第6章 鬼神・闘鬼
街には雨が降っている。窓から外を見上げると雨師が雨を降らせているのが見えた。
雲の上の雨師はのんきそうな顔をしたじじいだった。白髪に白いひげ。萌葱色の着物はいい趣味をしているが、時折人間界でギャンブルをしているので喰えないじじいだ。そろそろ次代に譲ればいいものをいつまでも現役を主張する。だが、雨師老人の雨は風情があった。老人の振らせる雨は人の世を潤わせる。
まさしくしとしとという音が合うような雨だった。
そんな風に考えるようになったのも珠子と出会ってからだ。以前の俺は殺戮と血飛沫の中で生きていた。
しかし時折、この白い猫を喰ってしまいたくなる。
喰ってしまえば後悔するか、それとも少しはさっぱりするだろうか、と迷う。
迷ってはもう少し考え、また迷う。考えているうちに喧嘩になる。
腹立ち紛れにそこいらの雑鬼どもを喰らって憂さをはらす。
カーテンを閉めて部屋の中を振り返ると、珠子がくうくうと寝ていた。さっきまで何やら喰っていたのに、もう眠っている。いつまでたってものんきな猫だ。
だが眠っている珠子を眺めるのは悪くなかった。
珠子と出会ったのはもう百年も昔だった。
人間界は戦争中で、世情は大荒れに荒れていた。国の為に人間は自ら犠牲になって喜んでいる時代だった。食料にも事欠き、住処もなくし、親兄弟とも生き別れるような時代。
だが妖怪達には割といい時代だった。食料となる魂には事欠かず、異形の姿をみられてもそんなご時世なので誰も気にしない。人間は自分達が生きる事で精一杯だった。
妖怪狩りだの鬼狩りだの、それは平和な贅沢な時代の人間達の暇つぶしだった。
街に出てくれば、新鮮な魂と新鮮な死体が手に入る。たまには金色の髪の毛の異人もいる。異人の肉体は日本人と違う、珍味であった。
もちろん全ての妖怪が人を好んで喰らうわけでもない。人の気がごちそうだという妖怪もいれば、山の木の実や野菜を喰らう者もいたし、魚を捕る者もいた。蕎麦を好んだり、小豆を好む妖怪もいる。最近駅ビルの一階にオープンした甘味処は小豆洗いが全国に経営するチェーン店だ。かなり儲かっているらしい。
俺は雑食だった。動植物全般の気でも肉体でも魂でも、何でも喰う。
今まで出会った獲物の中で唯一喰わなかったのが、まだ生まれたての真っ白いチビ猫だった。俺はその時、街中にいた。日本中が疲れ果てていた頃で、貧しいしみったれた世の中だった。いつの時代も貧富の差があり、戦時中もそれなりに富める者と貧しい者に別れていたが、どっちもくたびれていた。人々は疲れ果ててしまっていたので、誰に操られてこんな苦しい思いをしているのか考えようともしなかった。
俺は好きなように人を喰らい、妖怪も喰らった。誰よりも強い妖力と身体、爪、牙を備えており、妖怪は誰も俺に逆らわなかった。
鬼だと自覚してから二千年。
その間、殺戮と血飛沫だけが生活の全てだった。殺戮がしたいわけではないがそれしかする事がなかった。全ての鬼の中で最強を誇ったが、ただそれだけだった。
楽しい事もなく、楽しいと思った事すらなく、楽しいという感情も知らなかった。
ただ生きていて、二千年も生きてきて、これからも何千年も生きるのだろう。
それは退屈だった。俺は不老不死に近かったし、自分で死ぬという術も知らなかった。
生まれてしばらくは楽しかった記憶がある。力を使いこなすのが楽しかった。
誰も俺にかなわず、俺はどんな鬼よりも強くなると言われた。
強い鬼に生まれる事が鬼族の誉れで、俺はそれまで存在していたどんな鬼よりも強い妖力を授かった。その力で他の妖怪や弱い鬼を喰らった。そしてますます俺は強くなる。
千年ほどは楽しんだ。身体もゆっくりと成長して俺は大人の鬼になった。
その頃にはもう誰も親しい者がいなくなっていた。
俺は最強の鬼の血を分け与えてくれた父鬼を殺して喰らった。
俺を産んだ母鬼も喰らった。
仲間も喰らって、人間も喰らって、手当たり次第に殺した。そうする事が俺の使命だと思っていた。そして殺戮しかする事がないと知った時に、初めて俺は自分が残虐で冷酷な鬼だと気がついた。
「大将、大将」と呼ぶ鬼どもは内心は俺を恐れ、毛嫌いしている。俺にいつ殺されるかとおどおどしている。同族である鬼でさえそうだ。他の妖怪の恐れようは滑稽なほどだ。
