正しい裁き
里村先生が証言台に立つと、私は立ち上がった。
「里村さん、須田さんが高校生だった頃の様子を教えてください」
「須田さんは真面目で優しい生徒でした。一緒に暮らしていた叔母さんを震災で亡くして母親からの虐待もあったにもかかわらず、いつも笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました」
「須田さんの友人関係について何か印象に残っていることはありますか?」
「はい。須田さんには仲の良い友人がいましたが、その友人を病気で亡くしてしまいました。それでも須田さんは周りの人たちを気遣い、笑顔を絶やさなかったのです」
「須田さんの家庭環境について、何か気になることはありましたか?」
「須田さんは母親との関係が複雑で、時々学校に青あざを作って来ることがありました。児童相談所が介入して親と別居することになりましたが、須田さんの内心は複雑だったのではないかと思います」
「どのような点で複雑だったと感じましたか?」
「須田さんは常に笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。しかし、その笑顔の奥に何か複雑な思いを感じることがありました。母親との関係に悩みながらも、家族への思いを抱えていたように思います。ただ、それを表に出すことは一度もありませんでした」
私は、
「以上です」
と言って席に戻った。
東雲裁判長は白浜検事の方を向いた。
「検察官、反対尋問はありますか?」
白浜検事が立ち上がった。その目には鋭い光が宿っていた。
「里村さん。被告人の母親からの虐待について証言されましたが、具体的にどのような虐待を目撃されましたか?」
「直接目撃したことはありません、ただ須田さんの体に時々あざがあったことは……」
白浜検事はそれを遮る。
「つまり、推測に過ぎないということですね」
里村先生は一瞬眉をひそめ、目を細めた。
その表情には明確な嫌悪が浮かんでいた。
深呼吸をして冷静さを取り戻すと、毅然とした態度で答えた。
二人のやりとりを眺め、強い違和感を持った。
随分らしくないことをする。
貰っていた資料からはこんな迂闊な質問をするような人物では無かった筈なのに。
「いいえ、推測ではありません。生徒たちから優司君の家から怒鳴り声や物を叩く音が聞こえたという話を聞いていました。また優司君の体のあざについては医師の診断書があり、警察にも被害届を提出しています」
私は立ち上がった。
白浜検事、それは無理がありますよ。
「補足させていただきます。今里村さんがおっしゃった医師の診断書と被害届の提出記録は、乙第1号証。医師の診断書と乙第2号証、里村さんが提出した被害届の写しとしてどちらも証拠品として既に提出しております。証拠調べ、お忘れですか?」
白浜検事の表情が一瞬歪んだ。
彼女は苛立ちを隠せない様子で、机の上の書類を乱暴にめくった。
なんなんだろう?
とは言えおかげで空気が変わったのを感じる。
「それでは、被告人が他の生徒に対して攻撃的な行動を取ったことはありますか?」
白浜検事の声には明らかな焦りが混じっていた。
「いいえ、そのようなことはありませんでした。むしろ須田さんは、常に周りの人を気遣う優しい生徒でした」
里村先生は冷静に答えた。
白浜検事は歯噛みするように唇を噛み、次の質問を探るように書類に目を走らせた。
彼女の焦りは、法廷内の誰の目にも明らかだった。
里村先生の証言が終わった後、検察側の論告が始まった。
白浜検事が静かに立ち上がる。
法廷内は、彼女の動きに呼応するかのように緊張感が走る。
彼女は一礼して裁判官席を見据えた後、落ち着いた口調で語り始めた。
「本件は極めて重大であり、残虐な事件です」
その声は研ぎ澄まされた刃物のように冷たく、鋭い。
「広至三年十月二十一日、被告人須田優司は自宅で皆原誠氏を包丁で刺し殺害。その後麹町区霞見町の旧七條商事ビルにおいて、久留島秀一氏を金属バットで暴行し殺害しました。これらの行為は計画性こそ認められないものの、その残虐性と冷酷さにおいて極めて悪質です」
白浜検事は資料に目を落としながら続けた。
