校から一緒でも良かったのかもしれないが、なんとなく気を遣って西東駅で落ち合うことにしたのだ。
歩みを早めて魅恋の元へやってきた晃誠は、あくびを噛み殺し、目をしばたたかせた。
「待たせちまったか」
「ううん、大丈夫。――昨日の今日でほんとにごめん、眠い?」
下から覗き込むと、晃誠は両手で自分の頬を叩き、顔面をごしごしと擦った。
「昨夜はちょっと調べ物と考え事があってな。手伝うのは俺が言い出したことだし、素直に人に頼れるのは別に悪いことじゃないだろ。そっちこそ眠れたのか」
「ありがと。ちょっと興奮して寝つき悪かったけど、それも今日までだよ。もしヤツがいたらあたしが自分で相手するから、そこにいてくれるだけでいいからね」
「あいよ。お前がそう言うなら、相手が暴れたりしない限りは俺の出る幕じゃない……。というか、そうなったら取り押さえていいかげん警察呼ぶからな。警察に知り合いもいるし」
晃誠の言葉に、魅恋もそこには同意して頷いておく。
「平気平気。あの手の輩はどんだけキレ散らかして見せても姑息な計算ずくで、第三者が見張ってるところで手を上げられるような度胸ある奴じゃないって。それ以外のことだったら効かない方なんだ、あたし」
「怖けりゃ手でも握っててやろうか」
「ばーか」
笑って、魅恋は晃誠の胸を拳で突いた。
男のアパートは駅から魅恋の足で徒歩十分少々。マンションを背景に住宅が増えてくるあたりだ。
月極駐車場の裏手にある二階建て鉄筋アパート。
魅恋がその傍の駐輪場を覗くと、見覚えのあるバイクがあった。
「あちゃー……いるっぽい」
「そういや何やってる男か聞いてなかったな」
右のてのひらで額を覆う魅恋に、晃誠が今さらな疑問をぶつけてきた。
「バイト先で声かけてきた大学生。今年ハタチになるんだったかな。名前はヨウジね」
「名前はどうでもいいけど、そのヨウジパイセンは女子高生相手に何やってんだかさぁ。……部屋は?」
「一階の端、こっち」
魅恋は晃誠と連れ立ってドアの前に立ち、一度軽く深呼吸をしてからインターホンを押す。
念のため、スマホの録音アプリもオンにしてポケットにしまう。晃誠という他人を巻き込んでしまっている以上、慎重になってなりすぎるということはない。
ばたばたと足音が聞こえてきて、男の「はい、どちら様?」という声とともにドアが開いた。
ドアの隙間から顔を出したのは面長の男。ヘアスタイルは無造作なツーブロックベリーショートで、清潔感あるスポーツマン風の印象である。じっさい中学高校と陸上で短距離をやっていたらしい。
男――ヨウジは魅恋を見てドアを大きく開けた。
「……魅恋かよ。メッセも通話も無視して何やってんの? てか勝手に入りゃいいじゃん」
魅恋は大きく息を吸い、
「もうあんたの部屋に入る気ないから、あたしの荷物だけ持ってきてくれる?」
と、ことさら固い声で告げてやる。
「――は? なに言ってんの?」
「別れるってこと。荷物だけ持ってきて」
「いきなりなんだよ。キレて人のこと蹴っ飛ばしておいてさあ。謝りもせずに喧嘩腰でそれはなくない? そうやって子供だから俺がいつもいつも注意してやってるんだよね? 俺だから面倒見てやってるけど、高校生じゃそろそろそういうのは通用しないから反省したほうがいいよ」
まともに取り合っていられない、再び繰り返す。
「先に殴ったのあんただから。それより荷物持ってきてもらえる?」
「なあ――」
ヨウジはサンダルをつっかけて踏みだし、そこでようやく半ばドアの陰になっていた晃誠の存在に気付いたようだった。一瞬ぎょっとして晃誠を見上げ、魅恋に視線を戻す。
ヨウジも別に身長が低いわけではないが、晃誠とは十センチばかりの差がある。幅と厚みも相応に。
「なんなのコイツ。まさかもう新しい男ってことじゃないよね、それって浮気じゃないの?」
「立会人。あんたが大騒ぎしないように第三者に頼んだことを察してほしい。で、荷物なんだけどさ」