その時、俺は人間に化けていた。特に行くあても予定もなく、腹が減ったら誰かを喰うだけだ。町中をうろうろとして、市場や人のたくさん集まっていような場所を探して歩いていた。
そして歩くのもやっとの子猫を見た。親兄弟からはぐれた様子の哀れげな子猫だった。真っ白いその猫はよろよろと道ばたを歩いていた。必死で母猫を呼んでいる鳴き声はかすれてほとんど声になっていなかった。他の色が一点も混じっておらず、全身が真っ白な綺麗な子猫はひもじさと寂しさを訴えていた。
殺伐とした世の中だったので、飢えた子猫を拾ってやろうという人間もいなかった。人間自身が喰うのに精一杯の時代だったからである。
俺も拾ってやるつもりもなかった。その時は特に空腹でもなく、喰ったところで腹の足しになりそうもなかったからだ。しかしなんとなく子猫を眺めていた。必死な子猫はやがて俺の足下まで歩いて来て、ぺちゃっと座り込んでしまった。
明らかにエサをくれと訴えていた。俺はしゃがんで子猫の首根っこをつかみ上げた。子猫はじたばたと暴れて、俺の指をつかむといきなりがぶっと噛みついた。
あまりにも小さな生命力なので、鬼の禍々しさが理解出来ないらしい。犬でも猫でも鳥でも、鬼を見ると興奮して威嚇する。誰もが俺を警戒し、威嚇し、恐れる。
しかし真っ白いチビ猫は俺の指先をちゅうちゅうと吸った。
「鬼に噛みつくか。なかなか見所があるな、チビ」
チビ猫は俺の指を吸っていたが、何も出ないと分かると身体をよじって逃れようとしはじめた。
「腹が減ってんのか。何を喰うんだ? 人でもいいか?」
そう言ってから、そうか、乳か、と思い直す。
「待ってろ」
何故だろうか、俺はそのチビ猫の為に乳を探しに行ってやったのだ。
俺が己以外の為に動くのは初めてだった。
そのチビ猫はあまりに小さく弱々し過ぎた。哀れと感じたのかもしれない。
どこかの商店で牛乳を盗んできて、弱っているチビ猫に飲ませてやった。
嬉しそうにチビ猫は牛乳を飲んだ。あまりに急いで飲んだのでむせて咳き込んで、飲んだ牛乳をすべて吐き出してしまうくらいだった。
腹がぱんぱんに膨らむまで牛乳を飲んだチビ猫は、今度は俺の手のひらの上でぐうぐうと眠りだしてしまった。
俺は笑った。あつかましいチビ猫だ。だが、手のひらの上のチビ猫の暖かさが俺には初めての体験だった。他者の体温を感じた事などただの一度もなかった。
だがチビ猫を連れていくつもりはなかった。純粋な動物であるチビ猫には鬼の妖気は耐えられないだろう。俺の妖気に生気を吸われて死んでしまうのは確実だ。
俺はチビ猫を元いた場所に戻してやった。
行くあても目的もない俺はしばらくその地にとどまってチビ猫を眺めていた。
二日、三日と牛乳を運んでやり、少しだけその暖かさに触れてみる。
もう行こうと思いながら、もう一度だけ、とチビ猫の元へ通う。
チビ猫も俺を覚えた様子だった。
行くと嬉しそうに寄ってくる。鳴き声がかなりしっかりしてきて、甘えるような声を出す。目も開き、足腰もかなり強くなってきた。
だが、ある日、不運がチビ猫を襲った。
敵国の襲来に逃げまどう人々がいた。警報が鳴り、大人も子供も荷物を抱えて右往左往していた。俺は敵の飛行機が爆弾を落していくのがチビ猫のいる場所近くだと知って様子を見に行った。
爆弾で街は焼けただれていた。
チビ猫は飛んで来たガラスの破片に腹を突き破られていた。
チビ猫は虫の息だった。チビ猫はにゃあと鳴いて俺の手のひらを舐めた。腹から血がどくどくと出て、真っ白い毛皮を染めた。俺はチビ猫の傷をふさいでやった。だが出血が多すぎた。早急に新しい血が必要だ。
決断するまでにそう時間はかからなかった。
何千という妖怪を死に追いやってきた俺がチビ猫の死だけは受け入れられなかった。
俺は自分の血を瀕死のチビ猫に飲ませてやった。
鬼の血はほぼ不老不死に近い効力を持つ。チビ猫の傷を癒すだろう。
だが鬼の血を飲んだチビ猫の寿命は格段にのび妖怪の仲間入りとなる。
チビ猫はやがて猫又となるだろう。
「百年もたてば立派な猫又になるぞ。楽しみだな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます