第6話

 屋根を叩く激しい雨音が響いている。お昼過ぎに雷の音がしたと思ったら、一気に天気が崩れてしまった。

いったいいつ止むのかしら。千景さんたち、今日は来られるかしら。

 ぼんやり環が考えていると、足元でポチが大きく尻尾を振っているのに気が付いた。

「いつの間に来たの?」

環はポチの頭を撫でる。人懐っこい子犬のように見えるが、正確には狛犬の子である。神社を守るものだからだろうか、家の扉や壁をすり抜け、いつの間にかいなくなることが多い。素戔嗚神社のためにきっと奮闘しているはずだから、暇ではないんだろうと思うことにしている。

 背中を撫でてやると、嬉しそうにポチは顔を手に摺り寄せた。

「瑞光様、お客様が来たみたい」

「ああ、千景たちだろう」

 瑞光は調理場から出て来て手ぬぐいで手を拭う。

「いらっしゃい」

 環は笑顔で千景たちを迎えた。

「環さん、この店って有名なんですね」

「そうかしら?」

 環は首をかしげた。

「今日はひどい雨で、学校の帰りに香澄さんと一緒に右京さんの馬車を待っていたんです。そうしたら、右京さんの友達を名乗る男性に馬車に乗るよう言われて」

「怖かったわ。確か、田所とか言っていたけど」

 千景と香澄がぶるっと震えた。

「右京さんから頼まれたと言って、右京さんの持ち物を証拠に出されたので、つい信用してしまったんです」

「田所……。でも、無事でよかったわ」

 環は眉を顰めた。

「雨がどんどん強くなるし、とりあえず右京さんの馬車が来るまで避難しようと香澄さんと乗ったんですが、その男性がね、辻の家に行きたいと言い出したんです」

 千景が肩をすくめた。

「どうしてお前たちだけ辻の家に行けるのか。俺も連れていってほしい。辻の家の亭主はずいぶん美貌持ちらしいじゃないか。女房は若いって聞いたぞ? どんな女なのか教えてほしい。本当にあるのか? ああ、お前たちは亭主を目当てに通っているのか?」

 田所は千景と香澄に問うたらしい。

「ええ? 違いますよ。失礼ですね」

「そんなことを言われても何のことかわかりません」

 千景と香澄は知らないと言い張ったらしい。

「お前たちのことを毎日見張っていたんだ。辻のところにいくと、突然お前たち四人の姿が消える。俺も入ろうとすると、入れない。何もそもそもないんだから、入るもへったくれもないんだが。どういう仕組みになっているのか、教えてくれないか」

「尾けていたんですか?」

 千景は驚いて大きな声を上げた。

「辻の家は築地でも有名だよ。なあ、行き方を教えてくれよ。連れて行きたい人がいるんだ。あそこは料理も出すんだろう? 一体どんな料理をだすのやら。お前たちは怪しい店で何をしているのか? 隠さなきゃいけない理由があるんだろう?」

