第4話 職場での違和感と再びの運命
光が差し込む窓際のデスクで、沙月は違和感を抱きながらキーボードを打っていた。
「これ、前にも…」
彼女は画面に映るデザイン案を見つめながら呟いた。モニターの中のバナーデザインは、彼女が「前の人生」で作ったものとほぼ同じだった。しかし、色使いや配置を少し変えている。前回は却下されたデザインだ。今回は違う結果を得られるだろうか。
デザインを見つめながら、沙月は前日の黒瀬との会話を思い出していた。「選択を変えれば未来も変わる」。その言葉に従って、彼女は意識的に小さな変更を重ねていた。けれど、デジャヴのような感覚は消えない。キーボードを打つ指の動き、モニターの角度、窓から差し込む日差しの角度まで、すべてが既視感に満ちていた。
「本当に未来は変えられるの…?」
沙月は小さく呟いた。昨日までは混乱していた気持ちが、今日は奇妙な覚悟に変わっていた。死を経験し、時間を遡った者だけが持つ視点。それが彼女に新たな冷静さをもたらしていた。
「風間さん、そのバナー案、見せてもらっていい?」
声をかけてきたのはクリエイティブチームの田中だった。前回の人生では、彼は沙月のデザインを一瞥しただけで通り過ぎたはず。小さな変化だが、確実に何かが違っている。
「あ、どうぞ」
沙月が画面を見せると、田中は意外な反応を示した。
「いいね、この色の使い方。いつもより冒険してる感じがする」
「ありがとうございます」
沙月は微笑んだ。前回とは違う反応。それは彼女が意識的にデザインを変えた結果だった。
田中がデスクを離れると、沙月はそっと深呼吸をした。見えない力と戦っているような感覚。運命という見えない敵に対して、小さな一手を打ったような気分だ。
昨夜、黒瀬から全てを聞いた後、沙月は決意した。同じ運命をたどらないために、小さなことから変えていこうと。朝の通勤ルートを変え、いつもと違うコーヒーショップに寄り、そして仕事のアプローチも少し変えてみる。
今朝、彼女はいつもと違う道を通って会社に来た。いつもなら乗らない一駅早い電車に乗り、普段は寄らないパン屋でサンドイッチを買った。会社の自動販売機ではいつものミルクティーではなく、ブラックコーヒーを選んだ。すべて「前の人生」とは違う選択だ。
オフィスに入る時も、いつもと違う挨拶を試みた。普段は「おはようございます」と小さく言うだけの同僚に、今日は名前を呼んで声をかけた。小さな違いだけれど、それが少しずつ彼女の周りの空気を変えているようだった。
「選択を変えれば、未来も変わる」
黒瀬の言葉が脳裏に響く。彼によれば、沙月は何度も同じような死を迎え、時間が巻き戻るという不思議な現象を経験していた。しかし今回は特別だ。彼女が記憶を保持したまま戻ってきたのだから。
デスクの上のスマートフォンが震えた。画面には黒瀬からのメッセージが表示されている。
「今日の会議、あなたのデザイン案についても議題に入れた。準備を」
沙月は驚いた。前回の人生では、彼女のデザイン案が会議で議題に上がることはなかった。黒瀬も何か変えようとしているのだろうか。彼女は胸の高鳴りを感じながら返信を打った。
「承知しました。ありがとうございます」
シンプルな返信だが、その裏には彼との秘密の絆が隠されていた。二人だけが知る時間のループ。それは他の社員には決して理解できない特別な関係だった。
返信を打ちながら、沙月は昨夜の会話を思い出していた。
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「なぜ私に時間が巻き戻るの?他の人にはないの?」
公園のベンチで、沙月は黒瀬に問いかけた。夜の闇に包まれた二人の周りには、誰もいなかった。街灯の淡い光が黒瀬の顔を照らし、普段は見せない物思いにふける表情が浮かんでいた。
黒瀬は少し考え込むような表情で答えた。
「正確には、君『だけ』に起こる現象ではない。時々、特別な魂を持つ人間が現れる。そういう人間が特定の条件下で死ぬと、時間が巻き戻ることがある」
「特別な魂…?」
「俺にもすべては分からない。ただ、君には普通の人にはない何かがある。それは確かだ」
沙月は自分の両手を見つめた。どこが特別なのか。外見も能力も、彼女はごく平凡なはずだった。特別というなら、むしろ黒瀬の方がはるかに特別に見える。
「私に何があるっていうの?」
黒瀬は彼女を見つめ、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「君は…世界を『揺らす』力を持っている。だからこそ、世界は君を何度も『やり直させる』」
