神はサイコロを振らない

「樋口君、須田優司君と五十島謙氏のDNAについて特殊な鑑定が必要かもしれない。二人のDNAサンプルを少しでも多く集めて欲しい、それと今回の鑑定は私の診療所の設備では不可能だ。大学病院の施設を使う」


「大学病院? そんな場所使うのはさすがに許可とか出るんですか? 本人の同意も……」


当然の懸念だった。


私は声を潜めて言った。


「あてがある、少し……厄介な相手だがね」


そして私は、かつて在籍していた大学病院の元部下の所へと足を運んだのだ。


研究室の主となった彼は、私の訪問を心底愉快そうに迎えた。


「これはこれは青木先生! 一体どういったご用件で? まさか私に頭を下げに来られたとか?」


私は感情を殺して事情を説明し、協力を要請した。


彼は嘲笑を隠さなかった。


「……惨めですね、自分を陥れた相手に慈悲を乞うとは。実に気分がいい! いいでしょう、協力して差し上げますよ。せいぜい私の役に立ってください」


握りしめた拳が震えた。


だが自分の仮説を証明したいという欲求の前には、プライドなど無力だった。


後日、鑑定結果が出た。


優司君は、染色体キメラだった。


あの背中の模様はやはり、ブラシュコ線だったのだ。


「やはり五十島謙も……キメラだったか」


そして謙氏もまた、胎内で双子を吸収して生まれてきた染色体キメラだった。


「……親子二代でキメラとして生まれたというのか」


全ての辻褄が合った。


鑑定結果の不一致は、この二重の奇跡が引き起こしたエラーだったのだ。


報告をしなければとスマホを手にする。


興奮が抑えられない、うまく説明できるか不安だ。




「DNA鑑定の結果だが……」


久美子君に結果を伝える時、逸る私は染色体キメラについて可能な限りわかりやすく説明した。


「……よくわからないけど、その『染色体キメラ』のせいで鑑定結果がおかしくなっていたんですね?」


「ああそうだ! 今回二人を詳細に検査した事でようやくわかったんだ!」


「そう、優司が……」


説明を聞いた彼女はそう呟く。


そしてただ一言、


「……ありがとう、先生」


とだけ言って、通話を終えた。


その声には安堵と、それ以上の感情が滲んでいたように見えた




そしてさらに後日。


久美子君から短い連絡があった。


「先生、例の元部下さん……大学病院を解雇されたそうです」


「……なぜだね?」


驚いて尋ねる私に、彼女は電話の向こうで悪戯っぽく笑った。


「さあ? ただ……私は意外と仲間思いなんですよ、先生」


その言葉に、背筋が寒くなるのを覚えた。


彼女もまた、己の正義のためなら手段を選ばない人間だった。


​……そして今。


その全てを知った上で私はあの法廷に立ち、そしてこの診察室にいる。


あの時証明された『真実』は、さらなる悲劇を生んだ。


これでよかったのか?


私の行動は正しかったのか?


答えの出ない問いが冷めたコーヒーのように苦く、澱のように心に溜まっていく。


電話の着信音が思考を中断させる。


慌てて受話器を取ると、


「先生、五十島信護さんと名乗る方が先生に直接お話があるとお待ちですが……」


受付からの内線だった。


やはり来たか、いつかはこんな日が来るんじゃないかと思っていた。


「わかった、こちらへお通ししてください」


短い休憩時間に感じた胸のざわめきが、再び大きくなるのを感じた。


私はゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かった。


​ドアが開き、青年が入ってきた。


高校生くらいだろうか、少し強張った表情をしている。


だがその目には強い意志の色が見える。


彼が五十島信護君か。


「どうぞ、お掛けください」


彼を促し、私も向かいの椅子に腰を下ろす。


「それで五十島信護さん、須田優司さんの件で私にどのようなご用件でしょうか?」


私は努めて平静を装い、問いかけた。


信護君はゴクリと唾を飲み込み、単刀直入に切り出した。


「先生、先日の裁判傍聴していました」


やはりそうか。



「法廷でのやり取りを聞いて……どうしても納得できないことがあって、今日伺いました」


彼は続けた。


その声には若者らしい率直さと、隠せない緊張が滲んでいる。


「兄……須田優司は、本当に父……五十島謙と血が繋がっていなかったんでしょうか? あの時の鑑定結果は、本当に間違いなかったんでしょうか?」


私は内心ため息をついた。


いきなり核心を突いてくる。


「裁判でも申し上げましたが患者さんのプライバシーに関わることはできません」


守秘義務を盾にするしかない。


だが彼の目は少しも揺らいでいなかった。


予想通り、彼は諦めなかった。


それどころか、鞄から何かを取り出した。


「先生、俺は本気なんです」


そう言って彼は、二つの小さなビニール袋を診察机の上に置いた。


中には、数本の髪の毛。


まさか……!