「あなた、もしかして誰かに会いたいのですか?」

 千景が聞くと、男は黙った。

「もういいです。雨なんて濡れればいいんですから。降りましょう」

 千景は香澄の袖を引っ張った。

「おい、どうやったらいけるんだ? 教えてくれよ」

 男性が香澄の手を掴んだ。

「ちょっとやめてください」

 香澄が男性を睨み付ける。

「おい! 俺の婚約者に何の用事だ?」

 義家が乱暴に馬車の扉を開けた。

「義家」

 義家が婚約者と言ったので、香澄はドキッとした。正式に婚約はしていないが、義家はその気があるのだろうか。香澄は嬉しくなると同時に一瞬不安になった。

「大丈夫か。遅くなってごめん」

「助けに来てくれてありがとう」

 右京は千景を馬車から降ろした。

「お前の婚約者は毎日のようにあの店に行っていたようだな」

 田所が右京に告げた。

「私たちは不貞など働いてませんわ」

 千景が首を振る。

「俺も一緒に行っている。それに、俺たちはもうすぐ所帯を持つ予定だ」

「もしかすると、婚約しないとあの店には行けないのか?」

 田所は眉根を寄せる。

「いやそういうわけではない。店から呼ばれないと行けないのだ」

「理解不能だな。噂の店に行かないといけないのだが」

 田所は残念そうな顔をしていた。その様子は真剣そのもの。だから興味半分で揶揄っているのではなく、何か事情があると思われた。

「それにしてもなんだかおかしな人だったわよね」

 香澄が千景に話しかける。

「本当に。でも用事がないならこの店にたどり着くことができませんものね。とはいえ、環さん、お気を付けくださいね」

 千景は心配そうに言う。

「すまない。たしかにあいつ、田所は学校の同級生なんだが。なぜあんなことをしたかわからない。築地で噂になっているって言っていたな。あそこは外国人居留地だよな」

「右京さんも義家さんも、私たちを守ってくれてありがとう」

 千景が頭を下げる。

「俺たちだって、なぜ辻の家に通えているのかわからないものなあ」

 義家は上を見て考える。

「そうね。私は環さんやマリアに会えるからいいんだけど」

「俺も美味しい料理を食えるから楽しいよ」

 馬車を降りてからは、右京は千景と、義家は香澄とそれぞれ傘に入り、歩いてきたのだという。千景さん、香澄さん、よかったですねと環は心の中でつぶやいた。

「なるほど、わかりました。でも、ご縁がないとここまで来れませんから。案内役のポチさんもいますし。店に来たら対応しますけれど」

「すまない。あいつも悪気はないんだと思う。でも、千景さんに接触したのはやりすぎだ。それだけこの店に来たかったのかもしれないが、見つけることができずイライラしている感じだったなあ」

 ご縁があったら、来るかもしれない。でも、田所って、まさかね。連れて行きたい人って誰なんだろう。

義家の答えに環は苦笑する。

おばあちゃんのことを思い出した。おばあちゃんはもしかすると、もういなくなっているのかもしれない。そうならば、ここに顔を見せに来てくれてもいいはずなのに。私の思いが足りないの? 思い出の料理が違っている? どうしたらいいの?

環の気分は暗くなった。

ポチの鳴き声が外から響く。また誰かを連れてきたのだろう。

環が扉を見ると、ポチが走って店に飛び込んできた。嬉しそうにマリアの足元を回る。と同時に、男の人が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 環が声をかける。