その言葉は謎めいていて、沙月には理解できなかった。
「世界を揺らす?何それ…」
黒瀬は少し困ったように頭を掻いた。珍しい仕草だった。
「うまく説明できなくて悪い。俺自身もすべては理解していない。ただ、君の死には特別な意味があるんだ」
沙月は混乱していた。自分が特別だなんて、考えたこともなかった。彼女はごく普通の、平凡なデザイナーのはずだ。
「じゃあ黒瀬さんは?なぜあなただけが記憶を保持できるの?」
黒瀬の表情が微かに曇った。
「それは…俺にも特別な事情があるからだ」
それ以上の説明はなかった。まだ彼女に話せないことがあるようだった。黒瀬の眼差しには、長い時間を生きてきた者だけが持つような深い影があった。
沙月は別の疑問を投げかけた。
「何度も同じ死に方をするって…怖くないですか?」
黒瀬は沙月をまっすぐ見つめた。
「怖いだろう。だが今回は違う。君が記憶を持っている。選択を変えれば、未来も変わる」
その言葉に、沙月は小さな希望を感じていた。
「じゃあ、事故に遭わないようにすれば…」
「それが最善の策だ」黒瀬は頷いた。「しかし、注意してほしい。運命というのは執拗だ。一つの道を塞いでも、別の道を見つけようとする」
「どういう意味ですか?」
「例えば君が事故の場所に行かなければ、別の場所で別の事故が起きるかもしれない。運命は結果を固定しようとする」
沙月は身震いした。彼女を狙う見えない力。それは恐ろしくもあり、同時に不思議と彼女の闘志を掻き立てた。
「でも、私は記憶を持っている。それなら…」
「そう、それが希望だ」黒瀬は肯定した。「君の記憶こそが、運命を変える武器になる」
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「風間、会議だ」
黒瀬の声に現実に引き戻された。彼は沙月のデスクの前に立ち、いつもの冷たい表情で彼女を見下ろしていた。しかし沙月には分かる。その目の奥に潜む温かさを。
「はい、今行きます」
彼女は急いでデザイン案の最終チェックをし、資料をまとめた。このプレゼンは「前の人生」では行われなかった出来事。小さな変化が、すでに彼女の現実を変え始めていた。
「準備はいいか?」黒瀬が低い声で尋ねた。周囲には聞こえないよう配慮しているようだった。
「はい」沙月は小さく頷いた。
会議室に向かう二人の間には、他の社員には見えない特別な絆があった。時間を超えて結ばれた不思議な関係。廊下を歩きながら、沙月は黒瀬の横顔を見つめた。普段は冷淡な彼の姿が、昨日からは別の人のように見えてくる。
「黒瀬さん」沙月は小声で呼びかけた。「本当に未来は変えられますか?」
黒瀬は周囲を確認してから、ほとんど聞こえないくらいの声で答えた。
「変えてみせる。俺たちで」
その「俺たち」という言葉に、沙月は奇妙な安心感を覚えた。もはや彼女は一人ではない。
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会議は予想外の展開を見せた。
「このバナーデザイン、意外といいじゃないか。風間、いい仕事をしたな」
営業部長の予想外の褒め言葉に、沙月は驚きを隠せなかった。前回の人生では、同じデザイン(に近いもの)が却下されたのに。
「ありがとうございます」
沙月が礼を言うと、黒瀬がわずかに頷いた。彼が何か関与しているのだろうか。彼の表情は相変わらず無感情に見えたが、沙月には分かった。彼の目に宿る小さな満足感。
「このアプローチで他のキャンペーンも進めよう」
部長の言葉に、会議室内の空気が変わった。沙月のデザインが、部署全体の方向性を変えるきっかけになったのだ。
会議終了後、沙月は黒瀬に近づこうとしたが、彼は他の幹部社員と話を始めた。二人きりで話すのは難しそうだった。それでも黒瀬は一瞬だけ沙月の方を見て、わずかに目を細めた。その仕草は「よくやった」というサインのようだった。
自分のデスクに戻りながら、沙月は不思議な高揚感を覚えた。小さな選択が未来を変えたのだ。「前の人生」とは違う道が開けてきた。
午後の仕事に戻りながら、沙月は考えた。小さな変化が生まれ始めている。このまま行けば、あの運命の夜も変えられるかもしれない。
デスクでの作業中、ふと窓の外を見ると、奇妙な景色が目に入った。高層ビルの一つが、わずかに歪んで見えたのだ。まるで熱気で揺らめいているよう。
「あれは…」
沙月は目を擦り、もう一度見た。しかし今度は何も異常はなかった。錯覚だったのだろうか。それとも、時間のループによる何らかの影響?
