第4章(後半)/名前のないわたしが、名前を呼ばれた日

彼に似合うわたしになりたくて、最近は髪も暗く染め直した。洋服も、前にかわいいって言われたピンクのワンピースを中心に選んでいる。


それが正解だと思ってた。


でも、ある日。

待ち合わせに五分遅れてついたわたしを見て、彼が小さくため息をついた。


「前はもっときちんとしてたのに」


その言葉に、わたしは笑ってみせた。

何も感じてないふりをして。でもその日、帰って鏡を見ると、まつげが湿っていた。


その次のデートで、「メイクがちょっと濃いかもね」と言われた。彼がかわいいって言ったのは、このリップだったのに。わたしは急いでバッグの中のミラーで口元を拭い、笑って「ごめん」と言った。


ごめんって、何に対して?

わたしは、自分の唇に謝っていたのかもしれない。


彼は、悪くない。

わたしを否定するようなことなんて、なにひとつ言ってない。


でも、気がつくと。

わたしの声が、どんどん小さくなっていた。


彼の「似合うね」にすべてを預けすぎて、わたしは、わたしが何を好きだったか、何を着たかったか、何を言いたかったか、思い出せなくなっていた。


気づけば、仮面はもう“仮面”じゃなかった。

最初は顔につけていたはずのそれは、いつのまにか、皮膚に縫い込まれていた。

剥がせなくなっていた。

いまのわたしは、仮面を“演じる”ことすらできていない。

わたし自身が、仮面の素材になってしまったみたいだった。


もう、仮面じゃない。

これは“鎧”だ。


彼に見られるためだけに身につけた、わたしの輪郭ごと覆う、

わたしを守るはずだったのに、わたしの自由を奪っていく、

重たくて、冷たい、鎧だった。


それが、「わたし自身の意志」なのか、「彼に染められた形」なのか、もう、境界がわからなかった。


そんなある日。

ふと、実家に立ち寄ったとき、母が「これ、片づけといて」と押し入れから出してきた段ボールの中に、それはあった。


薄い封筒に、見覚えのある、丸い字。宛名は書いていなかったけれど、すぐにわかった。

それは、さきの字だった。


封は、開いていなかった。

わたしに向けて書かれたものだったのか、それとも、ただのメモだったのか。

何度も、指先が破りかけては、やめた。


怖かった。


今のわたしは、誰かに“見られる”ことに慣れすぎて、誰かの“まなざし”に触れるのが怖くなっていた。


だから、封筒はそっと元に戻した。

読まないまま、バッグの底にしまい込んだ。


まだ、読めなかった。


それからのわたしは、考えることをやめた。


何が似合うかも、何が好きかも、もう決める必要はなかった。

彼が「いいね」と言ってくれるものを、ただ選べばよかった。


彼の前での声は、ワントーン高く。歩幅は、彼に合わせて少し小さく。笑い方も、目線の上げ方も、角度まで、観察して調整した。


まるで舞台女優のように。


彼が寒そうにしていたら、上着を貸した。

疲れていそうなら、飲み物を買っておいた。

アラームの時間も、彼の予定に合わせてセットした。


“気が利くね”って、笑ってもらえるなら、わたしの生活の輪郭なんて、いくらでも削ってよかった。


自分が、彼の“理想”に近づけた日は、よく眠れた。

その逆の日は、布団の中で「どこが違ったのか」を反省しながら、朝を迎えた。


でも、わたしは苦しくなかった。

……たぶん、本当に、何も感じなくなっていたから。


手帳のメモ欄には、彼の好きな言葉と嫌いな言葉が並んでいた。

LINEの未読を放置する彼の癖にも、もう驚かなくなっていた。


もしかすると、そこにいたのは、“さや”じゃなかったのかもしれない。

“彼が褒めたもの”だけで作られた、“さやだった何か”が、そこに座っていただけだった。


そしてある日、彼の口から、唐突にこぼれた言葉。


「最近、ちょっと重いかもな」


彼の言葉は、いつもより軽かった。

まるで、飲み残したコーヒーのことでも話すみたいに。


わたしは、笑えなかった。

いや、笑おうとして、口角だけ動かしたけど、

声が、出なかった。


気づいたら、口が勝手に動いていた。


「……“かわいい”って、言われたくて」

「全部、捨てたのに」


声は、壊れそうなくらい震えていた。

でも、止まらなかった。


