第一章1 『教卓でカリスマは告ぐ』
――その日、
西暦二〇二五年、四月十五日。春。
お台場海浜公園の砂浜からは『レインボーブリッジ』が一望できる。全長にして七九八メートル。主塔の高さは海面からなんと一二六メートルにも達する、首都最大級の吊橋。
都立
実物大のバイコーンダンガムも見慣れたものだ。
アーコレードの桜も、夕陽に煌めく海面も、東京テレポート駅内で流れる『歌え大捜査線』のメロディも、すべて当たり前のものとして受け入れてきた。
都民が心揺さぶられる景色はむしろ田舎の大自然であり、この臨海副都心で生まれ育った者にとって、高層ビルやそこかしこに展示されたアート作品などは見飽きて当たり前のものだった。
しかし、ここ数日に限ったならば話は別だ。
そんな当たり前の景色は謎の〝
正確には、そのパンデミックを引き起こす〝何か〟の影が、ここら一帯を埋め尽くしてしまった。
腐敗した身体で徘徊する――……
人の形を模していながら人ではない、二足歩行の何か。
動物の形を模していながら動物ではない、四足歩行で地を這う何か。
鳥の形を模していながら鳥ではない、翼を生やした何か。
そして、それらに傷をつけられた生物は同じ存在へと変貌し、新たなる犠牲者を求め彷徨い歩くという。
ここ灘切高校でもネットニュースやテレビで話題の、にわかには信じられない大災害が、今まさに辺り一帯を蝕もうとしていた。
学習机と椅子のほとんどが本校舎の出入り口と各階段に固められ、教室内はさながら殺風景の避難所のような様相を呈している。
「出られるかもしれないのだよ」
「ホントか、
「……私たちのためにありがとう、鏡夜君」
「ど、どうやって脱出すんだよ?」
「なに、正門も裏門も奴らによって塞がれているが、適切な武器と正しい知識があれば脱出は可能なのだよ」
二年三組の教室のちょうど真ん中に位置する席を陣取り、事もなげにそう告げたのは文武両道の優等生、桐野鏡夜だった。
彼はこのクラスの学級委員長を務めており、クラス全員の信頼も厚い。
バリケードを張るよう指示したのも、残りの食糧の管理を徹底させたのも、自分の足で奴らが徘徊する校内を見て回ったのも彼である。
ここに集まったのは三組の面々だけでなく、一年生、二年生、さらには三年生に至るまで。数にして十六人、全校生徒の『二パーセント弱』ではあるものの、みな彼に全幅の信頼を寄せている。
なにせパニック状態になっていたところを全国高等学校空手道選抜大会ベスト4の鏡夜自らの手により救われたのだから、それも無理からぬ話である。
流石の彼も学校を囲うゾンビたちに単身で挑む無茶はしないが、それでも希望を捨てず、こうして生徒を鼓舞する。
非常事態に慌てふためいていた
ただ一人、ビビりの
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鏡夜はここ灘切高校でも屈指の優等生だ。
その頭脳はIQ一四〇を超え、全国模試では常にトップに立ち続ける。そんな鏡夜の秀でた頭脳が導き出した結論こそが、デコイを囮とした脱出計画だった。
誰かが言った「ゾンビ」というフレーズが、鏡夜の中でイメージを具体化させたのだ。
少なくとも無差別に人を襲う存在にも幾つかの行動パターンがあるだろうと仮定し、鏡夜は自らの頭脳と運動能力を以って、すべての可能性を『検証』した。
奴らは音や気配に敏感で、光や熱に誘われる。夜は活動が鈍り、朝方と日没後は比較的安全だ。
習性さえ理解していれば、難局を乗り切ることは決して難しくない。
ただし奴らに傷をつけられた人間も奴らと同じ存在へと変わり果てるので、度胸と運が必要だ。
弱点は二つ。
一 頭部を破壊すれば活動が止まる。
二 腐敗が進んだ足を破壊すれば自由を奪える。
これらの情報を二年三組の教室に集まった生徒たちに説明した上で、各々の役割分担とデコイの代わりとなるアイテムと武器の製作、そして脱出計画の概要を伝えた。
生き残った彼ら彼女らは皆等しく校内の生徒が『ゾンビに変貌』する様を目撃しており、鏡夜の説明に異論を挟む者はいなかった。
