二口女の恋 2

「お疲れさん!」

 ぽんと肩をたたかれてあたしは振り返った。

「あ、篠原さん。お疲れさまでした」

 あたしは慌てて頭を下げた。

「今日もいい喰いっぷりだったね」

 と篠原さとしは笑った。篠原さんはテレビ局のディレクターだ。若いのに有能でやり手のディレクターと評判の人だった。すらっと背は高く、洋服のセンスも良い。顔もいいと思う。少し濃いけど、目の大きなイケメンだ。

「もうじき春の大食い選手権のロケが始まるね、聞いてるでしょ?」

 と篠原さんが言った。

「はい」

「君、連覇がかかってるよね? がんばって」

「はい、がんばります」

「若い娘さんに無茶させるのも気が苦しいんだけどね、君みたいな細っそりした可愛い娘がたくさん食べるから数字が取れるしね。身体、大丈夫?」

「あ、ぜんっぜん平気です。まだまだ食べられますもん」

「本当? ロケって短い時間ですごく食べなきゃならないだろう? 君は確かに大食いかもしれないけど、いくらなんでも体調崩すんじゃないかと思ってね」

 篠原さんは優しく笑った。なんていい人なんだろう。

「平気です。あたし、いくらっでも食べられますから!」

「そう。無理しないで、あ、これ俺のメアド、なんかあったら連絡して」

 篠原さんは細長いメモ用紙に書いたメールアドレスを渡してくれた。

 やった、篠原さんのメアドゲットだぜ!

「ありがとうございます!」

「じゃあ」

 篠原さんはさわやかに去って行った。あたしはぼーっとなってメアドを握りしめ、しばらくその場から動けなかった。

「おーおー、にやけちゃって」

「!」

 アカナメはあたしの横に置いてあったゴミ箱のゴミを大きな清掃ワゴンのビニール袋にあけた。そしてゴミ箱の周囲を持っていた雑巾で綺麗に拭いて、またゴミ箱を元の位置に戻した。

「あの男はよくないよぉ」

 アカナメはせっせと周囲の床をモップで拭きながら小さい声でそう言った。

「何それ、どういう意味?」

「クチメみたいなぽっと出の頭の悪そうな娘を上手に騙すってさ」

「誰がそんな事言ったのよ。ばっかばかしい」

「まあ、気をつけなよ」

 そう言うとアカナメは清掃ワゴンを押して去って行ってしまった。

「何よアレ」

 ちょっとばかし幸せな気分をアカナメに壊されて、むかむかしたらまたお腹がすいてきてしまった。でもさっき番組で食べたばかりだ。今日は夕飯までこれで我慢するつもりだったのに、どうしよう。

「クチメちゃん、お疲れ様。篠原さんと何を話てたの?」

 マネージャーが来て探るような目であたしを見た。大食いだけしか脳がないがあたしにもマネージャーがついている。一応新人タレントって奴だ。

 マネージャーは人間の女で三十代後半だと聞いている。銀縁眼鏡に髪の毛を後ろでひっつめて化粧っけはなく、真面目そうな人間に見える。

「春の特番のロケをがんばれって感じで言われた」

「ああそうね。四時間の特番だものね。ロケ地も転々とするし、体調管理に気をつけないとね」

 マネージャーの春田さんそう言って自分を納得させるようにうなずいた。

「今日の仕事はこれでお終いよ。これからどうするの?」

「お腹すいたんだけど」

「え? あれだけ食べたのに?」

 春田さんは売れない芸人のリアクションみたい大袈裟にのけぞって見せた。

 何か奢ってくれるかと期待したのに食事に行こうという言葉は春田さんから聞けなかった。テレビ局を出ると十二月の風が身を切るように冷たかった。ここは綺麗でお洒落な街だ。自信ありげに闊歩する人間達や鏡のように磨き上げられたビルの壁はとても素敵だ。この街に似合う人間に化けたつもりだった。けれど青空の下、あたしは何の予定もなく会う友達もいない。

 コートのポケットに手を突っ込むと篠原さんからもらったメールアドレスの紙きれが指に触った。それを出して眺めてみる。

「よーし、いっちょやってみるか!」

 決心が鈍らないうちにと、目についた喫茶店に入る。

 店内は暖かく、コーヒーのいい匂いがした。

 勇気を出す為にお腹に何かいれないと駄目だ。

「すいませーん。ナポリタンとハムサンドと焼きめしとカレードリアとミックスジュースとバニラアイスと食後にブレンドをお願いします」

 ウエイトレスが目を丸くして注文をオーダー表に書いた。

 携帯電話を取り出して篠原さんのメアドをメモリーに入れる。そして新規メールを作成してみる。まだだ。食べ終わって、勇気を出さないと明るい事が書けないかもしれない。

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