第27話「幸せ=罰、のパラドックス」

「楽しかった……夢、みたいだった……」


イベントから帰った夜、沙織はベッドにダイブしたまま、腕を広げて天井を見上げた。春日駿の目を、声を、距離の近さを反芻しては、枕に顔をうずめてバタバタと足をばたつかせた。


「いや無理、尊死……っ!」


数時間前、彼の瞳が一瞬ふれたのは、自分だけだったと信じたい。気のせいでもいい。ファンとして全うに推せた、それだけで幸せだった。


帰りの電車で、たまたま席を譲ったご年配の方に「ありがとうねぇ」と笑われて、心が温かくなった。駅の階段では荷物を落とした人を拾ってあげて、道を聞かれた人にも丁寧に対応した。興奮しつつも、なんとなく身体が動いたのだ。


家に着き、スマホを開く。


《現在の数値:70/100》


「えっ……70!?」


一気に上がった数値に、沙織は思わずガッツポーズ。イベントの幸せで減ると思いきや、むしろ上がっているじゃないか。


「まさか、善行……? あのときの……?」


それなら希望がある。幸せを噛みしめるより前に、誰かのために動けたから、帳消しにできたのかもしれない。


――けれど。


次の瞬間、画面が一瞬フラッシュし、数字が変わる。


《現在の数値:40/100》


「……え?」


スクリーンを二度見、三度見する。表示のバグかとスマホを再起動してみるが、やっぱり表示は《40/100》。


「え、ええぇぇぇ!? 待って!? わたし、誰か蹴った!? 牛乳こぼした!?」


いや、違う。むしろ今日は誰より親切だった。駿のイベントで感動して、いい行動もした。なのに。


――幸せ、だったから?


「……あ」


背筋が、ぞわりと凍った。


「幸せを感じると、数値が下がる」


かつて占い師が呟いた言葉が、頭の中でこだまする。


「やっぱ……ほんとだったんだ……」


ベッドに膝を抱え、沙織は小さく震えた。


***


翌日から、沙織はまるで別人だった。


「おはようございます!」と元気に挨拶していた同僚には、無表情でペコリ。


ランチに誘われても、「あっ、ちょっと用事が」とやんわり回避。


道で困っているおばあさんに遭遇しても、善行ポイント狙いで即座に駆け寄るが、助け終わったあと、心から湧き上がる達成感を「あ、これ喜んじゃダメなやつ」と押し殺す始末。


「わたしは機械……善行処理マシーン……感情は、不要……」


自販機で冷たい水を飲みながら、誰に聞かせるでもなく、低い声でつぶやいた。


同僚の森山が隣でそっと距離を取る。「お、お疲れっす……」


***


善行だけで数値を戻そうと決意してから、沙織は生活のすべてを「人助け」に捧げた。


通勤途中のゴミ拾い。


駅で迷っている観光客に英語で道案内(翻訳アプリ大活躍)。


スーパーでは、カートを譲り、割引品を争わず、レジで後ろの人に順番を譲る。


職場ではトイレ掃除を自主的に請け負い、在庫表も無言で修正しておく。


だが。


《現在の数値:43/100》


「……全然、増えてないじゃん……!!」


思わず社員通路の物陰で叫んだ。頑張ってる。すっごい頑張ってる。なのにたったの3ポイント回復って……!


「もしかして、善行だけじゃ回復しないの……?」


額に手を当て、ぐったりとうなだれる。


「ううん……幸せを感じなければ、減らない。善行すれば、少しは戻る……でも……」


でもそのサイクルは、まるで呪いだ。


「幸せって、悪いことなの……?」


そんなの、おかしいじゃないか。推しに会って、嬉しくて、感動して、でもそれで罰を受けるなんて。


「じゃあ私は、何のために頑張ってるの……?」


吐き出した言葉に、思わず自分が一番びっくりする。


“何のために”。


本当に、それを考えていなかった。推しに会いたいから、幸せになりたいから、努力してたはずなのに。


「……違う。幸せになるために頑張ってたのに、いつの間にか、数値のために頑張ってた」


それはまるで、「自分の気持ち」よりも、「パラメーター」が正義になったみたいで。


「……バカみたいだな、私」


スマホの表示が目に入る。


《現在の数値:41/100》


「うわ、今の独白、マイナス2!? 減るんかい!!」


突っ込む元気もなくなり、沙織はそのままコンクリートの床に座り込んだ。


その瞬間、不意に風が吹いた。涼しく、どこか懐かしい香りを運んでくる。


そして、あの声が。


「そろそろ、限界じゃない?」


振り返ると、そこにはまた現れた謎の占い師。いつものように、どこか楽しげに笑っている。


「アンタさぁ、“人のため”に動くの、得意になってきたけどさ」


ぱちんと指を鳴らすと、占い師は不意に真顔になった。


「“自分のため”に動いたこと、最近あった?」


「……それは……」


返せない。何もしてない。甘いスイーツも、好きな映画も、見ていない。全部、「数値のため」に我慢した。


占い師は小さくため息をついて、背を向ける。


「善行は、幸せの代償じゃないよ。本当はさ。まあ、まだ間に合うと思うけどね」


「……間に合う?」


「“期限”、忘れてないよね? あとちょっとで終わるんだよ。ふふふ、カウントダウン〜♪」


沙織の心に、凍えるような風が吹いた。


善行だけで生き延びるのは、たぶんもう無理だ。けれど幸せを感じれば、また数値は減ってしまう。


逃げ場なんて、どこにもないじゃないか――。


《現在の数値:40/100》

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