砕け散る硝子

須田さんは黙り込んだ。


首筋に押し当てられたガラス片の圧力が、ふっと弱まる。


彼は迷っているのか。


それとも、かつての友との約束を思い出しているのか。


静寂が支配する墓地。


そこに私と彼と、そして瀬戸警部の荒い呼吸音だけが響く。


このまま説得できるかもしれない。


そう希望を抱いた、その時だった。


​ウゥゥゥゥ……。


遠くから風に乗って、サイレンの音が聞こえてきた。


一台ではない。


複数のパトカーが、こちらへ向かっている。


その音が、張り詰めていた糸を断ち切った。


須田さんの体が、ビクリと強張る。


「……もう、あまり時間がないようですね」


須田さんが呟いた。


その声には焦りよりも、どこか諦めと決意が入り混じっていた。


彼は一度だけ空を見上げ、そして視線を瀬戸警部に戻した。


瀬戸警部もサイレンの音に焦りを感じたのか、銃を構え直して一歩踏み込んだ。


「須田君、教えて!」


彼女の声は悲痛な叫びのようだった。


「なぜ……なぜ、皆原誠を殺したの!?」


この質問が投げかけられた瞬間、墓地の空気が凍りついた。


気温が下がったような錯覚。


私を盾にしていた須田さんが、私の肩越しにゆっくりと顔を出す。


「……何故、でしょう?」


須田さんの声は、不思議なほど穏やかだった。


だが。


その穏やかさは、嵐の前の静けさのような不気味さを孕んでいる。


彼は問いに答えるのではなく、逆に問い返した。


その視線は瀬戸警部を通り越し、彼女の後ろにある墓石――『須田沙良』の名が刻まれた石へと向けられていた。


「皆原誠は……君にとって、良い父親ではなかったでしょう?」


私は耳を疑った。


父親?


皆原誠が、瀬戸警部の?


瀬戸警部の顔色が、月光の下で蒼白になる。


銃を持つ手が、小刻みに震え始めた。


須田さんの声は冷たく、そして残酷なほど滑らかに続く。


「須田沙良を愛して……愛して、愛し抜いた男。君の母親との間に君を儲けておきながら籍も入れず、事実婚のままで放置した男」


「やめて……」


瀬戸警部が呻く。


だが、須田さんは止まらない。


「須田沙良が離婚したと聞けば君ら親子をあっさりと見捨てて、彼女の元へ駆けつけた。君の母親が精神を病んでも君が孤独に震えていても、彼は見向きもしなかった」


「やめて!」


「控えめに言っても……そんなクズみたいな奴は、死んで当然じゃありませんか?」


「やめてぇッ!」


瀬戸警部の絶叫が響き渡った。


彼女の目から涙が溢れ出し、頬を伝う。


彼女は両手で拳銃を握りしめ、再び須田さんに銃口を向けた。


その手は、殺意と悲しみで激しく震えている。


「それ以上……口を開くな!」


須田さんは瀬戸警部の慟哭を聞き届けると満足げに、そして悲しげに微笑んだ。


「……あなたが、聞いたんですよ?」


その笑顔は彼女の心の傷を抉るように、わざと当てつけているかのようだった。


​サイレンの音が大きくなる。


タイヤが砂利を踏む音とエンジンの停止音、そして複数のドアが開閉する音。


警察が到着したのだ。


赤色灯の光が、墓地の入り口付近を赤く染め始めている。


「……そこまでだ! ここは既に包囲されているぞ!」


拡声器を通した警告の声が聞こえる。


須田さんの体が強張る。


彼は一瞬、逃げ道を探すように視線を巡らせた。


しかし、すぐに悟ったようだ。


もう、どこにも逃げ場はないと。


次の瞬間、彼の纏っていた空気が変わった。


憑き物が落ちたような、あるいは覚悟を決めたような。


そんな奇妙な解放感。


「高津さん」


耳元で、彼が私に囁いた。


「……約束、守れずすみません」


「え?」


約束。


『死刑にならなかったら、本当のことを全て話す』という、あの約束か。


私は思わず須田さんに顔を向けようとした。


しかし、それより早く世界が反転した。


ドンッ!


