第12話 「君が生きると世界が壊れる」仮説



翌朝、沙月は目を覚ますと、ソファには黒瀬の姿がなかった。リビングを見回しても誰もいない。彼はいつの間にか出て行ったようだ。


「黒瀬さん…?」


沙月が呼びかけると、キッチンから返事があった。


「起きたか」


黒瀬がコーヒーを二杯持って部屋に戻ってきた。彼はすでに身支度を整えており、まるで一睡もしていないかのように疲れた様子は見えなかった。


「朝食を用意した」彼は沙月にコーヒーを手渡した。「簡素だが、栄養は十分だ」


キッチンテーブルには、トーストとスクランブルエッグが並べられていた。沙月は驚いて黒瀬を見た。


「あなたが作ったの?」


「ああ。料理は基本的なスキルだ」


黒瀬の淡々とした態度に、沙月は少し笑みを浮かべた。何だか不思議な光景だった。普段は冷徹な上司が、自分のキッチンで朝食を作っている。


二人は静かに朝食を取り始めた。沙月は昨夜の出来事を思い出し、多くの疑問が湧いてきた。監視者の存在。自分が特異点であること。世界の秩序。


「黒瀬さん」沙月は勇気を出して切り出した。「もっと詳しく教えて欲しい。私が『特異点』だということ、そして…なぜ監視者が私を狙うのか」


黒瀬はコーヒーを一口飲み、少し考えるように間を置いた。


「今日は休日だ。時間はある」彼は静かに言った。「すべてを話そう」


---


朝食後、二人はリビングでコーヒーを飲みながら話し合うことにした。黒瀬は窓の外を見つめ、話し始めた。


「君の命には、世界の安定を揺るがす『鍵』がある」


その言葉に、沙月は思わず息を呑んだ。


「鍵?」


「ああ」黒瀬は沙月に向き直った。「通常、人間の魂は生まれ変わりの際に記憶をリセットし、新たな人生を始める。だが特異点である君は違う。君の魂は過去生の記憶を潜在的に保持している」


沙月は記憶石で見た断片的な前世の記憶を思い出した。雪の風景。着物。そして黒瀬によく似た男性。


「記憶だけじゃない」黒瀬は続けた。「君は死んでも時間が巻き戻る特性を持っている。それも特異点の証だ」


「でも、なぜそれが世界の安定を揺るがすの?」


黒瀬は少し考えてから、説明を始めた。


「世界は様々な法則によって成り立っている。その中で最も基本的なものの一つが『時間の一方向性』だ。過去から未来へと一方通行であるべき時間が、君の周りでは逆流する」


彼は手を広げ、空間を示すように動かした。


「さらに、君が特定の条件下で生き続けると、その特性が増幅され、時間だけでなく現実そのものに亀裂が生じ始める。過去と未来、そして並行する無数の世界。それらの均衡が崩れる」


沙月はその説明を理解しようと努めた。彼女の存在が世界の構造そのものを脅かすというのだ。


「監視者は、その亀裂を防ぐために君を排除しようとしている」黒瀬は静かに続けた。「彼らにとって、世界の秩序は何よりも優先される」


「でも…私は普通に生きてきただけ」沙月は弱々しく反論した。「何も悪いことはしていない」


「問題は君の行動ではなく、存在そのものだ」黒瀬の表情に同情の色が浮かんだ。「それは不公平だが、世界の理は時に残酷だ」


沙月は自分の手を見つめた。普通の手。普通の体。しかし彼女の内側には、世界を揺るがすほどの異常があるというのだ。


「でも、それは間違っている」


黒瀬の声に力が込められた。沙月は顔を上げた。


「君の死が世界を救うわけではない。むしろ逆だ」


「逆?」


「ああ」黒瀬は確信に満ちた表情で言った。「監視者たちは古い秩序を守ろうとしている。だが世界には時に変革が必要だ。君のような特異点こそが、世界に新たな可能性をもたらす」


