鯢様(はんざきさま)

@yamasano

1

 山道はゆるやかな上り坂。


 左右端には道祖神や舟形石碑が点在している。それらに見守られ、染み入るような淡い午後の日差しを浴びながら、てくりてくりと歩き続ける。


 小一時間ほど過ぎたところで左のわき道から茂みの中へ入ると、そこから先はあぜ道とも獣道ともつかない蹊が森の奥へとのびている。頭上へのしかかってくる木々枝々に竿と雑嚢を奪い取られないよう苦労して押しのけ、はねのけ、くぐり抜けて先に進むうち、道はずぷりぬぷりとぬかるみ始め、やがて崖路に出る。足元に注意しつつ登っていくと、ようよう目指す場所にたどり着く。


 そこは小さな淵だ。滝壺に満ちる清流と周りを囲む樫林が地味だが美しい群青世界を創り出している。


 ここがわたくしの、いわば特等席であった。

 ここだけが、今のわたくしが欲し、得られる全てなのであった。

 平たい岩場が中空につき出ているのを天然のベンチにして腰を据え、涼やかなせせらぎに向かって竿を振り、糸を垂らす。鳥と虫の歌、木のざわめきに耳を傾けながら、時には安ウイスキーを嘗め、日がな一日、沈思黙考する。


 それで十分さ……。わたくしはいつも心の中で一人ごちるのであった。人生というやつは全くそれだけで十分なのさ……。


 日が過ぎていく。人生が終わっていく。宿に帰れば飯が炊けている。

 これ以上のことを望む必要があるだろうか。


 人知れず隔絶されたこの水辺を、わたくしは逗留の初日に見つけ出した。運命がわたくしを深沈たる場所へと駆り立てたのであろうか。誰も運命には逆らえない。道に迷い、意図せずして踏み込んだのである。誰かに教えられたのではない、現代の日本とは思えぬこの秘境を、わたくしは自分だけのものにとどめておきたかった。

 だから、その日、先客がいたことに気付くと、奇妙に裏切られたような、がっかりしたような、筋道の通らぬ安直な気持ちに陥ったものである。



 黒っぽい何かが淵の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。十歳ほどの子供の頭程度の大きさである。あれは一体何であろうかと思っているうちにそれはくるうりと弧を描いて半回転しこちらをふりむいた。果たしてそれは十歳ほどの子供の頭なのであった。


「お前は誰だナ」と、わずかに甲高い生意気そうな声音で問いかけてきた。「お前はそこで何をシておるな」


 ふむ、あそこは小さな子の足が届くような深さではないはずだが……、わたくしはいぶかしく思った。

「君こそ、そのような水の中で何をしているのだ」わたくしは言った。「そんなところで泳いだら、君、とても危ないのではないかね。早く陸(おか)に上がりたまえ」


「おれは久方ぶりに帰ってきたら、慣れない変な匂いが水に付いて困っておったのだよ。どうやらお前が因(もと)らしいナァ」


「小生は自々目(じじめ)の宿の世話になっている者だが、君はどこの子だい」

「ここさ」

「住んでいるところを聞いてるのだがね。親御さんはどこだ。大人と一緒なんだろう」


 子供は口を大きく開けて、べらべら笑った。


「この地のものどもは人であれ何であれ、誰もおれのそばに長く居たいとは思うまいよ」


 どうも会話が大きなところですれ違っているような気がする。それに相手の態度にはいささか不遜なものがあるように思われた。


 こんな得体の知れぬ子供は放っておくに限る、わたくしは会話を打ち切って、いつものように魚釣りを始めようとした。しかし淵の真ん中に居座られているので危なくて針を落とすことができない。こちらが釣り竿を携えていることは子供の位置からも見てとれるはずだが、彼は浮かんだままそこをどこうとしなかった。意地悪そうににやにやしている。邪魔をして追い出す腹積もりであろうか。


 なるほど……、であれば、こちらにもやり方がある。わたくしは竹竿を置くと、背中の雑嚢を外した。そうして荷の底から、携帯ゲーム機とそのソフトを取り出したのであった。


 子供はわたくしの仕草を油断のない目つきで見守っていたが、スイッチを入れたゲーム機が軽やかな起動音をたてるとわずかに身じろぎしたらしく水面がわやわや乱れた。楽しげな音楽が鳴り、滝壺の水音に交じって反響した。


「なんだナ、それア」

「さてねぇ……何だと……思う? くっくっく……」


 わたくしはことさら大げさに十字型のキーやその他のボタンを触ってみせながら、思惑通りの反応にそっとほくそ笑むのであった。

 子供というのは一体に好奇心が強い上に物事に対する分析力が足りないから、音をたてたり光ったりする機械がそれだけでただもう気になって仕方のないものなのだ。

 これが世慣れた大人の戦い方というものである。純朴な田舎の子など物の数ではないのである。わたくしは場の流れを掌握しつつあった。あとは適当にあしらって子供を去らせればよい。