「晋太郎お兄ちゃん! お兄ちゃん!」

 マリアは大きな声をあげた。

「マリア、ここにいたんだね! 会いたかったよ」

 晋太郎はマリアを抱き上げた。

「お兄ちゃん、大きくなった?」

「ああ、少し背が伸びたよ」

「お母さんは? お母さんはどこ?」

「母さんはマリアに会いたくて、毎日マリアのことを探している」

 晋太郎は少し悲し気に目元を下げた。

「本当? ママ、私のこと探してくれているの?」

「ああ。母さんに今日も辻の家に来れたことを話すから、明日一緒に来るよ。明日はマリアの誕生日だろ? きょうも素戔嗚神社の小さな狛犬がここに連れてきてくれた」

「犬じゃないの?」

「正確には狛犬という、神社を守ってくれているものだ。そうだろう?」

 晋太郎は環に訊ね、環は大きく頷いた。

「お兄ちゃんは何でも知っているね」

 マリアはにこりとした。

「お前をこのまま連れて帰りたいよ」

 晋太郎はマリアをぎゅっと抱きしめた。

「ママのところに行っても、ここでないとマリアのこと見えないの。マリアね、何回もママのところに行ったんだよ」

 マリアは悲しそうに言う。

「そうだったのか。辻の家の噂を聞いたんだ。母さんは誕生日のマリアに作ってあげたいものがあるんだって」

「今度はお母様もご一緒にいらしてくださいな。マリアちゃんはずっとここで待っていたんです」

 環は微笑んだ。

 晋太郎はマリアを何度も振り返りつつ、帰っていった。マリアはずっと手を振っていた。

「晋太郎さんとマリアはここでしか触れ合えないし、話せないのよね?」

 千景は不思議そうに聞く。

「ええ。ここでしか言葉を交わすことはできません。双方に共通する未練があったときだけこの店に来ることができます」

「マリアのお兄ちゃんって、外国人には見えなかったな」

「晋太郎お兄ちゃんは、マリアのお兄ちゃんだけど」

 マリアはぎろりと右京を睨んだ。

「そうよね、素敵なお兄ちゃんね。ところでマリア、お名前を教えてくれる?」

 香澄は笑みを浮かべた。

「マリア・スミス、四歳だよ。明日五歳になるの」

 マリアは威張って言う。

「じゃ、お兄ちゃんの名前は、晋太郎・スミスっていうのか。この前香澄が言っていた、養子になった日本人がいるって、晋太郎さんのことだったのか」

「そうみたい。明日お母さんに会えるのね? よかったわね」

 千景は目を細めた。お母さんに会って、マリアとお母さんの思いが通じ合えば、マリアは成仏してしまうのだろう。寂しいけれど仕方がない。

 寂しそうな千景に右京が優しく手を握る。

「この店、噂になっているのね。それなら私のおばあちゃんも会いに来てくれないかな」

 環は小さくつぶやいた。

「明日も皆でここにくるといいぞ?」

 調理場から瑞光が顔を出して告げると、千景と右京は大きく頷いた。


 今日は朝から晴れていた。もうすぐ夏だ。日差しも強いせいで、来客の影もはっきり映り出された。ポチが環に来客を告げに戻ると、

「環、千景たちが来たぞ」

 瑞光に言われた。環は明るい表情で扉を開ける。

「いらっしゃい」

「途中で晋太郎さんたちにも会ったからいっしょに来たのよ」

 香澄が説明する。

「環さん、驚くわよ」

 そう言って千景は一人の外国人女性を先頭に押し出した。

「タバサ先生!」

「環! 元気そうですね」

 タバサが環を抱きしめた。

「先生もお変わりなくって……ことはなさそうですね。先生、お痩せになりましたか? 顔色が悪いです」

「ああ、環さん。母さんは末っ子のマリアのことが心配で眠れなかったらしいんだ」

 晋太郎は悲痛な面持ちだ。

「あの子はどこ? どこにいるの?」

 タバサは店の中をぐるりと見渡した。

「ママー!」

 マリアが駆けだす。

 タバサは屈んでマリアを強く抱きしめた。

「マリアは今年の初めに腸チフスで死んだんだよ。母さんはマリアのことを泣いて悔やんでいて。マリアは甘いものが好きでね、うわ言で毎日ケーキが食べたいって言っていたんだ。でも、贅沢だろう? だから、誕生日にケーキを作ってあげる約束をしていたんだよ。死んでしまうなら、もっとたくさん甘いものを食べさせてあげればよかった。マリアにケーキ食べさせることができなかったって。母さんもマリアも会えてよかった」

 晋太郎はマリアとタバサの抱擁を見て涙を浮かべた。

「マリアはお母様を待っていたのね」

 千景と香澄も涙をハンカチで拭う。右京も義家も神妙な顔をしていた。

「タバサ先生、誕生日のケーキってどんなものを作るんですか?」

 千景はタバサ塾のノートをめくる。

「ケーキって習ったかしら?」

 環は首をかしげる。

「ちょっと難しいので、皆さんにお教えしていなかったかもしれませんね」

 タバサはマリアを抱え、立ち上がる。

「もしキッチンをお借りできるなら……。いくつかケーキのレシピはあるのですが、少し難しいもの、バターケーキにチャレンジしましょうか。カステラよりも重くて、味が良いです。焼いている間に簡単なケーキを作って食べてもいいですね」

