由利は新幹線を二席とろうかと言ってくれたが、瀬尾は今回も車にしましょうと言った。
ホテルの場所からして、由利を乗せるなら車のほうがいいだろう。高速から降りて由利をホテルに送り、それから市内に入って行くパターンがいい。
瀬尾はもう着慣れた黒いスーツを着て、助手席に由利を乗せた。由利もまた濡れたような黒衣を纏っている。
予定通り由利をホテルの前で降ろし、瀬尾はひとりで北に向けて進んで行った。
春休みだからか高速はやや混んでいたが、時間はまずまず計算と合った。まだ昼前の陽は高く、雲が薄く流れている。窓から流れ込む空気はひんやりしているが、雨の心配はなさそうだ。
巨大ショッピングモールが都会の出島のように浮き上がり、それと対をなす派手な外観のラブホテルだけが眼に眩しい山際の道から、車は国道を走り市内へと入って行く。
由利が助手席にいた道中は、ぽつぽつ会話もしていたから気持ちは仕事用に高揚していた。だが由利と別れてひとりになると、途端にひんやりと緊張してくる。自分の過去をえぐるように、山間に沿った幅の広いカーブに沿って町に入っていく。
緑があふれる図書館にJRの線路の下をくぐり抜けたら企業の独身寮があって、このあたりから民家が現れてくる。昔ながらの造りの農家らしい平屋に、レトロといえなくもない昭和の名残りの擦りガラスの洋宅。そして平成に入って田んぼをつぶして作った建売住宅。錆びかけた教習所申し込み受付の看板が、潰れたクリーニング屋の店先でそのままになっていた。
以前と同じように見えて、二年も留守にしていると地元の街並みはパズルのピースを取り換えたように違っていた。通りの角、歯抜けのように更地になっている場所に、なにがあったのか思い出せない。
桜の木のある曲がり角ではない方角の入り口から実家のある集落に入ろうとしたら、目印だったギフトショップはなくなって携帯ショップになっていた。当時からセピア色をしていたから、もう店主が引退したのかもしれない。
見覚えのない携帯ショップは広くとった駐車場も満車の盛況ぶりだった。
ふと、これだけ町が変わってしまっていて、あの桜は大丈夫なのだろうかと不安になる。
歩道のアスファルトがわずかに場所を譲ったようなわずかな土から、にょきりと一本だけ生えている木だ。樹木がなくなる理由を瀬尾は病気が伐採くらいしか思いつけないが、どちらもありえない話ではない。
なくなっていたらどうするか。考えて瀬尾は思い直した。なくなっていてもその木がそこにあったことを覚えている。移植されたのなら探せばいいし、もう処分されてしまっているのなら、また植え直せばいいだけのことだ。
実家には車だけ置いて、家にいた母と下の弟にはあとで寄るからと頼んだ。一瞬だけ帰ることと車を停めさせてもらいたいことは前もって言ってある。
櫻子たちのアパートは変わらずにまだあった。もとが古かったからか、はじめて見た十年前からほとんど印象が変わらない。
相変わらず窓のひび割れにテープは張ってあるが、トランクスにタンクトップで煙草を吸うおじさんはもうここにいない。
集落を出て、桜の木の分かれ道を目指す。もうほどなく、姿が見えてくるはずだ。
瀬尾が実行を急いだのは、この町にある桜の木のためだった。
しわしわでも美女でも、約束の木に変わりはない。だけどせっかくなのだから、この木が一番美しいときに会っておきたい。
桜は遠目にもわかるほど色づいていた。大切な人の無事を知れた安堵で瀬尾の脚はおのずと急いでいた。花冷えの風がすこしまろやかになった。
桜の木を見上げるのは、六年ぶりだった。
かつて櫻子に教えられた桜だ。年を経て老人はさらに老い、幹も枝もこぶと皺で覆われている。それでも満開の桜の可憐さだけは、六年の時間をかけてより際立っていた。まるで四方に伸ばした枝々ごとに、古の王朝の姫君がその綾を誇って腰を降ろしているようだ。
手のひらでごつごつした幹に触れる。透けるほど淡い色に遮られて空すら見えない。こんなに近くにいるとまるで桜の木に抱かれているようだった。
薄い蜜の香りがして、この花にも香りがあることを知る。櫻子は知っていただろうか。瀬尾はサクランボと桜がたまに親子だということすら最近知った。また、櫻子に笑われるかもしれない。
花が舞う。踊るように瀬尾の肩に乗る。
昔はそうとも思わなかったのに、ひさしぶりに見ると桜の木は大きかった。背は高くないのだが、傘を広げたように枝が這っている。青が透けるような曇り空。花に満ちた枝たちが吹く風に揺れていると、まるで天女の裳裾がふわふわと漂っているようだった。
花の重みで枝の先がしなっている。こぼれ落ちんばかりの花の盛り。老木には荷が重いほど、この桜はよく花をつける。花びらは散っても散ってもなくならない。まるで不思議な術にでもかけられたように、櫻子の桜は満開だった。つかのまの艶姿に溺れる人のように、ときたま人が足を止めて桜を見ていく。
この木を無視していた六年間。思い出を心の隅に押し込めて、楽しかったことすら思い出さないようにしていた。そうすることが罪滅ぼしなのだと心のどこかで思っていた。
黙ったまま花を見上げる瀬尾の頬にあたたかいものがつたって、瀬尾は自分が泣いていることに気がついた。指ではじく。泣いていたら桜が見えない。
「やっぱり、ここの桜が一番きれいだ」
きっと櫻子が咲かせているのだろう。だから限界まで頑張って、見る人を楽しませようとするのだ。
やわらかな風が突然強く吹きこんできた。目の前の天女がいっせいに舞う。花の傘に隠れる瀬尾に、とけない雪がはらはらと散りかかる。風の強さに一瞬眼を伏せ、また花を見上げたとき、瀬尾は一番太い枝に眼を奪われた。
枝に座って脚をぶらぶらさせている、見覚えのあるシルエット。花びらを透かす陽を背負って薄布を隔てたように陰になる。でも、瀬尾が彼女を見間違えることはない。
――瀬尾君、瀬尾君
櫻子が大きく手を振っている。瀬尾は追いかけるように腕を伸ばす。
「出口」
なあに、と丸い顔が首を傾げる。
「やっぱりここの桜が一番綺麗だな」
足元はお爺さんだけどね。櫻子はそう言って、笑いながら丸い肩を揺らしていた。
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