第22話 虚空の神

 風が吹いた。

 いや、違う。風が“逆に流れた”。

 それは音でも圧力でもなく、世界の座標系そのものが、一瞬だけ裏返ったような──そんな感覚だった。


「……なに……っ」


 リリエンが呻く。視界が千切れ、補助演算が連続クラッシュ。

 演算補助装置が煙を噴き、思考と視覚が分離していく。


 ザイクが振り返った瞬間、何かに“跳ね飛ばされた”。

 何も見えなかった。だが確かに、そこに“いた”。


 空間がめくれた。

 ほんの一瞬、現実がページのように折り返され──その裂け目の中から、それは現れた。


 白。

 反転した空間の中に、“逆さま”の姿。

 足元が地面を踏まず、空中に沈んでいる。

 輪郭が常に揺らぎ、見る角度によって形が変わる。


「……ノーア……」


 誰ともなく、その名を口にした。


 “反転のノーア”。

 存在は確認されている。だが、記録上の命中回数はゼロ。

 あらゆる弾道がすり抜け、空間が“許さない”。


 ノーアがゆっくりと首を傾けた。

 だが、目は合わない。

 いや、“目”がどこにあるかすら、判別できない。


 にもかかわらず、リクにはわかった。

 ──こいつは、こちらを“見ている”。


 そのとき、空気に直接“言葉”が差し込まれた。


「君、撃とうとしてるんだよね」


 声ではなかった。音波ではない。

 演算ノイズの束が、脳内の聴覚領域に“直接生成”された。


「でも、それは当たらないよ。だって、ここは……“君の世界”じゃないから」


 その言葉とともに、空間が“ひとひら”ずつ剥がれていく。

 まるで視界全体が紙細工のように捲られ、別の空間が透けて見える。


 上だった空が左右へ傾き、重力が斜めに走る。

 足元の瓦礫が天井のように浮かび、影が天へと向かって伸びていた。


 ザイクが呻きながら立ち上がろうとするが、左脚がぐにゃりと崩れた。


「っ……骨が……反転して……る……っ」


 彼の脚は正しい向きに生えていた。だが、関節の“基準”が狂っている。

 感覚と動きが噛み合わず、彼の身体は“構造としての違和感”に悲鳴を上げた。


 そのまま、ザイクは崩れ落ちた。


(なにやってんだ、俺は……)

 

 地面に手をついたその感覚も、微かに“ヌルついた”。

 見れば、瓦礫の端が微細に揺れている。空間そのものが、水のように不定形だ。


(クラリスなら、あんなもんにも立ち向かってた。リクなら、撃とうとしてる。なのに俺は……)


 拳を握った。震えが止まらない。

 戦場で一歩も踏み出せない自分が、ただそこにいた。


 リリエンは膝をつきながら、かすれた声を絞り出す。


「私……私の手が……動かない……」


 彼女の視界には、三つの自分の輪郭が重なって映っていた。

 演算補助が暴走し、自我境界が不確定化していく。

 彼女は、どこまでが“自分”なのか分からなくなりかけていた。


 ノーアは、笑っていた。

 声はない。だが、その“輪郭の揺らぎ”が、確かに笑っていた。


 リクは矢をつがえたまま、動けずにいた。

 演算は収束しない。

 軌道は固定できない。


 “必中”という前提が、崩れた。


「……ゼロ」


 リクが小さく呼びかける。


《演算照準、再試行中……補足軌道:不確定》

《代償提示、停止中。対象認識不能》


 ゼロの表示が、いつもより遅れて点滅した。

 その挙動すら、“不確か”だった。


「君ってさ」


 ノーアが言う。


「誰かを守ろうとしてるんでしょ。でもさ、それって“止まる”ことだよ」


 ノーアの身体が、また“裏返る”。

 形が変わる。空間の節理に沿って、自身の姿を組み替えるように。


「君は、狙ってるつもりかもしれない。でもさ、ほんとは──ただ、怖いだけじゃないの?」


 その声は、リクの胸の奥を静かに揺らした。


 ノーアがさらに言葉を重ねる。


「命中って、滑稽だよね。君たちの世界では、“見えるもの”にしか当てられない。けどさ、見えるって、なに? 観測できること?

 じゃあ、観測できない僕は、当たらない存在になる。ほら、そうやって“世界”ってのは、観測者の都合で歪められてる」


 ノイズはそう言いながら、地面の“向こう側”に歩いていった。

 実在と虚構の境界を、まるで嘲笑うように。


 リクの脳裏に、クラリスの背中が浮かんだ。

 ミオが笑っていた記憶。グリスの声。訓練校の朝。小さな食堂の光景。


 “守りたいもの”が確かにある。


 だがそれは、今ここで──“守れない”。


(……俺は、なにひとつできない)

(ただの訓練兵で、ゼロがなけりゃ何もできない)


 そんな言葉が、脳内に渦を巻いた。


 ゼロが、ノイズ混じりにログを再表示する。


《演算補正不可能》

《現行座標系の制御演算に干渉不能》

《突破条件:空間演算構造の上書き──提案待機中……》


 リクの手が、わずかに震えていた。


 ノーアは一歩、踏み出した。

 その足音すら存在しない。けれど、空間が音の代わりに“軋む”。


「ねえ、守るって、どうやってするの?

 一発で当てる? 先に倒す?

 でも君、その人の“隣にいる”覚悟はあるの?」


 ノイズは嗤っていた。感情のある笑みじゃない。ただ論理としての嗤いだった。


「君がどれだけ狙っても、ぼくは逃げる。

 どれだけ守ろうとしても、崩れる。

 それが“世界”ってやつさ」


 その言葉だけが、空間に残った。


 リクは、矢を握り直した。

 震えは止まらない。けれど、視線だけは逸らさなかった。


 必中では、守れない。

 ならば、どうする?


 その問いだけが、彼の中に残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る