第4話
スーパーマーケットの店先にカットスイカが並び始めて、もうじき夏になるんだと思った。よく考えたらまだ梅雨にもなっていないのでは、と今日の空模様を思い浮かべようとしたけれど案外と見ていないもので、曇り……だったような……という具合のはっきりしない印象しか思い浮かばない。
カートを押しながら、カットスイカの横をのろのろと通り過ぎる。前を歩く美里さんの目を盗んでこれを籠に入れるのは悪くない話だ。問題は、美里さんも僕も、そんなにスイカが得意ではないという事。
「ねぇ見て、もう夏野菜」
美里さんが足を止めるのはズッキーニやナスやトマトなんかが所狭しと並んだ棚だ。それぞれをまるで今、自分が畑から収穫しましたとでも言うように誇らしげに手に取り、籠に入れ……る途中で手を止める。
「……あら?」
「バレたか」
レジにたどり着く前にカットスイカの入ったパックは見つかってしまった。美里さんはひょいと眉を上げただけで、そのままスイカの横に夏野菜を並べて置く。どうやら見逃してくれるらしい。僕は、どうか甘いスイカでありますようにとひっそり願いながら、白く光る床の上を歩いて行く。
それから、なんとなく夏っぽい物を見つけるたび籠に入れたりする悪ふざけをして、その結果案外と買い込んでしまいながら持ち重りのする買い物袋を提げて歩いて来ると、マンションのエントランスに誰かが立っているのが見えた。ずいぶんと長身な彼女は眠たげな表情で明らかに待ちぼうけをしており、こういうのは言語の壁を超えるものなのだなぁと思ったのを知ってか知らずか、僕らの姿を捉えるなり表情をぱっと変えた。具体的に言えば、旧知の友にでも遭遇したかのような安心感が浮かんだのだ。それで、あぁ、さっきのあれは眠かったのではなくて心細かったのか、などと合点してはみたものの、僕は彼女に心当たりがない。何せ、一目でそれと分かる外国人の顔立ちをしていたのだ。
彼女はエントランスからサンダルの踵を鳴らして飛び出してきて、嬉しそうに美里さんの前に跳び立った。
「はじめまして、あなたがカオリね?」
名前を呼ばれた当の美里さんがぽかんとしているのにも構わず両手を握ると、大きく上下に振った。
「ダイアナ・トチボリよ。シュースケのアイジンね!」
「……は?」
今度は僕がぽかんとする。「シュースケ」とは恐らく美里さんの結婚相手で間違いなくて。だとしても、日本語に明るくないのを差し引いても「愛人」って自分で言うのか。そう思っていると今度は僕に矛先が向く。
「アナタがマオトコね! はじめまして!」
あんまりにあんまりな言い草に、僕は思い切り咽こんでしまったのだった。
立ち話も何なので、と美里さんが誘うとダイアナは一も二もなく付いてきた。正妻と愛人と間男と、そう認識すると本当に妙な構図だ。シュースケとやらは今どこにいるのだろう。出されたカットスイカに嬉しそうに齧りつくダイアナの横顔を見ながらそう考えていると、見透かしたようにブルーの瞳がこちらを捉えた。
「シュースケはここには来ないわ」
「……黙って来たの?」
「そう。どうしてもカオリに会っておきたくて」
あらら、と困ったように眉尻を下げた美里さんに、でもダイアナは首を横に振って応える。その拍子にブロンドの巻き毛が大げさに揺れて、ハーブみたいな、シャンプーだかコロンだかの、強い香りを振りまいた。
「ノーノー。ワタシの祖父、日本人。だからお墓参りにきたツイデよ。えっとー、お盆?」
……にしては少しタイミングが早い気がするけれど、その辺は日本人とは感覚が異なるのかも知れない。
「シュースケってあの通りの性格でしょう? カオリのこと、もうほっとんど喋らないの。この三年間で知ったアナタに関する知識は、カオリって名前と足のサイズだけよ」
「……足のサイズ?」
「そう。シュースケの荷物に紛れていたの、アナタのサンダルが」
ターコイズブルーのストラップが付いた、白い革を編み込んだサンダル。説明されるや否や、美里さんの顔が可笑しそうにほころんだ。やだ、なにそれ、懐かしい!
「え、待って。それって今アメリカにあるの?」
「うちのクローゼットの中よ。最初ワタシへのプレゼントかと思ったらサイズが小さすぎるんだもの。驚いちゃったわ!」
肩の辺りで両手のひらを真上に向けるリアクションは正しくアメリカ直輸入という感じがして、それで僕も美里さんも、つられたのかダイアナも、意味が分からないくらい大笑いしてしまった。笑って、笑って、お腹がよじれるほど大笑いして。それがやっと落ち着いた時、美里さんがまだ笑いの余韻の残る声でこう言った。
「笑ったらお腹すいちゃった。ねぇ、ごはん食べに行かない? いい店があるんだ」
日本の居酒屋に入るのは初めてなのだと興奮気味にのれんを潜ったダイアナは、お品書きを眺めてはアレコレと美里さんに質問を浴びせている。
煮込みとは何か、えいひれの炙りとは肉なのか魚なのか(鰭だと理解すると引っ繰り返らんばかりに驚いていた)、クリームチーズの味噌漬けとは味噌が付いたクリームチーズの事なのか、よだれ鳥とはどんな鳴き方をする鳥なのか。僕と美里さんは持てる言葉の限りを尽くして説明し、説明がつかなかったものは速やかに注文した。幸いなことに、この店は何を頼んでも外れがない。
「おいおい東城くんよ、久々に顔見せたと思ったら両手に花とはねぇ」
店長の気安い声に、僕は少々複雑な心持ちになる。
「花と言うか何と言うかまぁ、その……」
もごもごと相槌を打ってから答えあぐね、お通しの冬瓜の煮付けを口にする。飴色に透き通った塊は口に入れるとひんやり冷たくて、噛めばじゅわりと出汁が溢れる。ダイアナが機嫌良さそうに微笑んだ。
「ハイ、ワタシはアイジンです!」
それを言うか。
「そう。私が正妻で、この人は間男なの」
嗜めるどころか美里さんまで調子に乗り出すものだから、僕は冬瓜をもうひとつ口に放り込む。酔っ払い共め、と思ったけれど、ふと見ればダイアナはオレンジジュースだ。
「なんだってまぁ、景気のいい話だなぁ」
良いのか悪いのか、何が何だかひとつもわからない。だいたい、美里さんの夫は何処で何をしているんだ。うかうかしてると僕が奪っちまうぞ。すべてを棚に上げてそう考えてしまうくらいには酔いが回り始めていて、僕は運ばれて来たえいひれを大きな一口で嚙み千切ると、ふんと一息鼻を鳴らした。
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