その週の木曜日には、瀬尾たちは堀川姉妹の実家を訪れることができていた。


 梨乃には事前に実家を訊ねたい旨は話していた。母親に面会の申し入れもしてくれたのだが、母親からは会えないと断られたという。姉に続いてすみませんと梨乃は恐縮しきりだった。


「建て替えが六年前だったら、妹さんはこっちの家にも住んでいたんですね」


 由利から見せられた写真で修繕の前後は知っていたが、今と昔の住宅を比較すると一世紀の隔たりがあるのかと思わされる。


 瀬尾たちの眼の前にあるのは薄茶のレンガ調の鉄筋五階建てで、広い敷地内に何棟かに分かれて公園スペースを囲んでいる。それが事故のあった当時は、壁にひびの入った鉄骨造りの二階建て、公園なんてものがあるほど大規模でもないし、階段も洗濯機も屋外にしかなかった。足場にモルタルが使われた外階段は塗装のはげと錆でボロボロの急勾配だったという。


 二階に住んでいた梨乃は、それを見下ろしたときの漠然とした恐怖がたぶん私の一番古い記憶ですかねぇと由利に語っていた。

 それが、実家を訪れる相談をしていたときのひとコマである。実際、足を滑らせて落ちかけたこともあったという。

 住人の誰かがスイカを落として、地上でぱっくり割れたスイカに蟻が整列してたかっていたのがこわかった、とも。


 梨乃は聞き語りのように遠い口調で、昔の家の話をした。建て直す前の、文字通りの安普請。


「そうね。だけど新しくなった家のことはほとんど語られなかった」


 六年前なら梨乃は十四、五歳である。大人への入り口に来て生活が広がる時期だが、梨乃は新しい実家での思い出は「あんまりないんですよね」のひとことだった。仲の良い姉も家を出てしまって、張り合いがなかったのだろうか。

 そして姉妹ともに、上京してからは帰省もほぼしていないらしい。


 陽射しの柔らかい昼前だけあって、中央の公園スペースは遊具で遊ぶ幼い親子連れやぼんやりベンチに座る老人の姿が見られた。子どものはしゃぎ声が耳にやさしい。滑り台にブランコだけの控えめな遊び場だが、住人の憩いの場になっているようだ。


 由利は市に依頼して手に入れた間取り図を見ながら、事故現場だと思われるあたりに歩いていった。瀬尾も黙ってついていく。今もその場所は棟のひとつの階段下になっていた。


「堀川さんの自宅も、この棟なんだよね」


 由利は見線を階段の上から下まで何度も往復させている。塀に手をかけられそうなほどの距離に立ち、中を覗きこむ黒服の二人組。二階の踊り場から姿を現した女性があからさまに怪しんだ一瞥を投げた。


 気のすんだらしい由利は、一応堀川さんの部屋を呼び出してみようと言った。瀬尾にも異論はない。そのまま塀に沿って集合玄関に向かい、ポストで部屋番号を確認した。オートロックだけが周囲よりさらに新しく、最近付け加えられたらしい。


 二度鳴らしたが、やはり応答はなかった。しかたない。それもわかってここまで来たのだから。


「誰訪ねてきたん?」


 近畿地方独特の上がり調子な高い声に振り向くと、さっき階段を降りていた女の人が興味津々の顔で立っていた。


 手に布地の手下げを下げていて、足元はスリッパ履きだった。ちょっと買い物にでも行こうと出てきたが、やはり謎の二人組が気になって足が止まったのかもしれない。老人というと申し訳ないが、中年というにはとうが立っている。半袖のプリントTシャツから、たるんだ腕がにょっきり出ていた。


 由利は少し考えてから、「堀川さんなんですよ」と打ち明け話のように言った。


「娘さんから様子を見に行ってほしいと言われまして。私、このようなものなのですが」


 そう言って名刺を取り出す。女は片手でそれを受けとると、まかせろという顔で頷いた。


「へえ。わかるわ、娘さんの気持ち。けっこう大変な家やでなあ」


 私はこの家が建て替わる前から堀川さんとは近所やった。あの家のお父さんが亡くならはったあの事故も知ってる。


「奥さんに会おうと思ったら、昼過ぎか夜になってからやで。それも、夜は曜日によっては集会やさかい」


 止まらないパチンコ台のように、女の口はよく動いた。ジャラジャラ溢れる玉は玉石混交だろうけれど。瀬尾がさりげなく記録させてもらってもいいだろうかと訊ねると、女はまったく構わないと二つ返事め請け負った。大袈裟に感謝しつつ、瀬尾はテープレコーダーを作動させる。


 堀川姉妹の母はずっととある新興宗教にはまっている。もう幹部だし教会の職員として働いてもいる。古いつき合いだからよく知っているが、その宗教に入信したのは旦那の死ぬ前だ。旦那の酒癖の悪さと暴力癖は昔からの団地の人間はみんな知ったことだった。献身的な妻も娘ふたりも容赦なく殴る無職の夫。警察にも聞かれたが、誰も不幸に亡くなった旦那をよく言える人はいなかった。


「アル中で殴ってくる旦那から救ってほしくて宗教入ったんやと思ったら、団地のみんな一応お布施したりもしたんやで」


 息継ぎのために、フィーバーが一旦止まった。その隙をついて由利は巧妙に再度リーチをかける。


「なるほど。お嬢さんの心配しておられるように、やはりまだ綺光教きらきょうへの信仰は捨てておられないのですね」


 綺光教。その名前に瀬尾はどきりと心臓を打った。


「そうなんや。もうひとりになって自由になったのになぁ」


 女は腕を組んで、しみじみと頷いている。


「上の娘さんは出来のええ子で、そうやけどおとなしかったなあ。下の子は明るい子で、やけど不思議やな、ようあるやんか、宗教の勧誘に子ども連れて歩くみたいなん。あそこの家ではそういうことはなかったな。いっつも奥さんだけや。子どもが嫌がったんやろか」


 守秘義務なんてものは存在しない。由利の挟んだ小ネタは女からまた大当たりを引き出せた。娘さんもお母さんのこと心配してはるやろ。ふたりとも、もうずっと姿みてへんけどな。


 遠い打ち止めに瀬尾は心の中で閉口しながら、それでも他人からここまで聞ければ、遠路をはるばるやって来た甲斐はあったかと嘆息する。

 気のすむまでしゃべった女はふうと大きな息を吐いて、おつかいを無事にやりとおした子どものような顔で鼻を膨らませた。


「娘さんによろしく言うといて」と挨拶する女に、由利は大きくうなずいてみせた。


 帰りの車で訊いてみれば、由利はもともと堀川姉妹の母の過剰信仰は知らなかったという。教団名をあげたのは、たまたまここに来る途中で教会を見かけたからだった。


 平日の昼間だというのに、人の集まる活発な気配が漂っていた白い教会。


 瀬尾もその教会には気がついていた。気がついて見ないふりをしていた。全国各地に点在する、すこしカルトな神道系教団。中身はよく知らない。だけど、見たくない過去を引っかいてくる。


 由利は今度の日曜日には、お姉さんにもう一度会いにいこうと言った。

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