「まず第一に、本件では二名もの尊い命が奪われました。そのうち皆原誠氏については被告人の家庭内で発生した事件であり、被告人と被害者との間には複雑な関係性があったことが明らかになっています。しかしそれが殺人という結果を正当化する理由にはなりません」
彼女は一呼吸置き、傍聴席にも視線を向けた。
その視線は、陪審員たちの良心に直接訴えかけるようだ。
「第二に、久留島秀一氏への暴行殺害についてです。この事件では被告人が犯行後、自ら一一〇番通報を行っています。一見すると、この行動には罪の意識や反省があったようにも見えます。しかしその通報内容やその後の行動からは、被告人が自らの行為を軽視しているようにすら感じられます」
彼女は言葉を切る。
「被告人は通報中も冷静沈着であり、その声には緊張感や後悔の色が全く見受けられませんでした」
白浜検事は証拠として提出された通報記録を指し示した。
「この録音からも明らかなように、被告人は犯行後も冷静さを保ち自身の行為を淡々と説明しています。この態度は、反省や悔悟とは程遠いものです」
彼女の声には徐々に力強さが増していく。
「さらに本件では被害者久留島さんへの暴行についても、その手口が極めて残虐であることが指摘されています。金属バットによる執拗な暴行、その結果として生じた外傷性ショックによる死亡――これらはいずれも被告人の行為がいかに冷酷であったかを如実に物語っています」
白浜検事は裁判官席へ視線を戻し、少し間を置いてから言葉を続けた。
「確かに本件では、被告人の生育環境や精神的な背景について考慮すべき点があることは否定できません。しかしそれらの事情があるからといって、このような残虐な犯行が許されるわけではありません。被告人自身も公判中一切その動機について語ろうとはせず、自身の行為と向き合おうとする姿勢も見受けられませんでした」
法廷内には重苦しい沈黙が広がっていた。
白浜検事は最後に一礼しながら締めくくった。
「以上の点から、本件において被告人須田優司には死刑以外の刑罰は相当ではないと考えます。当職は、被告人須田優司に対し死刑を求刑いたします」
その言葉が響き渡ると、法廷内には再び静寂が訪れた。
傍聴席では何人かが息を呑む音すら聞こえる。
白浜検事は毅然とした態度で席へ戻り、その表情には一切の揺るぎも見られなかった。
私は白浜検事の言葉に重いものを感じた。
死刑。
それは須田さんの人生の終わりを意味する。
何としても、それを阻止しなければならない。
続いて、弁護側の最終弁論だ。
法廷内は、検察官の力強い論告を受けて張り詰めた空気が漂っている。
私は立ち上がり一礼し、裁判長に向き直った。
「裁判長、そしてこの法廷にお集まりの皆さま。本件について、被告人須田優司が罪を犯したこと自体について争うものではありません。しかしその背景や彼の生育環境を無視して、この事件を単純に『残虐で冷酷な行為』と断じることはできないと考えます」
私は少し間を置き、言葉を選びながら続けた。
「須田さんは幼少期から、母親による虐待を受けて育ちました。その影響で彼は常に他者の顔色を伺い、自分の感情を押し殺して生きてきたのです。叔母である須田紗季さんが彼を引き取った時期だけが、彼にとって唯一心安らぐ時間だったと言えるでしょう。しかしその叔母も震災で亡くなり、再び母親との生活を余儀なくされました。このような過酷な環境の中で須田さんは『笑顔』という仮面を身につけ、自分自身を守ろうとしていたのです」
私は裁判長の目を見据えながら、さらに言葉を重ねた。
「確かに本件では二名もの尊い命が失われました、その重みは決して軽視されるべきではありません。しかし須田さんが犯行に至った背景には、長年の精神的な抑圧と孤独が存在していました。彼は突発的に暴力へと走ってしまったのです」
法廷内の静寂がさらに深まる中、私は証人たちの証言に触れた。
「証人として出廷した青木医師も述べていたように、須田さんにはPTSDや解離性障害の兆候が見られました。これらは幼少期からの虐待やトラウマによるものです。またバイト先の同僚である府内さんや元担任の里村先生も証言していたように、須田さんは周囲から『優しく思いやりのある人物』として評価されていました。彼が他者を守ろうとする姿勢は一貫しており、それが今回の事件と結びつくまでには複雑な経緯があったことをご理解いただきたいと思います」