彼女はその違和感を心の片隅に留めておくことにした。今夜の選択が最も重要だ。「前の人生」で事故に遭った夜を、どう変えるか。
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「風間さん、今日飲みに行かない?新しいダイニングバーがオープンしたんだって」
仕事終わりに三島が声をかけてきた。三島は営業部の活発な女性社員で、社内でも人気者だった。彼女の明るい性格は、疲れた社員たちの活力になっていた。
沙月は一瞬迷った。前回の人生では、この誘いを断り、一人で帰宅する道中で事故に遭った。もし今回も断れば、また同じ運命をたどるのではないか。
「行く!」
即答した沙月に、三島は嬉しそうに笑った。
「やった!じゃあ七時に一階ロビーで待ち合わせね」
この選択が未来を変えるかもしれない。沙月はそう信じていた。振り返ると、黒瀬が遠くから彼女を見ていた。彼はわずかに頷いたように見えた。
夕方、彼女はトイレに立ち寄った際、鏡の前で自分の顔を見つめた。
「今回は大丈夫。運命は変えられる」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。鏡に映る自分の顔は疲れていたが、目には強い決意が宿っていた。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。
トイレから出ると、廊下で黒瀬とばったり出くわした。彼は周囲を確認し、小声で言った。
「今夜は気をつけろ」
彼の声には珍しく心配の色が滲んでいた。沙月は少し驚きながらも、安心した。彼も一緒に運命と戦ってくれているのだ。
「大丈夫です。三島さんたちと飲みに行くので、一人じゃありません」
黒瀬は少し驚いたように見えた。
「そうか…それがいい」
彼はそれ以上何も言わず、立ち去った。しかし、その後ろ姿には何か心配そうな雰囲気が漂っていた。沙月はその様子に少し不安を感じたが、すぐに振り払った。
「今夜は違う。絶対に」
沙月は自分に言い聞かせた。黒瀬の背中を見送りながら、安心感を覚えた。今夜は違う道を歩む。事故に遭うことはないはずだ。
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「本当に美味しいね、ここ!」
バーの賑やかな雰囲気の中、三島は嬉しそうにカクテルを飲んでいた。沙月も含め、アスミ広告の若手社員が数人集まっていた。
おしゃれな照明が店内を柔らかく照らし、BGMはちょうど良い音量でジャズが流れている。このような場所に来たのは久しぶりだと、沙月は思った。
「うん、雰囲気もいいね」
沙月はグラスを傾けながら、時計を確認した。21時30分。前回の人生で事故に遭った時間はもうすぐだ。しかし今回は違う。彼女はここにいる。安全な場所で。
「風間さん、最近調子いいよね。今日のプレゼンも良かったし」
新入社員の山田が沙月に話しかけてきた。
「ありがとう。ちょっと違うアプローチを試してみたの」
笑顔で答えながらも、沙月の意識は絶えず時計に向いていた。21時45分。あと15分で「あの時間」だ。
テーブルに並ぶ料理とお酒。同僚たちの笑顔と会話。普通の夜。だが彼女にとっては、運命との戦いの夜。
会話を楽しみながら、沙月は次第にリラックスしていった。時計は22時を回り、そして22時30分になった。これで彼女は運命を変えたのだ。あの事故の時間を、安全に乗り越えた。
「そろそろ帰ろうかな」
沙月が席を立つと、三島も一緒に立ち上がった。
「私も帰る。一緒に行こう」
二人は店を出て、駅に向かって歩き始めた。夜の街は人通りが少なくなり始めていたが、二人連れなら安心だ。
「あ、忘れ物した!財布が店に…」
突然、三島が立ち止まった。
「取りに戻るね。風間さんは先に行っていいよ」
沙月の中で警鐘が鳴った。これは「前の人生」とは違う展開だが、結果として彼女が一人になってしまう。それは危険かもしれない。
「一緒に戻ろうか?」
「ううん、大丈夫。電車逃しちゃうでしょ?先に行って」
三島は心配そうに沙月を見た。確かに、次の電車を逃すと30分も待たなければならない。この時間帯、電車はもう少なくなっている。
