第6話

 チェリーはベッドに横になって、窓の方を見ていた。ブラインドの隙間から、光の棒が何本も、薄暗いベッドルームに差し込んでくる。その光が、冬の冷たい白から、春の柔らかい黄色に変わってきたのに、チェリーは気がついていた。もうすぐ一年になる。サリー伯母さんのレシピを捜し始めたのは、去年のイースターのすぐ後だった。ラナに電話してメモの束を送ってもらい、ちまちましたひらがなを読み、暗号のような用語の解読に頭を絞り、最後に謎のべろの正体をあばいて、マルコはレシピの復元に成功した。ペナンスソース改めチェリーズソースはコンテストで勝利をおさめ、「セレスティーナ」はよみがえった。ヴィンヤードは店を閉め、アルマンディは行方不明だ。警察も食品衛生局も、誰も何も気づかず、マルコは名声をほしいままにしている。あとはわたしが元気になればそれでいいのだ。この貧血と立ちくらみがおさまって、再び元気に店に立って采配を振るうようになれば、すべてうまくいく。それにしてもこの一年は忙しかった。疲れた。チェリーは目を閉じた。

バタンとドアの閉まる音で、チェリーは目をさました。バタバタと階段を駆け上ってくる音が続く。マルコが入ってきた。手に大きな花かごを提げている。

「気分はどう?」マルコは身をかがめて、チェリーの頬にキスした。

「これ、君にだ。ハンクから」

 花かごには、ピンクのばらに白いマーガレット、白いかすみ草が、溢れんばかりにさしてあった。チェリーは添えられているカードを開いた。「一日も早い回復を祈っています。ハンク・プリチャード」とある。なんて素敵なおじいさんだろう。チェリーはばらの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。春の香りだ。

「ハンクだけじゃない。君のファンはみんな、チェリーはいつ戻って来るんだって聞くよ」マルコはチェリーの手を取って、鹿のように大きな、優しい瞳でじっとチェリーを見つめた。「早く元気になって」

チェリーは微笑した。「もうすぐよ、マルコ。もうすぐ。今日は随分、気分がいいの」

マルコは励ますようにチェリーの手をぎゅっと握った。

「店の方はいいの?」

「ホセが見てる。あのね、チェリー、イースターの予約、もういっぱいなんだよ」

「すごいじゃないの」

「それでね、チェリーズソース、ぜひぜひ出してくれって、せっつかれてるんだ」

チェリーは黙っていた。

「材料が手に入ったらって、言ってあるんだけどね。でも、大部分の客は、きっとあのソースを目当てに来るんだろうと思うんだよ」マルコは目を細めて、チェリーの目の奥をのぞきこんだ。「だから、ね、チェリー…」マルコの声が低くなった。


 マルコが店に戻っていくと、チェリーは再びぐったりとベッドに横たわった。チェリーズソースはわたしを殺してしまう。わたしはもう、あのソースのせいで、半分、死にかかっている。それがわかっていながら、マルコはなぜ、まだ、あの呪われたソースを作ろうとするのだろう。突然、チェリーは怒りを覚えた。マルコはもう、わたしを愛してはいないのだ。痩せこけて、老けこんで、貧血のために立ち上がることもできないわたしなんか、もう、どうでもいいのだ。それならそれでいい。わたしももう、マルコのことなんか、放っておこう。チェリーズソースができなくてマルコが往生しようが、「セレスティーナ」がつぶれようが、わたしの知ったことじゃない。

凶暴な怒りに駆られて、チェリーはベッドに起き直った。チェリーズソースを求めて騒いでいる客、冷や汗をかきながら言訳しているマルコを思い描いて笑い出した。頭をそらせて思いきり笑った。それから、突然、涙をあふれさせた。もちろん、そうはいかない。マルコと「セレスティーナ」はチェリーのすべてだった。チェリーの作品、チェリーの生、チェリーの愛そのものだ。見捨てることは、チェリーの人生のすべてを否定するのと同じことだ。

 チェリーは涙をぬぐった。慎重に足を床の上に下ろす。頭がくらくらする。しばらくじっとして落ち着くのを待った。ゆっくりと階段を降りる。わずか数歩で、もう息が切れる。踊り場でしばらく休んだ。息を整えてから、残り半分の階段を降りた。壁につかまりながら、キッチンへ向かう。椅子にすわってまた、しばらく休む。めまいがおさまってから、チェリーは道具を探した。ガラスのボウル、コニャックの瓶、ワインヴィネガー。注射器、腕を縛るゴム。チェリーの腕は、枯れ木のように細く干からびている。これで、べろが取れるかしら。だが、針を突き刺すと、赤い新鮮なべろが、ぐんぐんと筒を昇っていった。逆にチェリーの身体は、闇の中に沈んでいく。薄れていく意識の中で、チェリーはマルコの大きな、鹿のような瞳を思い出そうとした。だが、どういうわけか、マルコの瞳にはいつもの、あの優しい色がない。代わりに、獲物を狙う猫のような油断のならない色が見える。サリー伯母さん! 今ならわかる。サリー伯母さんが、蘭の鉢を捨てた後、ビル伯父さんの目をのぞきこんで何と言ったのか。マルコはさっき、チェリーに全く同じ事を言ったではないか、サリー伯母さんにそっくりの目をして。