私は一呼吸置き、声に力を込めた。
「検察官は、本件犯行後も須田さんが冷静沈着であったことを指摘しました。しかしそれは、彼がこれまで身につけてきた『仮面』そのものです。彼は自分自身すら制御できない状態でありながら、その仮面を崩すことなく振る舞おうとしていたに過ぎません。これを冷酷さと断じることは早計です」
最後に私は裁判長へ向けて頭を下げた。
「須田さんには更生の可能性があります。彼自身も自ら一一〇番通報し、自首するという形で責任を取ろうとしました。その行動には、自分自身と向き合おうとする意志が感じられます。本件では被害者遺族のお気持ちにも十分配慮しつつも、被告人が再び社会で生き直す機会を与えるべきだと考えます。どうか極刑ではなく、更生への道筋となる判決をご検討いただけますようお願い申し上げます」
どうか、どうか。
私は深く頭を下げ、席へ戻る。
この場で私にできることは全てやり切った――そう自分に言い聞かせながら、私は静かに息を整えた。
私は自分の言葉が須田さんに届くことを心から願っていた。
最後に須田さんに最終陳述の機会が与えられた。
彼はゆっくりと立ち上がり、法廷を見回した。
そして、
「特にありません」
と短く答えるだけだった。
その表情は終始変わらぬ微笑みを浮かべていた。
実に、彼らしい。
そんな彼への親近感と、一抹の寂しさのようなものがふわりと胸を撫でた。
東雲裁判長は、
「では、判決言い渡しは一ヶ月後の十二月十八日午後二時からとします」
そう告げ、この日の審理を終えた。
判決言い渡しまでの1ヶ月間、私は須田さんとの面会を重ねた。
ある日の面会で、私は意を決して須田さんに問いかけた。
「須田さん。裁判でもあなたの人柄や優しい性格が明らかになりました、なぜあなたのような人がこのような事件を起こしてしまったのですか? やはりあなたの辛い過去が関係しているのですか?」
須田さんは相変わらずの笑顔で私を見つめてくる。
やはり答えてくれないのかと思った瞬間、須田さんが口を開いた。
「確かに私の生い立ちは、人と比べると不幸なものかもしれません」
須田さんは淡々と語り始めた。
「それでも私より不幸な人生を歩んできたのに、歯を食いしばって真面目に生きてきた人なんていくらでもいるんですよ」
その言葉に、私は思わず食い下がった。
「それなら尚更なぜこんなことを……」
須田さんは私の目をまっすぐ見つめ、静かに答えた。
「高津さん、人は本当に追い詰められると二種類に分かれるそうです。自分を殺すか、人を殺すか」
彼の声には不思議な静けさがあった。
「僕は人を殺す方だった、それだけです」
そう言って、須田さんは晴れやかに微笑んだ。
「そしてもうすぐ正しく裁かれるのです、それで終わりです」
違う、そうじゃない。
そんなはずはないと私の直感が叫んでいる。
「何も終わりませんよ」
須田さんの言葉に、私は強く反論せずにはいられなかった。
「裁判の後、賭けに負けたあなたから全てを聞くのを楽しみにしています」
言いながら、思わず目頭に浮かんだ涙を拭った。
やはり私は変わらない、無力なままだと思い知る。
でもだからこそ、挑発的に応じたのだ。
須田さんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「……僕も楽しみですよ」
と須田さんは返した。
須田さんは相変わらず寡黙だ。
私の話に耳を傾け、時折穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
私は粘り強く須田さんと向き合い、時間を共にした。
彼の心の内を、少しでも理解したかった。
一方白浜検事は判決に備えて資料を整理し、万が一の控訴に向けた準備を進めているらしい。
私は彼女の動きを注視していた。
メディアは連日のように須田裁判の特集を組み、専門家たちがさまざまな予想を立てていた。
傍聴券を求める人々の列は裁判所の外まで伸び、社会の注目は頂点に達していた。
私はこの裁判の重圧をひしひしと感じていた。
そして、運命の日が訪れた。
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