第二章
第13話 始まりは夏
「おはよう、奈々子」
「ん……哲郎さんっ……」
日曜日の朝、哲郎も奈々子も朝は遅いが奈々子は特に遅い。二人の土曜日の夜が……長いからである。
マイペースに小説教室を経営する哲郎は、唯一の終日休みが日曜日。営業事務の仕事をする奈々子も週末が休みであり、土曜日の夜が特にゆっくり向き合える大切な時間になっていた。
同棲して約二ヶ月。まだまだ新鮮な気持ちでいる哲郎と奈々子。日曜日の朝だって甘い時間となり得る。
「……そろそろ起きないと明日に響くぞ?」
「だって……もう少しだけ」
「昨日の夜、話し込んだからな」
「……」
「……フフ。図星か」
布団を頭までかけて奈々子が抵抗するが、哲郎にあっという間に布団を剥がされる。
「わかった……起きるよ。哲郎さ……きゃっ」
哲郎に唇を塞がれ、奈々子は力が抜けていく。彼女を離したくなくてつい抱き寄せた――ただそれだけのことだった。
ようやく奈々子が服を着てダイニングに来た。哲郎が簡単に作ったブランチがテーブルに並んでいる。哲郎特製のタマゴサンドは奈々子の好物であり、彼女は笑顔を見せる。
哲郎のコーヒーの香りとタマゴサンド。目の前に哲郎の渋い笑顔。奈々子の至福の時である。
「このスクランブルエッグのタマゴサンドが好きなの。ゆで卵とマヨネーズでもいいけど」
「簡単に作れるからな」
「そう! だけど哲郎さんのスクランブルエッグには何が入っているの? 私が作るよりもまろやかなんだけど」
哲郎も奈々子も料理は最低限だけであった。しかし同棲するようになってからは少しだけであるが、凝ったものにも挑戦するようになった。時々一緒にキッチンにも立つ。
「普通に卵と牛乳と塩胡椒だけだ」
「え? じゃあ……作り方かな?」
「弱火でな」
「そうか……私はそこまで待てないから」
「……だよな。だから一瞬の強火で終わらせるんだよ」
奈々子がハッとした表情になる。
「一瞬の強火……! ありがとう哲郎さん!」
さっと棚の上のノートを取り出して『一瞬の強火で私の心を溶かす貴方。その一瞬は忘れられない想い出に……』とメモを取っている。
彼女は仕事の傍ら物語を投稿している。哲郎の小説教室に通い、哲郎と出逢ってからはますます執筆することが好きになった。
「奈々子は熱心だな。コーヒー冷めるぞ?」
「やだやだっ……哲郎さんの気持ちが冷めるだなんて……」
「君の情熱にはかなわないな」
「貴方だって……どうしていつも……」
二人が見つめ合う。
どうして、こんなに惹かれ合うのだろう。
「……あ、いけない。食べなきゃ……」
「ゆっくりでいいよ」
「うん、ありがとう」
※※※
『綾小路小説教室 夏休み開講クラス 受講生募集。初心者でもどなたでも歓迎します』
哲郎はサイトに募集のページを作っていた。まるで塾の夏期講習のようだが、単に夏休みからスタートする週一回のクラスである。
「奈々子はどうする? 俺の教室、また通うか?」
哲郎がリビングのソファにいた奈々子に声をかけた。
「……寝ているのか。俺は少し寂しいんだがな」
奈々子は平日の仕事が忙しく週末は休息を取っていることが多い。さらに合間に小説を投稿するため、日曜日の午後はたまに眠ってしまう。
哲郎は優しく彼女の髪を撫でてブランケットを被せようとしたが、奈々子は目を覚ました。
「あっ……哲郎さん……つい寝ちゃった」
「お疲れだな、奈々子」
「……私はもっと哲郎さんと話したいのに」
「そうだな、じゃあ散歩にでも行くか」
※※※
夕方でもまだ暑いが、近所の河川敷を散歩することは二人にとって良い気分転換となる。人も少ないので二人だけの世界を歩いているような気分になり、奈々子は自然と笑みがこぼれる。
まだ明るい空に緑が濃く茂っており、川が静かに時を刻んでいる。ここにいると現実の慌ただしさを忘れ、哲郎のことだけを考えることができる。
やっぱり好きなのだと。
哲郎のことが好きなのだと。
「そうだ奈々子。さっき言おうと思っていたのだが、俺の教室にまた通うか?」
「教室?」
奈々子は哲郎の小説教室で多くのことを学んだ。もっと他の作品を読む機会が欲しいとも思っている。ウェブ小説を読む余裕などなく、教室という形であれば誰かの作品を読む機会が与えられる。
「通いたい! 哲郎さん……私、前もみんなと話しながら執筆するのが楽しかった。だからまた通いたい」
哲郎の渋い笑顔、その笑顔が奈々子の心を熱くする。彼女は哲郎に抱きつく。
「ねぇ哲郎さん、嬉しすぎてくっついちゃった」
「可愛い……奈々子」
再び見つめ合う二人に蝉の声など聞こえていない。影が重なる瞬間に、今朝の「一瞬の強火」という言葉がよぎる。しかし一瞬で終わらせるものかとでも言うように、哲郎が強く彼女を抱き締めていた。
※※※
「もちろん奈々子は無料で受講できるからな」
帰宅後に哲郎が言う。
「え? いいの? 何だか申し訳ないんだけど」
「もう一緒にいるからな」
奈々子は頬を赤らめて哲郎の手をぎゅっと握る。
「だが、前みたいに俺ばかり見てたら駄目だぞ?」
「……だって哲郎さんがこっちばかり見るから」
哲郎も照れた表情をする。
「……授業できるか心配になってきたな。奈々子には機会をあげたいのだが」
「哲郎さん大丈夫! 一番遠くに座るから」
「それだと何だか落ち着かない。奈々子」
哲郎の顔が近くて、奈々子はまたもや顔が熱くなってきた。
「じゃあ……貴方の一番近くに座っているから」
哲郎がパッと笑顔になる。
「その代わり私が哲郎さんばかり見てても……許してね」
「フフ……そうだな。お互い気をつけようか」
「あの……哲郎さん」
「ん?」
「個人レッスンは今回もついているの?」
前に哲郎の教室へ通った時には、奈々子だけ特別にレッスンすることがあった。恋愛小説を哲郎に見てもらっていたのだ。
「奈々子が希望するなら、いつでも」
「ねぇ、今でも?」
甘える奈々子の眼鏡を哲郎がゆっくりと外してくれた。
「そうだな。今から……場所を変えて、ふたりで落ち着いて話そう」
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