 わたくしはゲーム機を操作しながら顔を上げて淵の子供を見た。そして手元の機械に目を落とし、それからもう一度顔を上げて……仰天した。


 子供の頭が吸い込まれるように淵に没したかと思うと、あっという間にわたくしの座っているところへ、濡れて黒々と光っているからだを投げ出してきたからである。たとえば魚や蛙など、水場に棲む小動物がそうした軽業を見せることは驚くに値しない。だが人間が同様の動きをするのは話が全然違う。まるで瞬間移動したようなものである。

 あまりにも現実離れした身のこなしに驚き、わたくしは岩から転げ落ちるところであった。


 こちらの驚愕には一切頓着せずに子供はわたくしの隣に立つと、さきほどまでの敵意に満ちた態度はどこへやら、純粋な好奇心にあふれ物事を見定めようとする顔でわたくしとゲーム機とを交互に眺めた。


「なんだろうナ。お前、それはなんだろうナ」

「呆れたね、君は。すっぱだかじゃないか」


 わたくしはかろうじて大人の威厳を保つことに成功したようである。岩に座り直した。

「せめて水着くらい着たらどうだね」そうつけ加えたのは、相手が少年ではなく少女であることに気付いたからである。

 年齢を十歳と見積もったが、こうして見るとさらに幼い。せいぜい七つか八つといったところであろうか。

 いくつにもわかれた髪が色黒と思しき地肌にぴったりと張りつき、その隙間から丸い目が瞬きもせずに無遠慮にこちらをのぞき込んでくる。


 本当であれば、わたくしは次のように言いたかった。


 小生をそんな目で見るのはやめたまえ。初対面の人間に対しそのような目つきをすることは、君、大変ぶしつけで失礼なことなのだよ、と。

 だが、わたくしは結局何も言わず、やがて子供の目を真正面から見ていられなくなって視線をそらした。チェッ、清らかな瞳をしてやがる……、そう思ったことであった。今に限った話ではない。幼子の眼差しを正面から受け止められなくなったのはいつからであろうか……。


 しかし冷静に考えれば、わたくしにもかつてそのような目を備えていた幼少期があったはずなのだ。昔はみんなが優しかった。今は金を出さなければ誰も優しくしてくれない。悲しい。


 わたくしはかぶりを振って刹那の思考を中断すると、携帯ゲーム機を示すように持ってやった。

 今まさに華やかなオープニングが始まり、子供は食い入るように画面を見つめるのであった。


 ふと気づくと、そのこめかみに黒い塵が付着している。藻か水草のようである。わたくしはそれを取りのぞいてやろうと思い、右手にゲーム機を持ったまま、左手を伸ばした。わたくしの指先が相手に触れる直前、いきなり子供の首が動いて噛みつこうとした。ある種の捕食動物が攻撃の際に見せる瞬発的な獰猛さであった。細かく鋭い歯が閃いたのはわたくしの目の錯覚であろうか。


 指を食いちぎられると思った。だが、かろうじて手を引くのに間に合った。子供の歯は空を噛み、がちりんと派手に鳴った。


 己の反射的な行動により我に返ったという面持ちで相手はわたくしを見た。座っているわたくしと立っている子供と、顔の高さはほとんど同じ位置にあった。

 至近距離で向かい合ったのはほんのわずかである。電光のようなすばしこさで淵へ身を躍らせると、子供はたちどころに姿を消してしまった。


 あとには、のたうつような波紋があるばかり。



 爽秋の候、去りゆく夏を惜しみつつ、深まる秋を噛み締めつつ、足掛け十二年勤めた会社が倒産したのであった。会社というのはゲーム制作会社であって、携帯ゲーム機専用ソフトの開発を主業務としていた。わたくしはそこでシナリオその他テキスト類の作成を任されていたのであるが、会社が倒産するのとほぼ時を同じくして、わたくし自身も体調を崩して倒れてしまったのである。


 三々五々、同僚たちが再就職を決め、あるいは起業して新たな会社を立ち上げ独立していくのを横目に見ながら、布団にくるまって呻吟歯噛みする日々、嚢中おのずから銭ありという身分ではない、食費を切り詰めるため体力気力がなくとも摂れる安価な素麺ばかりをすすり続けた結果、ろうそくの両端に火をつけたように見る間に消耗した。栄養の無知である。力を取り戻すために奮発してスーパーの豪華焼肉弁当などを買うと、よくない脂が使われていたらしく腹を下して七転八倒し、このあたりで体から困窮そのものといった臭いがし始める、自分でもそれがわかり、なんとかせねばならぬと思いはするのだがもはやすでにどうにもならない。