「あなたが“いいね”って言った服を着て、髪を切って、言葉を選んで、歩き方も、視線も、あなたがくれた“かわいい”のためだけに、わたしは、わたしを全部捨てたのに」


涙がどこから出ているのかもわからない。

でも、出るたびに、胸が空っぽになっていく。


「これ以上、何を捨てればいいの?」

「もう、捨てるものなんて、ないのに……」


最後の言葉だけ、

息を吐くように、音だけで、落ちた。


彼は、何も言わなかった。

わたしを見ようともしなかった。


そのとき初めて、

“見られる”ために生きていた自分が、

誰にも、見られていなかったことに、気がついた。


ああ、って思った。


この人は、最初から。

わたしがどう思ってるかなんて、見てなかったんだって。


「全部、あなたのために捨てたのに……」

「……あなたは、わたしを全部、捨てたんだね」


彼が何か言いかけたのを遮るように、

わたしは立ち上がった。


鞄を手にして、言った。


「ありがとう。おかげで、ほんとうの“空っぽ”を知れた」


わたしは、背を向けた。

振り返らなかった。


あの日から、もう何日経ったのかも、よく覚えていない。

ただ、“空っぽ”のまま、わたしは日々を消化していた。


就活は続けていた。


ボロボロになったリクルートスーツを着て、面接のビルに入る。

カバンの角は擦り切れて、黒だった革は灰色に近い。

ストッキングには小さな穴が空いていて、でも気にしない。


受付では何も考えずに名前を言った。

番号札をもらって、何も考えずに待った。

面接官に呼ばれて、何も考えずに座った。


「長所はなんですか?」

「粘り強いところです」

「志望動機は?」

「人と関わる仕事に興味があります」

「なぜうちに?」

「説明会で社員の方が話しやすかったからです」


何度も繰り返してきた言葉たち。

暗記したわけじゃないのに、口が勝手に動く。

心が何も言ってこないから、代わりに口だけが動いてる。


待合室では、他の学生の名前が呼ばれていく。

「〇〇さん、面接室へどうぞ」

でもわたしのときは、

「10番の方」だった。


名前すら、呼ばれなかった気がした。

わたしは、「存在」として扱われていなかったのかもしれない。


たくさん落ちた。

履歴書も、証明写真も、いくつも使った。

メールの不採用通知はフォルダごと溢れている。


でも、わたしは、何も感じなかった。

傷つかなかった。

落ち込まなかった。


気づいたら、もう二十社以上、受けていた。


誰かに言ったら、「えらいね」って言うかもしれない。

でも、ほんとうは違う。


ただ、何も感じないから、やめなかっただけだ。

諦める理由すら、持てなかっただけだ。


そんなときだった。


たった一社だけ、合格の通知が届いた。


地元の、小さなイベント会社だった。

商店街やショッピングモールで、子ども向けのショーをやるような、名もない会社。


面接のとき、担当者はこう言った。

「すごく落ち着いてて、安心感があるね」


落ち着いてたわけじゃない。

ただ、感情がなかっただけ。


無だっただけ。


それでも、その無の中に、

“何か”を見てくれた人がいた。


面接が終わったあと、担当者が名札を見て言った。

「さやさん、って言うんだね。……名前も、声の響きも、やわらかいね」


名前を呼ばれたのは、久しぶりだった気がした。

“さや”という名前が、ちゃんと“わたし”の輪郭に届いた気がして、

そのとき、わたしのなかで何かがわずかに、確かに、動いた。


存在していなかったわたし。

ただのタンパク質みたいだったわたしを、

この小さな会社だけが、なぜか、見つけてくれた。


通知メールを開いたとき、

「おめでとうございます」の文字が目に入った。


一瞬、何かが揺れた。

胸の奥、空っぽだったはずの場所が、かすかに反応した気がした。


でも、気のせいかもしれない。

わたしは、自分の表情に気づかないまま、画面を閉じた。


そのとき、

気づかないうちに、ほんの少しだけ、頬がゆるんでいた。


自分では、まだ何も変わってないつもりだった。

何も思ってないし、何も期待してない。


――そう思っていた。


でも、本当はたぶん、もう、ほんの少しだけ。

壊れきったその奥で、

“何か”が動きはじめていたのかもしれない。


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