第五話

 体の一部を変化させる魔術は、かけるよりも解くほうが難易度が高い。アミットは魔術をかけるスピードにはある程度自信があったが、解くのは苦手だった。森と人間の住む場所の境い目あたりまで降りてくると、既に日が沈みかけていた。大木の枝にとまって葉で身を隠しながら、一晩時間を潰し、翼が元の腕に戻るまで待った。やっと魔術が解けると、アミットはすぐにクエストインに入り、ビールを1杯頼んだ。自分の顔よりも大きなジョッキがテーブルに置かれ、アミットはそれを両手で抱えて中身を一気に腹に流し込んだ。アルコールと炭酸の刺激で、恐怖がサッと吹き飛んでいく感覚がした。そして今度はポケットの中から曲がった紙巻きタバコを取り出し、震える手で丁寧にまっすぐに伸ばし始めた。指を鳴らして魔術で火をつけようとしたが上手く音が鳴らず、結局タバコを出したのと同じポケットからマッチを取り出して火をつけた。縋りつくような勢いで煙を肺いっぱいに吸い込み、小刻みに震えながら煙を吐いた。アルコールとニコチンが体に回り始め、アミットは恍惚とした表情を浮かべて椅子の背もたれにもたれかかった。


「ああ……死ぬかと思ったなぁ……」


 アミットはしばらく、口の中に広がる心地よい苦味と、鼻の奥に残る香りをダラダラと味わっていた。しかしビールとタバコの香りを押しのけて、アミットの鼻腔を強烈な異臭が突き刺した。獣と苔と煙が混ざったような、野性味あふれる臭いがクエストインに漂い始め、客全員が入り口付近に立っている一人の人物に目を向けた。クルスだった。アミットは慌ててテーブルの下に隠れた。クルスが歩くと、革と木と金属でできた重そうな靴がゴツ、ゴツ、と床板を鳴らした。

 ピリついた静寂の中、クルスは店の奥に座っている髭面の男の前で止まった。


「女を探してる。エルフの女だ」


 岩が転がるような低い声でクルスが言った。


「なんだてめぇ。女だぁ? んなもん、夜中にそこらへん歩いてりゃあいくらでも見つかんだろうが」


 髭面の男はそう言ってビールを一口飲んだ。隣の若い男は腰に下げたナイフにずっと手をかけている。


「売春をやっている感じはしなかった。子どものような背丈の、浅ましい顔をしたエルフだ」


「てめえガキに欲情すんのか?」


 髭面の男が笑った。隣の若い男も慌てて笑った。おそらく上下関係があるのだろう。


「うせろ変態野郎。てめえの糞みてぇな体臭で酒が不味くなんだよ」


 そう言って髭面の男はジョッキに入ったビールをクルス目掛けてひっかけた。だが、クルスは近くにあった空の木のボウルを持ち、空中を飛ぶビールを受け止め、そのまま流れるような動きで腕を回してビールのほとんど全てを髭面の男に向かって投げ返した。髭面の男も、子分らしき若い男も、一瞬何が起こったのか理解していなかった。だが次第に子分の顔は青くなり、髭面の男の顔は赤くなり始めた。


「てめぇ何しやがるクソが!!」


 髭面の男が顔にかかったビールを手で拭いながら怒鳴った。立ち上がり、腰のホルダーから刃渡り30センチほどのナイフを引き抜いた。


「先にビールをかけようとしたのはお前だろ」


 クルスが冷静に答えたが、その冷静さがまた髭面の男の神経を逆撫でした。


「ブッ殺してやる!!」

「いいんだな? 殺意を向けるってことは、お前も殺されたって文句は言えないぞ」

「うるせぇ!!」


 髭面が椅子を踏み台にしてテーブルの上に乗り、跳び上がってクルス目掛けてナイフを突いた。クルスはそれを易々と避け、同時に他のテーブルに載っていた金属製のフォークを取り上げて髭面の頭部に躊躇なく突き刺そうとした。そこに、髭面の子分の若い男がナイフを挟み、すんでのところで攻撃を防いだ。すかさず髭面がナイフをクルスの脇腹に突き立てようとするが、クルスはバク転して回避し、床に両手をついて逆立ちになったまま開いた足でビールジョッキを引っかけて投げ飛ばした。ジョッキは子分の男の側頭部に当たって砕け散り、子分の男はその場に倒れ込んだ。髭面が子分に視線と意識を向けているほんの一瞬の隙を見て、逆立ちから体勢を戻したクルスはまだ手に持っていたフォークを思い切りぶん投げた。フォークは髭面の眉間に突き刺さった。髭面がそれを認識する頃には既に、クルスがこちらに向かって走り出していた。跳び上がり、鉄板の入った靴のつま先で、髭面の顔面に突き刺さっているフォークの尻を水平に蹴り抜く。フォークが頭部の奥へとめり込む。髭面は背後の壁まで蹴り飛ばされた。眉間から短い鉄の棒を生やして絶命している髭面を、クルスは何の感情も含まれていない、灰色の目をして眺めていた。


「喧嘩だああああああああああ!!」


 遠くの席に座っていた大柄な男が突然叫び出し、近くにいた客の頭を瓶で殴った。それを合図にして、クエストイン中の客が喧嘩を始めた。髭面とクルスの戦いはもっとシリアスな殺し合いだったはずだが、喧嘩好きの飲んだくれ達は気づいていないようだった。混沌とした暴力の渦の中を、アミットはそろそろと腰を低くして逃げ出そうとしていた。クルスは向かってくる客を投げ飛ばしながら、アミットを探した。そして、入り口付近でほぼ四つん這いの状態で怯えながら進んでいたアミットを見つけ、後ろから服を掴んで猫のように持ち上げた。


「あっ、ああああ!! 助けて!! 誰か!! キチ◯イに攫われる!!」


 手足を空中で振り回しながらアミットは叫んだが、耳を貸す客はいなかった。クルスは無言のまま、アミットを持ってクエストインを出ていった。

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