 タバサは微笑んだ。

「上等なバターと玉子が必要なのですが、ありますか」

「ああ、調理場に用意してある」

瑞光は微笑んだ。

環はタバサを調理場に案内する。

「ええと、まず兜鉢に玉子の黄身を五ついれて、砂糖を大さじ五杯を混ぜます。バターを大さじ三杯を入れて、練り合わせます」

「よく混ぜるんですね」

 千景がノートに書き加える。

「それから米利堅粉を大さじ十杯、焼き粉を入れて混ぜておきます。これを兜鉢の玉子の黄身の方に混ぜるのです」

「こっちの白身の方はどうするのですか?」

 香澄がたずねる。

「白身は別に泡立てます。よく泡立ったら、二つを何回かに分けて混ぜます」

「マリアも手伝う!」

 マリアが椅子を取りに行く。

「手伝ってあげるわ」

 香澄と環がマリアの後を追った。

「今、女の人いたわよね? お年を召した方よ。ちらっと見えた気がしたんだけど。いないわね。どこに行ったのかしら」

 香澄は訝しい表情になる。

「え? いました? 他のお客さん……? 今日は来てないと思いますけど」

 お客さんが来るとき必ず先導するポチの姿もないし、誰も来ていないわよね。

環は店内を見回し確認した。

「ええ?」

環の答えに香澄は鳥肌が立った。

「大丈夫ですよ。何あっても瑞光様がいらっしゃいますから」

「そうよね」

 香澄は顔を引き攣らせる。

「ねえねえ、早くぅ」

 マリアの声に香澄ははっとした。

「さ、運びましょうか」

マリアと三人で椅子を運ぶ。

瑞光に椅子の上に立たせてもらうと、マリアは右手に泡だて器を持つ。タバサはニコニコしながら白身の入った器を押さえた。

「天板にバターを敷いて流し込んで、天火で四十分ほど焼きますよ」

「もう食べられる?」

 マリアは首をかしげる。

「まだまだよ。お腹空いた?」

「うん!」

 マリアはタバサに甘えた。

「これは一日置いた方がおいしくなるの。だから明日ね、いただきましょう」

「えええ! じゃあ、きょうは食べられないの?」

「これは無理だけれど、お誕生日だものね。ケーキを食べたいわよね? だから特別にもう一つ。これはすぐに食べられるわ」

 タバサはマリアの頭を撫でる。

「マリア、つくる!」

 マリアは鼻息を荒くした。

「これから作るのは、ホーケーキというものです。ホーとは農作業で使う道具でして」

 タバサは腕を振り下ろす。

「あ、鍬のことですか?」

「そうそう、鍬の上に玉蜀黍の生地を乗せて焼いたものが始まりです。ええと、玉蜀黍の粉は」

「玉蜀黍の粉はここにある。牛乳もあるぞ」

 瑞光がそっと差し出す。

「ありがとうございます。バターケーキはお客様にお出しすると喜ばれる、上等なお菓子ですが、ホーケーキは家庭料理になります」

「マリア、ホーケーキ知ってる! 好き」

 マリアは瞳をキラキラさせた。

「まずは玉蜀黍の粉一升に熱いお湯お入れて、さらに牛乳、塩、砂糖を入れてよくかき混ぜます。そのあと、焼くだけです。甘い方がいいときはお砂糖を大目にいれるといいですよ。牛乳も入っているので、栄養価が高いです。玉蜀黍の粉だけだとあまり膨らみません。焼粉を少し入れてもいいし、米利堅粉を混ぜると口当たりが柔らかくなります」