ヨウジはため息をつき、芝居がかった様子で軽く手を広げる。魅恋は後ろに下がりたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「あのさあ。別れ話ってさ、こうやって関係ない奴呼んでプレッシャーかけてやるもんじゃないよね。相手のある話で、片方を悪者にして追い詰めるのはフェアで誠実なやり方じゃないし、非常識だと思わないの? 昨日のことで俺を悪者にするつもりなら、誰がそうさせたのかって原因や責任をちゃんと考えたことある?」
「うん、問題は昨日に始まったことじゃないし、暴力まで振るってきたような非常識な男が相手だからそこは多少はね? それで荷物の話だけど――」
ここでヨウジは魅恋を無視して晃誠に矛先を向けてくる。
「その格好、君も高校生? どうせ魅恋に俺の悪口を一方的に吹き込まれてその気になっちゃったんだろうけど、何で他人のことにしゃしゃり出て来てるわけ? そんな金髪の頭してイキってるガキには常識とかねえからわかんねえのかな」
話を振られて、晃誠が一歩動いて魅恋の前に出る。止める間もなくヨウジの顔を上から
「――あんたさ」
魅恋も一瞬ビクッとするくらい、低く冷えた声に、怯えたように一瞬ヨウジの目が泳ぐ。
「何だよ……」
「思ったより女殴ってそうなツラしてなくない?」
『は?』
期せずして魅恋とヨウジの声が重なった。
「これなら俺の方が女殴ってそうじゃない?」
晃誠は右手の人差し指と親指で顎を撫でつけながら魅恋を振り返り、大真面目な顔でそう言ってくる。
「なんの勝負してんの?」
「いやなんか実際に女殴ってるという男を見たら対抗心が湧いてきた。あと場が和むかと思って」
「捨てちゃってよそんな対抗心! 場を和ませる要素、どこ?」
少なくとも毒気を抜かれたことは確かではあったが。
息をついて気を取り直す。後ろには下がらずに魅恋のすぐ隣に立った晃誠の存在感を受け、力んでいた体から固さも抜けていく。
その後もヨウジはのらりくらりと嫌味や皮肉を続けたが、こちらを非難しながらも視線はちらちらと晃誠の様子をうかがっている。
第三者の目を意識して、キレることはもちろん、泣き落としもできずにいる姿は有り体に言って滑稽で、拍子抜けだった。
暴力への閾値が低いからといって、喧嘩にも慣れているとは限らない。この場にいるのが、別に晃誠のような少しばかり強面の男子じゃなくったって、この男は何もできなかっただろう。
(ああ、なんだか急にこいつが小者に見えてきたわ……少しスッキリしたかも)
頑として相手をせずにいるとヨウジはついに観念し、しぶしぶ奥に引っ込んで、のろくさと勿体つけるように魅恋のバッグと上着を持ってきた。
「勘違いすんなよ。お前みたいな女、俺がいなきゃなんにもできないのが、そこの金髪くんに変わるだけだから」
「じゃあね、さよなら」
荷物と部屋の鍵を交換してそう言うと、魅恋は何の余韻もなく踵を返し、晃誠が後に続く。
ある程度の距離を置いてから、背中にヨウジの罵声が飛んでくる。
「このブス! 付き合ってやったらつけあがりやがって、どうせもう誰もお前みたいなクソビッチ相手にしねーよ!」
「……勝ったな。お疲れさん」
投げかけられた捨て台詞から庇うように、すぐ後ろを歩いている晃誠が言う。
魅恋は一歩横にずれて足を止め、晃誠の隣に移動すると、その肘のあたりに飛びつくように自分の腕を絡めた。
緊張から解放されてふわふわする体を、腕にぶら下がるようにして預けると、晃誠は驚いた様子で若干のけぞる。
「え、何? どうした?」
「演技演技。ひとりぼっちになったところに見せつけてやろうと思って」
そう言って魅恋は大きく息を吐き出した。
晃誠はなるほどと頷いて、そこで「あっ」と何かに気付いたように声をあげてこちらを見た。
「なんか俺、今度は女寝取ってそうじゃない?」
「いや意味わかんない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます