ページのすき間で考えていたこと

kok

思考のざわめき

 わあ、三つ目の読書メモを書こうとしたときに、ふと思ったんです。「それなら、いっそ連載にしちゃえばいいんじゃない?」(図々しいですね)


 もう一つ理由があるんですが、それはちょっと内緒にさせてください。このシリーズは、私が読書中にふと頭に浮かんだことを記録するものです。読みづらい段落になっていたら、すみません。


 最近、幼なじみをテーマにした作品をいくつか読みました。実は私にも、幼稚園から高校までずっと同じクラスだった友達がいて、家も近かったので、ほぼ毎日一緒に登校していました。だから似たような話を読むたびに、その子のことを思い出して、すぐ心の中でツッコミたくなるんです——「いやいや、彼女のことを好きになるなんて、絶対ないってば!そんなの、創作の中だけの話でしょ(笑)」


 その友達は、実はかなり早い段階から私に百合作品を勧めてくれていました。私が百合の魅力に気づき始めた頃、彼女はすぐに『シトラス』を強く勧めてきて、「もう何百回も読んだよ!」って嬉しそうに言ってたんです。私は以前、数ページ読んだところで止まってしまっていたんですが、今回はちゃんと最後まで読んでみて、「うん!めっちゃドラマチックだった〜」って思いました。

(あくまで個人の感想です!好きな人がいたら、どうか気を悪くしないでくださいね)


 こういうすれ違いや誤解を引き伸ばす展開には、ついげんなりしてしまうことが多いんです。たとえばMyGOのように、ちゃんと話し合えばよかったのに……って感じの感情のすれ違いを見ると、心の中で「お願いだから、そろそろちゃんと話して〜!」って思っちゃう。言葉って、大事に使わなきゃダメですよね。


 そんな気持ちになることもあって、私は普段から完結済みの作品ばかり読むようにしています。完結済みだと、どうしても感想やタグを目にする機会が多くなるんですよね。「あ、これ切ない系かも」と思ったら、読むタイミングは心が元気なときにしよう……って、つい後回しにしてしまう。で、どんどん積読になる(笑)


 いざ読み始めると、心の中ではずっと「来る?もう来る?ここから切なくなる?終わり近い?」みたいに身構えていて、まるで息を止めてるみたい。その瞬間が過ぎたあと、ようやくほっとして、解放されたような気持ちになるんです。こんなふうにビクビクしながら読んでるの、私だけ……?


 私はよく読書中にあれこれ考えちゃうタイプなので、「だったらいっそ、浮かんできたことを書き残しておこうかな」って思って。誰かの役に立つかはわからないけど、そういう断片的な気持ちでも、記録しておきたいなって。だって、私はそういうわがままな大人だから。


 では、本題に入りましょう。今日は、私が作品を読むときによく考えてしまう「締めくくり」について話したいと思います。


 だいたい5話くらいまで読んで、作品の世界観やキャラ同士の関係が面白ければ、「感想を書こうかな」と思うことが多いです。よほど途中で「これはちょっと……」と感じるような展開がない限り、最初の印象で書くかどうかはだいたい決まってしまいます。でも、それをひっくり返すくらい印象を変えてくるのが——やっぱり、ラストのまとめ方なんです。終わりがきちんと収まっているかどうかで、作品全体の印象が変わってくることってありますよね。


 私の感想を読んだことがある方ならご存じかもしれませんが、私は作品の構成全体にかなりこだわるタイプです。もちろん、すべての作品が起承転結に沿う必要があるとは思っていません。とはいえ、それを重視すること自体を否定するつもりもありません。ただ、その「構成」とは、決して起承転結のような決まった型に当てはめることを指しているわけではありません。展開された要素や伏線が、物語の終盤できちんと回収されているかどうか——私はそこをとても気にしています。


 私はよく、物語の構造を「織物」にたとえて考えています。それぞれのストーリーラインは、布に針と糸が刺し込まれていくようなもので、キャラ同士の関係や出来事が少しずつ重なり合って、ひとつの世界が編まれていくような感覚。密に編まれているか、少し粗めかは、作品ごとに調整していいと思うんです。でも……糸の端があちこちでだらんと垂れてるのは、ちょっと気になるかな。(いや、もちろんそれを読者に納得させる説得力があれば、全然アリなんですけどね)   


 作品の大きさや丁寧さは、作者の選択次第です。私は作品を読むとき、最後にどんな形に着地するのか、どこかで意識してしまいます。広げられたものが何かしらの形になって収束していると、「ああ、これはひとつの作品としてきちんと完結しているな」と感じるんです。そうやって最後まで糸がきちんと収められていると、その作品はまるで、長く手元に置いて何度も使いたくなる布製品みたいだなって思うんです。


 もったいないと思う気持ちはあるけれど、きっとそういう経験も次の作品に活かされていくはず。だから私は、これからもその人たちの創作を楽しみにしています。


 あらかじめ言っておきますが、これは決して「こう書くべき」みたいな話をしたいわけではありません。今回こうして書いたのは、ただ読者と創作者のあいだで考え方や視点が少しでも行き来できたら面白いんじゃないかと思ったからです。もし私の考えが少しでも出過ぎたものに聞こえたら、ごめんなさい。それに、こんな拙い比喩まで使ってしまって……たぶんあまり上手くもないし、うまく伝わってないかもしれません。


 でも、今の私にはこれが精一杯の言葉なんです。私はいつも自分の考えを疑ってばかりで、思考が固まってしまうのが怖い。きっとそのうちまた、別のふうに考えるようになる気もしています。もし違う見方や感じ方があれば、ぜひ教えてもらえたらうれしいです。


 私は作品を評価するときに、「良い」「悪い」みたいな言葉をできるだけ使わないようにしています。というのも、自分の基準なんてきっと狭くて偏っていて、そんなものに当てはめてしまうことで、作品が持つかもしれない多様な解釈の可能性を狭めてしまう気がするからです。それだけはしたくないし、きっとそれは私の本意でもないんです。


 最近、百合漫画家の甘崎水菓先生が、茨木のり子さんの詩「さくら」に出てくる一節を紹介しているのを目にしました。「死こそ常態、生はいとしき蜃気楼。」この詩が本当に好きで、この二人の作者のこともとても好きです。もし機会があれば、ぜひふたりの作品を知ってもらえたらうれしいです。


 この一節を思い出すたびに、愛しさと哀しさがいっしょにこみ上げてきて、やわらかいのに鋭い、そんな言葉に心を深く撃ち抜かれたような感覚になります。その衝撃はまるで、ひとりの子どもが誰もいない寝室で空気に向かって拳を振り回すような、そうでもしないと揺さぶられた気持ちを抑えきれない、あのどうしようもない衝動に似ていて。同時に、こんなにも言葉が貧しい自分に腹が立って、悔しくなります。まるで干からびた漬物みたいな私が、美しい文章にボコボコに殴られて、泣きたくなるような……。


 残るのは、どうしようもないくらいの嫉妬と、こんなところで立ち止まっていられないっていう焦り、そしてそれでもやっぱり——もっと言葉を追いかけたい、という小さな決意だけなんです。


 作品に心を動かされるときの私は、たいていいつもこんなふうに情けない。感情をちゃんと表現できないときは、自分に言い聞かせるようにしています。「……うん、じゃあ、もっと読もう」って。


 じゃあ、今日はこのへんで。一緒にこれからも読んで、書いていきましょう。自分の中にある「表現したい」という気持ちを、抑えこまないで——たとえそれが、むき出しで、不器用なものであっても。前に進む姿勢なんて、どんなかたちでもいいと思うから。だから、おたがいにやさしく、そして言葉には正直でいられたら、うれしいです。


 ……うん、なんかこれ、自己啓発系の怪しい宗教みたいな締め方ですね(笑)。でも違います。ただの読書日記です!!!


 

 次回は、たぶん誰にも興味を持たれなさそうなテーマについて書くつもりです。川端康成の『美しさと哀しみと』を百合的視点で読んでみた話とか、あるいはファンタジー作品の世界観設計についてとか。気分がのれば、わりとすぐに書き始めるかもしれません。


 それでは、また次の回で。

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