彼は立ち上がり、窓際に歩み寄った。


「彼らは君を排除すれば世界が安定すると考えている。だが実際には、君の存在によって世界は次の段階へと進化する可能性を秘めている」


沙月はその言葉を理解しようとした。自分が世界を壊すのではなく、変えるのだと。しかし、それは本当だろうか。黒瀬の考えは正しいのだろうか。


「あなたはどうしてそう思うの?」沙月は率直に尋ねた。「他の均衡者や監視者が間違っていて、あなただけが正しいと?」


黒瀬は少し黙り、そして静かに答えた。


「俺は長い間、彼らと同じように考えていた。特異点は排除すべきだと」


彼は沙月をじっと見つめた。


「だが、君を観察するうちに気づいた。君の中には破壊ではなく、創造の力があることに」


そして彼は自らの正体について語り始めた。


「俺は死神ではない。正確には『均衡者』だ」


「均衡者?」


「世界の秩序を監視し、調整する存在」黒瀬は説明した。「人間で言えば、警察のようなものだ。世界の理から外れたものを正す役割を持つ」


沙月は少し首を傾げた。「でも以前、『死神だった』と言ったよね?」


「比喩だ」黒瀬は小さく息を吐いた。「正確に言えば、俺たちは魂を導く役目も持つ。その意味では『死神』と呼ばれることもある」


「そんな存在が、なぜ私を守るの?」沙月は核心に迫った。「あなたは『反逆者』になったって言ったけど…なぜ?」


その問いに、黒瀬は沈黙した。彼の目に宿る感情は、これまで沙月が見たことのないものだった。それは使命感や責任感ではなく、もっと人間的な、深い感情のようだった。


「君という存在に出会って、俺は変わった」彼はついに静かに答えた。「何度も君の死に立ち会い、何度も時間が巻き戻るのを経験する中で…俺は気づいた」


「何に?」


「君の魂の純粋さに」黒瀬の声は普段より柔らかかった。「そして、君のような存在こそが世界に必要だということに」


沙月は言葉を失った。黒瀬の言葉が本心なのか、あるいは前世の恋人に似ているという理由からなのか、判断できなかった。


「でも、あなたにとってリスクが大きすぎる」沙月は心配そうに言った。「均衡者のルールを破れば、あなたも監視者に狙われるでしょ?」


「ああ」黒瀬は淡々と認めた。「だが、それは覚悟の上だ」


沙月は深く息を吐いた。彼女のために自らを危険にさらす黒瀬。それが単なる使命感だけではないことは、彼の目を見れば分かった。


「黒瀬さん…私、なんて言っていいか分からない」


「何も言う必要はない」彼は静かに言った。「ただ、生きろ。そして、君の中にある可能性を信じろ」


沙月はもう一つの疑問を口にした。「私の中の『力』って、具体的に何?」


「まだ完全には目覚めていない」黒瀬は説明した。「だが、すでに兆候は見えている。監視者が見えたこと。記憶石で前世の記憶を見られたこと。そして…」


彼は少し言葉を選ぶように間を置いた。


「時間と現実を操作する潜在能力だ」


「操作する?」沙月は驚いて声を上げた。「どういうこと?」


「理論上は、君の意志で時間を巻き戻したり、現実の一部を変えたりする力だ」黒瀬は真剣な表情で続けた。「だが、それには訓練が必要だ。そして、その力が完全に目覚めれば、監視者たちはより激しく君を排除しようとするだろう」


「怖い…」沙月は正直に告白した。


「恐れるのは自然だ」黒瀬は優しい口調で言った。「だが、俺がついている」


窓の外では、晴れた休日の陽光が降り注いでいた。二人の会話とはあまりにも対照的な、平和な光景。


「黒瀬さん」沙月はふと質問した。「私の前世と、あなたは本当に関係があるの?」


その質問に、黒瀬の表情が微かに揺れた。


「可能性は高い」彼は慎重に言葉を選んだ。「記憶石で見た景色は、俺も覚えがある」


「どんな関係だったの?」


「それを知るのは、まだ早い」黒瀬は静かに言った。「君自身の記憶が戻るのを待つべきだ」


沙月はそれ以上追及しなかった。黒瀬の言葉の裏に何があるのか、まだ完全には理解できなかったが、彼が自分を守るために多くを犠牲にしていることは確かだった。


「今日から、君の訓練を始めよう」黒瀬は突然、話題を変えた。「力を制御できなければ、君自身が危険に晒される」


「どんな訓練?」


「まずは意識の集中と、感覚の拡張だ」彼は説明した。「監視者を感知する能力を高める必要がある」


沙月は不安と決意が入り混じった気持ちで頷いた。彼女の人生は完全に変わってしまった。もう普通の会社員には戻れない。しかし、黒瀬の存在が彼女に勇気を与えてくれた。


「準備はいいか?」黒瀬は沙月に手を差し出した。


「はい」沙月はその手を取った。


彼の手は温かく、力強かった。この不思議な均衡者が、彼女を守ると決めてくれたことに、沙月は深い感謝を感じていた。そして、彼の目に宿る感情が単なる使命感ではないことも、彼女には分かっていた。