強い力で背中を突き飛ばされる。


私は為す術もなく地面に倒れ込んだ。


「ぐっ……!」


背中に衝撃が走る。


何が起きたのか理解する間もなく、重みが私の上にのしかかってきた。


須田さんだ。


彼は私の上に馬乗りになり、右手を高く振りかざした。


その手には、あの鋭利なガラス片が握られている。


月光を浴びて、凶器がギラリと光った。


彼の顔が見える。


そこには、今まで見たことのない表情があった。


笑っていない。


泣いてもいない。


ただその顔はまるで、必死に『悪役』を演じようとする少年のように見えた。


「っ……!」


彼は声にならない気合と共に、ガラス片を私の喉元めがけて振り下ろした。


死ぬ。


そう思った。


「やめて!」


瀬戸警部の悲鳴が、鼓膜を引き裂いた。




​ダァンッ!




乾いた破裂音が、夜の墓地に轟いた。


時間が止まった。


振り下ろされかけた須田さんの右手が、空中で制止する。


彼の体が一瞬、ビクリと跳ねた。


ガラス片が力なく彼の手から滑り落ち、私の横の地面に突き刺さる。


カシャン、という硬質な音。


硝子は、砕けた。


須田さんの口元から、一筋の血が流れる。


彼は私を見下ろしたままゆっくりと、驚くほどゆっくりと崩れ落ちた。


ドサリ。


私の胸の上に、彼の体が重なる。


温かい。


そして、重い。


「……あ……」


彼の喉から、空気が抜けるような音が漏れる。


私はパニックになりながら、彼を押し退けて体を起こした。


「須田さん! 須田さん!」


仰向けになった彼。


その胸からどす黒い血が溢れ出し、白いシャツを急速に赤く染めていく。


「なぜ……こんなことを……」


私の問いかけに、須田さんは虚ろな目を向けた。


彼の口元が微かに動く。


かすかな笑みが浮かんだように見えたが、その瞳からは急速に光が失われていく。


「兄さん!」


信護君の悲痛な叫び声が響く。


「お兄ちゃん!」


真知さんも叫ぶ。


二人は駆け寄ろうとしたが、五十島さんがそれを必死に抱き止めた。


「見るな! 見るんじゃない!」


五十島さんは震える子供たちの顔を自分の胸に押し付け、須田さんの倒れた姿を凝視していた。


その表情は苦悶に歪んでいる。


瀬戸警部は銃を落とし、その場に崩れ落ちていた。


「あ……あぁ……」


自分のしたことが信じられないというように、震える手を見つめている。


茫然自失。魂が抜けたような姿だった。


​「確保! 確保ーっ!」


怒号と共に、数名の警察官が茂みをかき分けて雪崩れ込んできた。


ライトの光が乱舞し、現場を照らし出す。


その先頭にいた、眉間に深い皺を刻んだ刑事が惨状を見て足を止めた。


「なんだ今の銃声は!?」


彼は叫びながら走り寄り、そこで凍りついた。


へたり込む瀬戸警部。


血の海に沈む須田優司。


そして、その傍らで呆然とする私。


「須田!?」


刑事は驚愕の声を上げ、次いで激しい怒りを露わにした。


「クソがっ! お前らは瀬戸を取り押さえろ!」


数人の警官が、瀬戸警部を拘束する。


刑事は私を押しのけ、須田さんの横にスライディングするように膝をついた。


「おい! しっかりしろ!」


慣れた手つきで須田さんの首筋に指を当てる。


「……まだ脈がある!」


刑事は叫ぶと、自分のジャケットを脱ぎ捨てる。


そしてそれをすぐに須田さんの胸の傷口に強く押し当てた。


「救急車だ! 大至急呼べ!」


部下に怒鳴りつけると彼は、止血を続けながら須田さんの顔を覗き込んだ。


「ふざけるな、須田! こんな……こんなへらへらしたまま、死なせてたまるか!」


彼の声は怒りに満ちていた。


その奥には焦りと、ある種の祈りのような響きがあった。


「目を開けろ! おい!」


刑事は血に濡れるのも構わず、須田さんの頬を叩いた。


「お前はまだ、何も話してねぇんだぞ!」


須田さんのまぶたが、ピクリと動く。


「こんな勝ち逃げみたいな真似させるかよ! 絶対に全部吐かせてやる! 生きろ!」


刑事の必死の叫びが、夜の墓地にこだまする。


私は震えながら、その光景を見つめていた。


須田さんの手は、だらりと力なく地面に投げ出されている。


その掌は何も掴めなかった空虚さを表しているようで、私は胸が締め付けられる思いがした。


遠くで救急車のサイレンが聞こえ始めた。


だがその音はあまりにも遠く、まるで別世界の出来事のように感じられた。


私の視界の中で須田さんの笑顔の仮面が、永遠に全てを覆い隠そうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る