 タバサが説明した。

 瑞光は棚からもう一つ兜鉢を取り出して、環に渡した。

 玉蜀黍の粉と米利堅粉を混ぜ、お湯を注いだ。牛乳に塩、砂糖をさらに入れてかき混ぜる。もったりとして木匙が重い。

 瑞光が兜鉢を押さえてくれ、環は安心した。

「ぽたんってマリアが落とすね」

「危ないわよ」

 タバサが首を横に振る。

「マリアもやりたい」

「じゃあ、ひっくり返すのだけ手伝って?」

「うん」

 マリアはじっとタバサの手元を見つめている。

 タバサは「火傷しちゃうから、もうちょっと後ろに下がってね」と言って、焼く準備をした。調理場がふんわりと甘い匂いがする。

天火に入れてあるバターケーキのほうも焼きあがってきたようで、バターの香ばしい匂いが追いかけるように調理場を満たした。

「お腹空いた」

 マリアは両手でお腹を撫でる。

「もう少しですよ。ほら」

 タバサはホーケーキを揺すって動かす。

「マリアがひっくり返すね」

 木匙を持ってマリアはにこりと笑った。

「お茶の準備も致しましょうか」

 環は湯呑の用意を始めた。

「牛乳って言えば、耕牧社さんですよね」

 千景が牛乳瓶を見た。胴部に耕牧社と陽刻されている。

「耕牧社があるのって、原っぱの築地の辺りだろう? 外国人居留地も近いから、外国人家庭やホテル、病院や海軍の施設関係に売っているんだよ。上手いことやるよなあ」

 義家が思い出したように話す。

「タバサ先生のお家のそばですか?」

 香澄が尋ねる。

「ええ、そうよ」

 タバサは笑みを浮かべた。

「この前、牛乳の用法という本を読みましたわ。耕牧社の新原敏三さんってやり手なんですよね」

 香澄が感心する。

「新原さんね、何度かお目にかかったことがありますよ。とても熱心でいい人です。紅茶に牛乳とお砂糖も入れましょうね」

 タバサは慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。

「タバサ先生、私もタバサ塾に入会したいんですけれど、大丈夫ですか」

「まあ、香澄さん。嬉しいわ。ぜひいらして」

 タバサは香澄に微笑んだ。

「マリアはママの甘い紅茶が好きなの」

マリアはタバサにまとわりついている。

「ふふふ。嬉しいわ。たくさん食べて、いっぱい飲んでね。ママはマリアの美味しそうな顔、大好きなの」

 タバサが環に視線を向けた。

「辻の家にいる限り、違う世界の者も食することができますから、安心してください」

 環の言葉に、タバサはホッとした表情になった。

「一緒に食べましょうね」

「うん。ホーケーキ、食べたかったんだ!」

「そう? バターケーキよりも?」

「だって、いつもママが作ってくれたのはホーケーキだよ。ホーケーキがいいよ」

 マリアはニコニコしてフォークを掴む。

「お誕生日おめでとう」

 タバサはマリアに小さいお人形を渡した。

「ありがとう! 可愛い。これ、持って帰ってもいい?」

「もちろんよ」

 タバサは複雑な表情をした。

「さあ、温かいうちに食べましょう。皆さんもどうぞ」

 タバサは皿をすすめた。

「玉蜀黍の粉のケーキを食べるのは初めてだよ。意外に美味しいな」

 右京は一口食べる。

「美味い。いいなこれ。また食いたい」

「はいはい。ちゃんとレシピを書いておいたから、後で作ってあげるわ」

 香澄が苦笑した。

「右京さんも食べられるなんて……。私も作りますね」

 千景が右京を見た。

「こんなに喜んでもらえるなんて、嬉しいわ。きょうはいいお誕生日ね」

 タバサは目に涙を浮かべた。

「ママ、ありがとう。また作ってね。あっちで待っているから」

 マリアの姿がキラキラと光り薄くなっていく。

「まだ行かないで」

 タバサはマリアの手を引っ張ろうとするがつかめない。

「ママ、お兄ちゃん、またね。お人形もありがとう。環、瑞光、ありがとう。ポチもまたね」

 マリアの声だけが響く。

「マリアがいなくなった。いってしまった」

 晋太郎が店の中を探すが、見つからない。タバサは床に座り込んでしまった。目に涙をためてハンカチを握りしめている。

 千景たちは口をつぐんで目を伏せていた。

 二度目の別れ。辻の家では会うことができるから必ず別れがある。

 テーブルにはマリアのフォークが転がっていた。

「そういえば、義家はマリアのこと、最初は見えなかったのに、見えるようになっていたの?」

 香澄が不思議そうに聞く。

「ああ、なぜかホーケーキを見ていたら、マリアが見えるようになったんだよ」

 義家がつぶやく。

「それはマリアのホーケーキを食べたいって思いがマリアに通じたからじゃないか」

 右京は笑い始めた。

「え? そういうこと?」

 義家は頭を掻く。

「もう! 食い意地が張っているから」

 香澄は義家の背中を叩く。義家はむせて咳をした。

 涙交じりの笑い声が響く。

「義家さん、ありがとう。香澄さんも千景さんも、右京さんも、みんなでマリアの誕生日が祝えてよかったです。本当にありがとう。それから、環さん、瑞光様、お店でマリアの面倒をみてくださっていたのですね。感謝しかありません」

 タバサは深々と頭を下げた。


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