もし、君が、僕を愛してくれてるなら……。

愛は貪欲な美食家だ。名前も言葉も故郷も夢も人生も何もかも、すべてを奪いつくし、食い尽くす。命尽きるまで。


 イースターの二週間後、チェリーは意識を回復しないまま、眠るように亡くなった。ハワイから飛んできたラナは、呆然としているマルコを励まして、葬儀の手はずをととのえた。チェリーの遺体は、生前の希望通り火葬にふされ、灰は太平洋に撒かれることになっている。

「マルコ。明日、霊廟から戻ってきたら、皆さんに軽い食事を出すんだけれど、あなた、できる? それともわたしが用意しましょうか」

マルコは漠とした目でラナを見た。突然、その目に強い光がきらめいた。

「僕がやる。チェリーの葬儀のための食事だ。僕が作らなかったら、チェリーが悲しむだろう?」

 その夜、マルコは一人でキッチンに立った。冷やしたばだをきゅうぶに切った。せおりーをちょっぷし、みゅうくをかき混ぜ、はわたを鍋に入れて火にかけた。ちょうど一年前、チェリーと二人でひとつひとつ、解読したレシピ。二人の作品。二人の秘密。マルコは微笑しながら、鍋をかき混ぜた。幸せだった。チェリーがすぐ隣にいて、レシピを読み上げているような気がした。おいしいのを作ってやるよ、チェリー。みんなが一生忘れないようなチェリーズソース。

それでも一味足りないはずだ。何か一つ、物足りないはずだ。みんながそう言ったら、胸を張って言ってやる。チェリーズソースは二度とできない。一番大事なもの、最後の仕上げ、決め手になるあるものが、手に入らないから。永遠に失われてしまったから。マルコは微笑みながら、涙をこぼした。

 翌日、キッチンのテーブルの上に、マルコは心を込めて作った料理を並べた。ラナはガラスの丸い器に入っているチョコレート色のソースにすぐ気がついた。

「ペナンス…チェリーズソース?」

「うん」

ラナは人差し指をソースに浸した。ぺろりとなめた。あれ? というように首をかしげた。

「あたしの記憶違いかな? ちょっと待って」

ラナは、マミー、マミーと呼びながら居間の方へ消えた。すぐに、母親の手を引っ張って戻ってきた。「このソース。サリー伯母さんのレシピなのよ。なめてみて」

ラナの母親は、小さく屈んだ背を伸ばすようにして、ソースに指を突っ込んだ。口に入れると、ラナと同じように首をかしげた。マルコの待ち望んでいた瞬間だ。

「違うんだよ。一味足りないんだ。とても大事な、仕上げの一味がさ」

「何が足りないの?」

「べろだよ。べろがないんだ」

「べろ? ああ、いつかチェリーが言ってた。そうか、見つからなかったんだ」

ラナは残念そうに言った。だが、ラナの母親は冷蔵庫を開けて、中をのぞきこんだ。しばらく見ていたが、今度はラナの手を引っ張って、表のドアの方に向かおうとする。

「何? マミイ」

ラナの母親は、入れ歯をはずした歯のない口で何かもごもごと言った。ラナは身体を屈めて、母親の言葉を聞いていたが、顔をあげると、車のキーをつかんだ。「ちょっと行って、買ってくるわね」ラナは母親と一緒に出ていった。

マルコはポカンと、ラナとラナの母親の後姿を見送っていた。買ってくるわね。何を?べろを? どうやって? マルコは椅子にすわりこんだ。動悸が激しい。怖ろしいことが起こりそうな気がする。何か、とんでもなく悪いことが起ころうとしている。

 十五分後、ラナと母親は戻ってきた。ラナは買い物袋から細長い瓶を取り出した。

十五インチ高さの、四角い首長の瓶だった。胴の部分にラベルが貼ってある。二本の鋭い角を生やした牡牛の顔。その下に、大きな文字で、BULLS EYES、とある。

「ラッキーだった。セール中だったの。二ドル二十五セント」

そうなのだ。たかだか三ドル、セール中なら二ドルちょっとで手に入る、昔からある、ありふれたバーベキューソースだ。

「わからなかったのも無理ないわよ。べろって言われちゃあね。普通の人は何かと思うわよ。マミーが言うまで、あたしもわからなかった」

ラナはバーベキューソースのふたを開けた。ティースプーンに四分の一ほど入れると、ボウルに加えた。ゆっくりとかき混ぜる。マルコはソースの色が、もったりした茶褐色に変わっていくのを、息を呑んで見つめていた。ラナはスプーンを持ち上げると、先についたソースをなめた。にっこりと笑った。「完成。サリー伯母さんのペナンスソース」ラナは再びスプーンをボウルに突っ込んだ。ソースをしゃくうと、マルコに突きつけた。

 マルコは震える手でスプーンを受け取った。毒を飲むようなつもりで、スプーンを口に突っ込んだ。目を閉じて味わった。風味、舌ざわり、とろみ、質感……。僕らはとんでもないまちがいを犯した。もう取り返しがつかない。目の前が暗くなった。すーっと身体から血の気が引いていくのがわかる。チェリー、ごめんよ。

「マルコ、どうしたの? マルコ!」

ラナの声がどんどん遠くなっていった。

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