 また、体調不良とは別に、絶望的なイメージな苛まされるときもあった。あるいはこちらの方がより重篤であったかも知れない。


 そのイメージの中でわたくしは白い霧に囲まれて、どことも知れぬ場所に立っている。手元にはいくつかの小石がある。それを向こう側に投げてみる。遠投のように大きく空へ放り投げたり、水切りのようにして横手に投げたり、ときには利き腕ではない方で投げたり、矢継ぎ早に投げ続けたり、足元に落としたりする。思いつく限りいろいろ試してみる。


 だが、それらの行為は、結局のところ、何も引き起こさない。音も反響も何もない。全ての石は虚無虚空に呑み込まれ、一切の手ごたえはなく、ただただ消えゆくのみ。


 わたくしの作ったもの書いたものは何も誰にも影響しない。あろうがなかろうが、なべてよはこともなし。世の中はなんてことなく、ただ過ぎていく。


 陰々滅々、憂々鬱々。わたくしはいったいどうしたかったのであろうか。どうすればよかったのだろうか。何かに失敗したということなのであろうか。どこから間違ったのだろうか。もはや何もわからない。


 急急如律令かくあれかし、今のわたくしに必要なのは、わたくし自身の人生なのであった。

 どんな状況でもいちばんの原則は、自分がやりたいことをするということである。わたくしは旅に出たいと思った。

 そこで一念発起して全財産を整理すると、鞄に手持ちの携帯ゲーム機一式とウィスキーのポケット壜を放り込み、あてもなく電車に飛び乗ったのであった。半年前のことである。



 わたくしが滞在している山宿はかつて地元の者たちを相手にした駄菓子屋であったが、数年前に旅館に鞍替えし、屋号をそのまま「駄菓子屋」にしたのだという。ごく小さな川が裏手を通っていて水の音が淙淙と聞こえる風流なところである。旅館とはいっても主人とそのご尊父の二人が母屋を住居としていて、客が来るたびに適当な部屋をあけて用意する、という程度のものらしい。わたくしに充てられた部屋は母屋ではなく小さな離れであった。ほかに客はなかった。


 淵の子供と遭遇したその日、わたくしは夕食の盆を下げに来た主人と話をした。わたくしとほぼ同年配の、朴訥で気の良い人である。

 ごちそうさまでした、とわたくしは礼を述べた

「こちらでご厄介になってから、ずいぶん食が進むようになったと感じます。本当にありがたいことです」

「それはようございました。父も喜びましょう」と主人ははにかんで微笑んだが、そこで少し考え込むような真顔になって言った。


「ところで、村役場から通知が来ました。ちょっと大変なことなのでお客様にもお伝えしておきますが、野良犬が出たようです」

「ははあ」わたくしは曖昧な相槌を打った。「犬が出たと」


 穏やかで平和な山であるために、そのようなことまで大ニュースのように扱われるのであろうか、と思った。


「いやいや、ただの犬ではありません。まあ大変に危ないやつなのですよ」


 訛りはあるが聞き取りやすい言葉で主人は言うのである。

 なんでも子牛ほどもある大きな白い洋犬であるらしい。去年末頃に県境を越えて流れてきた無法者で、麓では鶏やアヒルなどの家禽小屋に被害が出ているのだという。

「人がいる家にまで入り込んでくることはないと思いますが、お客様はふだん山を散策されるでしょう。ご注意された方が良いかと」


 主人はそう言って外に顔を向けた。

 離れの廊下に面した障子は開け放たれていて、わたくしたちの位置から庭が見渡せる。夕暮れの中に駄菓子屋のご尊父の姿があった。山野に咲く花を眺めているようでもあるし、何か我々には感知できない別の世界のものを観察しているようでもある。その様はまるで人の形をした古木のように思われた。事実、ご尊父の精神はもう植物に近くなっているのかも知れなかった。


 わたくしは一瞬、巨大な暴れ犬が荒ぶって吠え猛りながら、齢七十の無力無害な老人に襲いかかる様を想像し、その恐ろしさに身震いした。そのような犬は確かに猛獣として扱うべきであろう。


 噛むという連想から淵で会った少女のことを思い出した。野良犬が山を徘徊しているとすれば彼女も危ないのではないだろうか。だが、わたくしの懸念に対し、主人は首をかしげるのだった。


「はてな……?」と、彼は言った。「そんな小さな子がここらにいましたかね? 若い人たちはみんな麓に移ってますから……。いや、いないはずですよ、そんな女の子は……」

(続く)

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