「これは兄の……須田優司の毛髪です。父さんが遺体を引き取って、荼毘に付す前に……俺が貰いました」


そう言いながらもう一つ袋を取り出す。


「こちらは、父のものです」


驚きで言葉を失った。


そこまでしていたとは。


「俺はもう一度調べてほしいんです、本当のことを知りたい」


彼の真っ直ぐな視線が、私に突き刺さる。


……参ったな。


この青年の決意は固い。


ただ規則ですからと突っぱねても、彼は諦めないだろう。


……仕方ない、私は腹を括った。


ここで鑑定を引き受ける。


「……わかりました、五十島さん」


私はゆっくりと頷いた。


「あなたの、真実を知りたいという強い意志は理解しました」


彼の真剣な眼差しと熱意。


私はそれに何か、運命めいたものを感じていたのだ


「ですが、これは非常にデリケートな問題です。それでも、というのであれば……」


私は言葉を選び、念を押した。


「この診療所で手配するDNA鑑定では、一から二週間程度お時間を頂くことになります。それでもよろしいですか?」


「……!」


彼の顔が興奮からか紅潮していく。


「はい! ありがとうございます、先生!」


彼は深く頭を下げ、何度も礼を言いながら診察室を出て行った。




一人になった診察室で、私は再び深いため息をついた。


机の上の毛髪サンプルが、重い現実を突きつけてくる。


私は迷わず受話器を取り、短縮ダイヤルを押した。


数回のコールの後、聞き慣れた声が出る。


「……はい、樋口探偵事務所」


「私だ」


「あら先生珍しいですね、そちらからかけてくるなんて」


久美子君の声は、相変わらず飄々としている。


私は単刀直入に告げた。


「たった今五十島謙氏の次男、信護君がここに来たよ。父親と兄の毛髪を持ってね。再鑑定を依頼された」


「……へぇ」


受話器の向こうで、彼女の声色が少し沈んだのがわかった。


「あの子、諦めなかったんだ」


「ああ、私は引き受けたよ」


「……先生、本気ですか?」


彼女は呆れたように言った。


「やめた方がいいんじゃないですか? 通常の確率で言えば、その数本の毛髪から一致するDNAが出るなんて奇跡に近い。……先生が言ったんですよ?」


「わかっている、科学的には徒労に終わる可能性が極めて高い」


「だったら……」


私は机の上のサンプルを見つめながら言った。


「だが……ゼロではない。私も彼の熱意に少し当てられてしまったようでね、もしかしたらという非科学的な期待を捨てきれない自分がいるんだ」


「私は……反対です」


久美子君は小さく真面目なトーンで呟く。


「……もしその『もしかしたら』が起きてしまったら……もし本当に、彼らが親子だと証明されてしまったら」


彼女の声が震えた。


「私は、神様を恨みますよ」


「……なぜだね?」


「だって、あんまりじゃないですか。生きてるうちはすれ違わせて、死んでから『実は親子でした』ってあっさり証明されるなんて。そんな残酷なシナリオ、許せません」


そこまで言って、彼女は自嘲気味に呟いた。


「……いや、今更か。私はもう、十分に神様を恨んでましたね」


「樋口君?」


「私、とんでもない秘密を『二つ』も、墓場まで持っていくことになっちゃいましたから」


彼女は噛み締めるように言った。


「これ以上、残酷な荷物を増やさないでほしいものです」


具体的なことは言わない。


だが、その沈黙の重さだけで十分だった。


彼女もまた知る者としての業を背負い、孤独に戦っているのだ。


「……ああ全くだ。我々は、因果な商売だよ」


「結果が出たら教えてください」


「もし証明されたら……どうする?」


久美子君は少し黙って考えたあと、微笑しながら答える。


「先生は仲間ですから、ご意思は可能な限り尊重します。ただ……」


「……ただ?」


聞くのが怖い、少し背筋が涼しくなる。


「私は、私が正しいと思うように動きます」


「そうか」


通話を切ると、部屋の静寂がより一層重く感じられた。


窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。


ふと信護君の真っ直ぐな目を思い出す。


確率も運命も、全てが彼に味方しないかもしれない。


それでも。


……負けてほしくない、心のどこかでそう願っている。


こんな秘密まみれの汚い大人たちに負けずに、いつか真実に辿り着いてほしい。


「神はサイコロを振らない、か……」


私は誰にともなく呟き、重い腰を上げた。


世界は確率ではなく法則で動いているとする、アルベルト・アインシュタインの言葉だ。


だが。


不確定性こそが世界の理(ことわり)だと証明されてしまった。


つまり結局、神はサイコロを振りまくっていたというのが現代物理学の結論だ。


私は事務室のコーヒーメーカーに水を入れ、スイッチを押した。


低い駆動音が唸り声のように響く。


私と久美子君は扉を閉めて、真実を隠す事を選んだ。


信護君はその扉を開こうとしている。


果たして神とやらが振るサイコロは、どちらの目を出すのだろうか。


出来上がったコーヒーは少し苦い、ガムシロップを入れようと引き出しを開けると一つだけ残っていた。


まあ、後で買い足せばいいか。


私はガムシロップを混ぜたコーヒーを口にした、程よい甘さが口のなかに広がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る