第四話 義兄と始まる新生活

 ゴールデンウィーク明けの朝、休みボケで少しだけ寝坊した古峰睦希はその光景に新鮮な驚きを覚えていた。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 数日前に家族になったばかりの義兄、古峰晃誠が洗面台の前でひげを剃りながら、ちらと振り返って睦希の挨拶に応えた。


 ブルーグレーの地にぬいぐるみ風のクマ柄が散ったパジャマを、今は上だけ脱いでTシャツ姿だ。

 たくましさはあるが、ムキムキの筋肉質というよりもしっかりとした骨格によるボリュームを感じさせる。細マッチョというやつだろうか。


 初日こそ隣室の義兄に衣擦れの音でも聞こえやしないかと緊張し、パジャマで部屋の外に出るのもはばかられる気分だったが、いつまでもそんなことは言っていられない。睦希もラベンダーのパジャマ姿である。


 音に関してはお互い様でもあるので思い切って相談し検証したところ、生活音や電話で話すくらいの声ならほとんど漏れない程度には防音が効いていたので、そこは安心した。


 長身を若干縮こまらせるようにして鏡を覗き込んでいる義兄をぼんやり眺めていると、鏡越しに目が合う。


「あー、ごめん。すぐ終わらせるから」

「いえ、それは大丈夫なんですけど――ひげ、もう剃ってるんですね」


 えっ、と一瞬止まり、一拍おいてから晃誠は苦笑した。


「まあそりゃ高校生にもなればね。そろそろ睦希ちゃんの同級生にも顎ヒゲ生やすようなのはいるんじゃない?」

「うーん。学校でもひげ生やしてる上級生は確かに見ましたけど、こうして身近で晃誠さんが剃ってるのを見るとこう……ちょっとショック? ……が」

「ええ……」


 睦希は顔の前で手をぶんぶんと振る。


「やっ、悪い意味じゃないんです! その……実父と暮らしてた小さい頃の記憶もあまりないから、男の人のそういうのを目の前で見るのも初めてだったりというか」

「ひげはともかく、女子の方が男より先に顔のうぶ毛とかムダ毛の処理を始めるものじゃないの? それこそ男の俺にはよくわからないけど」

「ブブー。そういうこと聞く人はポイントマイナスです」

「マジかよ……」


 顔をしかめ、再びT字カミソリを顔にあてる晃誠。

 なんだかホームドラマの一幕のようで、睦希は少し浮き立つものを感じた。


「――見ててもいいですか? もう見てますけど」

「いいけど、そんな見て楽しいようなものでもないでしょ」


 晃誠は首筋をそらしてカミソリを当てた格好でふっと振り返り、にやっと笑って軽く流し目を送ってきた。


「なに? 実はちょっとセクシーな感じだったりする?」


 睦希は一瞬固まり――次の瞬間盛大に吹き出してしまう。


「せっ、せくしーって!」


 不意のタイミングで思いもよらない角度から笑いのツボを痛打され、睦希は耐えきれず体を折って咳き込むように笑い転げた。


「そんなウケることある……?」


 身をよじる睦希を、途方に暮れた困惑顔で晃誠が見下ろしてくる。


「――っ、はーぁ」


 笑いの衝動が収まってきたのを確認しつつ、体を起こして深呼吸。くっ、と体がまだ笑いの余韻に痙攣する。


「お、おう……意外と笑い上戸だな睦希ちゃん……」

「ふっ、不意打ち過ぎて……もう」


 そう言って睦希は目尻ににじんだ涙を拭った。




 急いで身だしなみを整え、朝食や朝の支度を終えてブラウスの上に明るいキャメルのカーディガンを羽織ると、睦希は晃誠に声をかける。


「晃誠さん、一緒に出ますよね?」

「ああ、うん。そうしようか」


 朝夕は電車の本数も増えるとはいえ、大都市と違って数分に一本とかいう話でもない。同じ家から同じ学校に通う以上、丁度いいタイミングは限られる。わざわざずらすのもおかしな話だろう。


「そっか、合服か」


 睦希の格好を見てそう呟いた晃誠は、濃いブラウンのシングルブレザー姿だった。ジャケットの前裾を撫で下ろし、「まあいいか」と一人納得している。


「うちの学校、男子はノーネクタイってなんかずるくないですか?」


 睦希は胸元のリボンを弄りながら、シャツの立襟を着崩した晃誠を恨みがましく見上げる。


 二人の通う高校は男女ともブレザー制服。女子はごく普通のブラウスにリボンかネクタイの自由選択だが、男子はスタンドカラーシャツでノーネクタイという珍しいスタイルだ。夏服も男子は半袖の開襟シャツなので、やはりネクタイはない。