---


その日の午後、沙月と黒瀬は彼女のアパートのリビングで訓練を始めた。黒瀬は沙月の前に座り、小さな水晶のような石を置いた。


「これは感知石だ」彼は説明した。「監視者のエネルギーを増幅し、感知しやすくする」


沙月は緊張した面持ちで石を見つめた。


「深く呼吸して、意識を石に集中させろ」黒瀬は指示した。「周りの音や感覚を徐々に遮断していく」


沙月は言われた通りに呼吸を整え、石に意識を向けた。最初は何も感じなかったが、しばらくすると石がわずかに光を放っているように見えた。


「感じるか?」黒瀬の声が遠くから聞こえてくる。


「少し…光ってる?」


「それは君の意識が石に共鳴し始めた証拠だ」黒瀬は静かに言った。「その感覚を保ったまま、意識を拡げてみろ。部屋全体、そして建物の外へと」


沙月は集中した。石の光が徐々に強くなり、その光が部屋中に広がっていくような感覚があった。そして突然、冷たい感覚が背筋を走った。


「何か…冷たいものを感じる」


「どの方向だ?」黒瀬の声が緊張感を帯びる。


沙月は直感的に窓の方を指した。「あっちから…」


黒瀬は素早く立ち上がり、窓に向かった。彼は外を注意深く見たが、何も見えないようだった。


「監視者だ」彼は静かに言った。「君の感知能力が働き始めている」


沙月は石から手を離し、震える息を吐いた。「本当に感じた…冷たくて、暗い何かが」


「良い兆候だ」黒瀬は彼女の前に戻った。「君の力が目覚め始めている。だが、同時に彼らも君の変化に気づいているだろう」


「これからどうなるの?」沙月は不安を隠せなかった。


「彼らの行動は激しくなるだろう」黒瀬は正直に答えた。「だが、俺たちも強くなる。君の力が目覚めれば、彼らに対抗できる」


対抗。その言葉に、沙月は戦いの覚悟を感じた。彼女は平和に生きてきた普通の女性だった。戦いなど考えたこともなかった。しかし今、彼女は選択肢を失っていた。生きるか死ぬか。世界を変えるか、破壊されるか。


「怖いけど…」沙月は小さく呟いた。「立ち向かうしかないよね」


黒瀬は彼女を見つめ、わずかに微笑んだ。その笑顔は彼女がこれまで見たことのないものだった。


「君は強い」彼は静かに言った。「俺が最初に君を観察した時から、そう思っていた」


その言葉に、沙月の胸に温かいものが広がった。彼女自身は強いとは思っていなかった。しかし、黒瀬がそう信じてくれているなら、彼女も自分を信じてみようと思った。


「これからどうするの?」


「訓練を続ける」黒瀬は答えた。「そして、監視者の次の動きに備える」


窓の外では、夕暮れが始まっていた。沙月は今日知った多くの真実を整理しようとした。彼女の存在が世界を揺るがすこと。監視者が彼女を排除しようとしていること。そして黒瀬が「反逆者」として彼女を守っていること。


これらはすべて、彼女の理解を超えた話だった。しかし、不思議なことに、彼女はそれを受け入れ始めていた。なぜなら、これまでの不可解な死と再生のループを完璧に説明していたからだ。


「黒瀬さん」沙月は静かに呼びかけた。「あなたは私を守るために、自分の立場を危険にさらしてる。本当にそれでいいの?」


黒瀬は長い沈黙の後、静かに答えた。


「俺には選択肢がなかった」


それだけだった。しかし、その言葉の裏には深い感情が隠されていた。沙月には、まだその全てを理解することはできなかったが、彼の決意の強さは伝わってきた。


彼女は黒瀬をじっと見つめた。かつて冷酷な上司だと思っていた男。今や彼女の命を守るために全てを賭ける存在。彼の正体は「均衡者」。だが今は「反逆者」として、世界の理に逆らってまで彼女を守ろうとしている。


「なぜ?」という問いは、まだ完全には答えられていなかった。しかし、黒瀬の目に宿る感情は、もはや単なる使命感ではないことを、沙月は感じていた。


それは何か、もっと深い、人間的な感情だった。そして沙月の心も、その感情に少しずつ応えようとしていた。

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