沙月は迷った。でも確かに、次の電車を逃すと30分も待たなければならない。それに前回の事故現場とは違う道を通るのだから、大丈夫なはずだ。
「じゃあ、気をつけてね」
二人は別れ、沙月は一人で駅に向かった。前回の事故現場は別の道だから大丈夫なはず。彼女はそう自分に言い聞かせた。それでも、背中に冷たい不安を感じながら歩いた。
駅に近づくにつれ、人通りはさらに少なくなっていた。街灯の明かりが道を照らすが、夜の闇はそれを飲み込もうとするように深かった。沙月は少し足早に歩いた。
「風間さん!」
後ろから声がした。振り返ると、同じバーにいた営業部の若手社員、井上が駆け寄ってきた。彼は優しい性格で知られる社員だった。
「忘れ物ですよ」
彼は沙月のスマートフォンを差し出した。確かに彼女のものだ。テーブルに置き忘れていたらしい。
「ありがとう、気づかなかった」
スマートフォンを受け取りながら、沙月は少し安堵した。もし彼が来なかったら、貴重な通信手段を失うところだった。
「送っていきますよ。こんな時間に一人は危ないですから」
「ありがとう」
沙月は感謝しながら、二人で歩き始めた。井上のような気配りができる人が近くにいれば、安全だろう。彼女は少しずつリラックスし始めた。
しかし、駅の近くの横断歩道を渡ろうとした瞬間、井上の表情が突然変わった。
「あれ?風間さん、あそこに黒瀬さんいません?」
沙月が井上の指す方向を見ると、確かに路地の陰に黒瀬らしき人影が見えた。なぜ彼がここに?彼は彼女を見守っていたのだろうか?
「ちょっと確認してきます」
沙月が一歩踏み出した瞬間、まばゆい光が彼女を包み込んだ。強烈なヘッドライトの光。猛スピードで曲がってきた車の姿。
「危ない!」
井上の叫び声、車のブレーキ音、そして激しい衝撃。沙月の体は宙に舞い上がった。
「また…同じ…」
地面に倒れながら、沙月は絶望的な思いに襲われた。結局、運命は変えられなかったのか。彼女がどれだけ状況を変えても、死という結末だけは変えられないのか。場所は違えど、また交通事故で命を落とすのか。
視界が赤く染まる中、沙月は黒瀬の姿を探した。そこには確かに彼がいた。彼女のもとへ駆け寄ってくる黒瀬の姿。彼は雨の中を走っていた。いつの間にか雨が降り始めていたのだ。
「沙月!」
黒瀬は彼女を抱き上げ、必死に呼びかけた。彼の顔には雨粒と一緒に、何かが流れ落ちていた。涙だろうか。いつも冷静な彼が、今は狼狽え、悲しみに暮れている。
「覚えているか?また会えるぞ。必ず」
沙月は弱々しく頷こうとした。今回は違う。彼女は記憶を持ったまま「戻る」のだ。次は必ず運命を変えられる。そう信じたかった。
「なぜ…同じことが…」
血の味が口の中に広がり、言葉を紡ぐのも難しくなっていた。それでも彼女は問いかけた。なぜ運命は彼女をこうも執拗に追いかけるのか。
「運命は簡単には変えられない。だが俺たちは諦めない」
黒瀬の声には、これまで聞いたことのない激しさがあった。彼は沙月の髪を撫でながら、静かに、しかし強く告げた。
「君が死ぬ世界なんて、俺が壊してやる」
その言葉には、普段の冷酷な上司からは想像もつかない情熱と決意が込められていた。沙月は黒瀬の目を見つめながら、その言葉の意味を理解しようとした。
世界を壊す?どういう意味だろう?
しかし考える力は急速に彼女から失われていった。意識が遠のき、暗闇が迫る。周囲の騒ぎ声、サイレンの音、それらがどんどん遠くなっていく。
最後に聞こえたのは、黒瀬の囁きだった。
「今度は俺が変える。待っていてくれ」
そして沙月の世界は、再び闇に包まれた。
死の淵で感じた黒瀬の言葉と感情。それは彼女が知る冷徹な上司の姿からはかけ離れていた。この不思議な時間のループの中で、彼は一体何を知り、何を守ろうとしているのか。
「君が死ぬ世界なんて、俺が壊してやる」――その言葉の真意を、沙月はまだ理解できなかった。しかし、それが単なる感情的な発言ではなく、何か深い意味を持っていることだけは感じ取っていた。
沙月は再び目覚めることになる。そして今度こそ、運命を変えるための手がかりを掴むことができるだろうか。死と再生の輪廻の中で、彼女と黒瀬の物語は、次第に深く、そして不思議な方向へと進んでいく。
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