 ただし夏はポロシャツも可であり、その場合のみ女子もリボンやネクタイを回避できた。


「俺に言われてもな……。女子のスラックス選択とかはあちこちで話題になってるから、うちもそのうち何か変えるのかもしれないけど。ただ、うちは今の制服自体、今世紀に入ってデザインを新しくしたものばっかりらしいからどうだろ」


 シャツの襟をつんつん引っ張りながら晃誠が言う。と、そこに睦美が顔を出した。


「二人とも、時間は大丈夫?」

「あっ、やばっ」

「出ようか」


 玄関に置いていたバッグを肩にかけ、二人は「いってきます」と慌ただしく家を出た。



 ◇◆◇◆◇◆◇



 古峰家のある西東さいとう市。その市内の公立高校、県立西東南さいとうみなみ高等学校。それが古峰睦希と晃誠の通う高校だ。


 市の外れ、丘陵部にある学校敷地は戦国時代の小さな山城の縄張り跡を利用したという話で、曲輪くるわのように段差のある施設配置と、地方の郊外ゆえの広い設備が特徴である。


 市内では二番手にあたる、数字だけ見るならせいぜい中の上程度の公立高校だが、地元においてはそこそこのレベルという扱いで、生徒達は比較的おっとりした子たちが集まっている。――このあたり、絶対数でも交通インフラ的にも選択肢の限られる、地方の高校事情や価値観というのは、東京のような大都市圏とはだいぶ異なる。


 行動の前に損得の勘定も後先の想像もできる程度の知性と理性があり、時に羽目を外すのもどこまでなら許されるかのラインを自分達で慎重に測れる。だから教師達も校則についてあまりうるさくは言わない。そういう信頼関係に基づいた自由が、伝統的に築かれてきた校風だ。


 そんな中でも例外や外れ値というのはやはりどこにでもあり、義兄――古峰晃誠は見た目通りちょっと目立つ存在であった。あまり良くはない意味で。


「そうだ。私、同じ時間の電車使う友達と待ち合わせしてるんで」


 最寄り駅の日比木台ひびきだい駅に着いたところでそう言うと、晃誠が頷く。


「じゃあ、ホームまでだな」

「すみませんなんか」

「いや、そもそもどっかで離れないと悪目立ちするだろうし」


 苦笑する晃誠。

 確かにわざわざ登校時間をずらすようなことをするのも抵抗があるのだが、だからといって並んで校門をくぐるというのも目立つだろう。それもこの義兄が相手では。


 改札を抜けてホームに上がると、睦希は待ち合わせている号車番号の位置の見当をつけながら先頭側に向かう。

 振り返って胸元で小さく手を振ると、義兄も軽く手を挙げてくれた。




 このあたりで動線の中心になっている県都方面とは逆方向ということもあってか、電車内は席こそ完全に埋まってはいるものの、友人を探してその隣に移動する程度の余裕はあった。


「おはよう睦希」

「おっはよう」


 出入り口近く、淡い桜色のカーディガン姿の友人を見つけ、肩を並べて立つ。


「何そのピンク、めっちゃ可愛いんだけど」

「一目惚れしてこの日のために買いました。睦希のだっていい色じゃん」

「制服が茶系だから合わせようと思って」


 ベストやカーディガンに関しては、「常識の範囲内で」色などの指定による制限はなく、それについては睦希も若干気分が上がったものだった。


「で、どうですか新生活は。生の声で聞きたい」

「えええ……いきなり突っ込んでくる……」

「入学早々に名字が変わったわけだし、覚悟はしてるでしょ」

「まあね。他にも何人かにはもう事情も話してあるし……」


 自分だって他人事だったら「この創作のヒロインみたいな境遇の女は……?」と気になるだろう。常識的判断でそこまで口には出さないにしても。


「上手くやってる……と思うよ。みんな友好的だし」


 例えば食事はできるだけ一家揃ってするようにし、継父もたまに母に肩をつつかれるように会話に参加している。慣れないこともあるけれど、誰も無理はしていない……はずだ。


 そもそも母のこの再婚に関して、睦希にだって下心はあったのだ。


 今のところは県内の国公立大学を考えているが、結局どこに行くにせよ四年制大学にゆとりをもって通いたいと考えれば、お金の計画というものは避けて通れない。もちろん奨学金というものもあるし、考慮に入れてはいるが、それはそれだ。


(貯金してくれてるって言ってたけど、職場が倒産じゃあね……)