――不安そうな生徒は一人いるが。
「どうしたのだね、国嗣」
「え……? 何が?」
「先程から国嗣だけが俯いていたから気になったのだよ。食糧がもう枯渇しそうなのだ。この学校を捨てて次の拠点を探さない限り、俺たちはここで死ぬ」
「わ、わかってるよ。鏡夜」
「顔色が悪いぞ。俺たち親友ではないか。何か心配事があるなら打ち明けてくれないか」
鏡夜が眼鏡のブリッジを押し上げながら問いかけると、他の生徒たちの視線も国嗣へと集まった。
その中に一人、母性を宿らせた瞳を持つ少女がいる。
国嗣の幼馴染である、
身長一六五センチ。亜麻色の長髪をハーフアップに結い、曲線美を描いたボディラインをセーラー服で包む。色気のある垂れ気味の目尻と重さを感じさせるたわわな胸の実り。灘切高校でも随一の美貌とプロポーションを誇る麗良だが、その性格は優しく穏やか。
幼馴染である国嗣を常に心配しており、彼のことをよく知る人物の一人でもある。
斎藤国嗣はクラスでも目立たない、いわゆる陰キャだ。
その性格は臆病で、常に周囲の目を気にしてビクビクしている。一寸刻みで悪化の一途を辿っている今この時ですら、奮い立つことができない臆病者だ。
そんな彼の唯一の『親友』とも呼べる存在が桐野鏡夜で、
密かに交際している『恋人』が本郷麗良だった。
この二人を失いたくない――という気持ちが、国嗣の心に暗い影を落としていた。
「大丈夫だよ。ちょっと身体がだるいだけだから」
「なら良いのだが」
「もしかしてアレじゃないかな。ワクチン接種後に副反応が出るってヤツ」
麗良の親友、水嶋綾乃が割って入る。ボーイッシュ風の髪に切れ長の目、その双眸は深い藍色を湛えている。
「ほら最近打ったでしょ、Zウイルスの新型ワクチン」
「えー、あたし一日で痛みなくなったけど? 千鶴とか痛みなしってゆってなかった?」
「うん。なかった」
綾乃の見解を小鳥遊真凛と多井中千鶴がそれとなく否定。金髪を頭の後ろで結ったギャルと青ぶち眼鏡の優等生が並んで座る姿は、妙にシュールだ。
Zウイルス。
この濾過性病原体の感染拡大に伴い、国内のリモートワークが推進され、国を挙げてワクチンの開発が行われた。
学校側も二度目のワクチンを打った生徒を優先的に登校させ、感染拡大の抑制に勤めている。
発熱や味覚障害などの症状を緩和させるワクチンには『副作用』があり、人によっては倦怠感や筋肉痛、関節の痛みなどの症状が出る。
「いや、少なくとも個人差はある。綾乃の言う通りかもしれない。昔から国嗣は身体が弱かったのだよ」
「な、もしかしたらZウイルスとワクチンのせいでゾンビが大量発生してんじゃね?」
「バカじゃねえのテメエ。だったらオレらはどうして平気なんだよ」
「わかんねーけどよ、そういうのもあるかもなって話で」
お調子者の
阿衡はのっけこそ冷静さを欠いたものの、鏡夜と合流してからは、お得意の柔術とプロレス技で何匹ものゾンビの首をへし折ってきた武闘派の不良である。
軽口を叩き合う五人の男女には目もくれず――鏡夜は、国嗣の前髪を優しく手で払い、その額へと掌を当てた。
「な、なにすんだよ……鏡夜」
「熱がないか確認しているのだよ」
「……熱はないよ」
「必要なことなのだ。いざという時、お前が動けないと俺が困る」
鏡夜の冷たい手がどこか心地良くて、国嗣は思わず目を細める。しかし、そんな二人の仲睦まじい様子に嫉妬した麗良は頬を膨らませた。
「なんか男同士でラブコメしてるのやーな感じ。こんな時だってのに」
麗良が茶化し、クラスに笑いの渦が巻き起こる。
「はは。さて、取りかかろうか」
鏡夜は国嗣の額から手を離すとすたすたと黒板の方へと移動し、教卓に両手をついて
「皆、俺に力を貸してくれるとありがたいのだよ」
その立ち姿はまるで、ゾンビになってしまった教師たちよりも堂々としているように、国嗣には見えた。
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