 母の心や幸福について想う気持ちも嘘ではないが、自分の人生に関して現実的な視点も持たざるを得ないわけで。経済的に余裕のある相手との再婚というのは、睦希としても渡りに船ではあった。


 だから自分も「古峰家」を構築する作業に参加することに否やはないのだ。

 皆がそう努めているなら、なおさら自分だけ避けるわけにもいかないだろう。


「で、どうなの古峰先輩って」

「先輩だなんて照れるじゃん。何でも聞いてくれたまえよ」

「あんたじゃねーし。でももうあんたも古峰そうなのか、そうか」

「ホームまで一緒だったし、この電車のどっかにいるよ」

「マジか……連れてきて紹介してくれればよかったのに」

「いや連れてきたら絶対びびってひいたよね」

「それはそう」


(どうって言われてもねえ)


 初対面の時は無愛想で威圧感もあった、不機嫌そうで怖かった。が、次に会った時からはそんなこともなく、ただこちらとの距離を測りかねているだけの同年代の少年だった。

 話せば意外と気さくだし、親切でもある。


「今はまだ話題を探りさぐり会話してるところだし……いい人だと思うよ。クラスの男子よりかはよっぽどちゃんとしてる感じ。一緒に家の手伝いとかしたりするしね。家の雰囲気作りに一番協力的かもしれない」

「へぇ、意外。……学校では一人でいるらしいから、外で遊んでるもんかと」


 それは睦希も感じていた。四月の間、学校で何度か見かけることはあったがいつも一人で行動しているようで、なんだか家でのイメージとはだいぶ違う。


「別に夜遊びとかしてる気配はないねぇ。コンビニのバイトで、ちょっと遅い日もあるくらいで」

「ほう、ほう」


(あれ? いいのかなこれ)


 義兄のプライバシーというものについて考える。


 なんだかんだ目立つ男子の先輩だ。ただし学校での評判は、はっきり言ってネガティブなものも多い。無愛想で何を考えているのかわからないため、生理的にダメという女子もいる。


 だが、ルックス的には精悍で目鼻立ちも整っている方だし、長身やスタイルの良さもあってそこは女子の目を引くことだろう。見た目に反して少なくとも女子には無害なようでもあり、いわゆる『観賞用』にはちょうどいいといえばいいタイプか。


 ただの興味本位にしか過ぎずとも、彼の情報は一部の女子間ではそこそこ需要がありそうだ。そして、それはうまく使えばこれからの睦希の、学校生活におけるQOL向上に寄与してくれるかもしれない。


 だからと言って義兄を売るような真似はいかがなものだろうか? 自分に問いかける。


「ファッションや小物はあんまり不良っぽい印象の物は見ないね。服の好みはあまり華やかでないシックな感じ。全体的に暗めのグレイッシュ傾向かな。まだなんとも言えないけど、どうもクマさん柄が好きっぽいところある」


 と、積極的に義兄を売っていくことにした。


(大丈夫! 悪いこと言うわけじゃないし、むしろネガティブなイメージの払拭にも繋がるはず! 私だって義兄が何故かいつまでも学校で腫れ物みたいな扱いなのは、あんまりいい気分じゃないし!)


「クマさんねえ……」

「話してみたら一発でわかると思うんだけどね、別に普通の人だって。あと、わりと茶目っ気も――くっ、ふっ!」


 今朝の一幕を思い出し、そこで思わず吹き出してしまった。


「そっ……うだね――あと、実はちょっと、せっ、セクシー……かもぉ……っ?」

「どっ、どうしたの睦希」


 シート脇のポールを握りしめ、額を押し当てた姿勢で笑いの発作に耐えようとする。

 当惑する友人に介抱されながら、睦希はしばらく身を震わせ続けた。


 学校であの義兄に話しかけたら、どんな顔をするだろうか。そんな度胸はないが、クラスまで赴いて声をかけてみるとか。


(「お義兄にいちゃん」とか――?)


 たぶん怒ったりはしない。それは確信できる。


 気付けば結構、この生活の先を期待している自分がいた。




 ―――――――――――――――




 Ultimately the bond of all companionship, whether in marriage or in friendship, is conversation, and conversation must have a common basis, and between two people of widely different culture the only common basis possible is the lowest level.

 —— Oscar Wilde, De Profundis


 畢竟ひっきょう、結婚であれ友情であれ、あらゆる親密な人間関係の絆は会話である。そして会話は共有する土台を必要とするが、大きく異なる文化的背景を持つ二者間で取り得る共通基盤は、最も低い水準となる。

 (オスカー・ワイルド 『獄中記』)

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