第十六章

価値ある真実

胸元の弁護士バッジに指先で触れる。


頭がうまく働かない。


思考には濃い霧がかかり、感情の回路は焼き切れたように麻痺している。


私は霊安室の硬いパイプ椅子に腰掛け、虚ろな目で前を見つめていた。


視線の先には、白い布に覆われた須田優司さんの遺体がある。


十河警視が部屋を出て行ってから、部屋には重苦しい静寂だけが残された。


地下室特有の湿った冷気が、足元から這い上がってくる。


​「あ……」


乾いた唇から、意味のない音が漏れた。


私は鞄から、先ほど十河警視から渡された茶封筒を取り出した。


『真実の話なんです』


彼の言葉が耳に残っている。


私は須田さんに語りかけるように、独り言を漏らした。


「真実の話、なんですって……」


封筒の封を切り、中身を取り出す。


それは、皆原誠の司法解剖の結果だった。


しかし。


そこに記されている内容は、法廷に証拠として提出されたものとは明らかに異なっていた。


私は目を疑い、何度も見返した。


『死因:頸動脈切断による出血性ショック死』


さらに顔や胸部の無数の刺し傷については『生活反応なし』、つまり死後につけられたもの。


ここまでは同じだ。


だが致命傷の詳細な所見に、衝撃的な一文があった。


『創口付近に複数条の浅い切創、躊躇い傷を認める』


躊躇い傷。


「……躊躇い傷?」


声が震えた。


「皆原誠は……自殺していた?」


書類を持つ手が激しく震え、紙がガサガサと音を立てた。


皆原誠は殺されたのではない。自ら命を絶ったのだ。


そして須田さんはその遺体を損壊し、自分が殺したかのように偽装した……?


「須田さん、これなんですか?」


私は弾かれたように立ち上がり、ストレッチャーの上の彼に問いかけた。


当然、返事はない。


それでも、問い続けずにはいられなかった。


「これ、本当なんですか!?」


書類を握りしめ、彼に詰め寄る。


「皆原誠は……自殺していた? いや、もしかすると久留島秀一も……?」


封筒の中には他に書類はない。


久留島についての真実はわからない。


だが前提が崩れた今、全ての『事実』が疑わしく見えてくる。


ふと、里村先生の言葉が脳裏を掠めた。


『最後にもう一度質問させてください。高津さんは本当にあの子があのような恐ろしいことをしたとお考えですか? 須田君は人の命の大切さを知る優しい子です。私にはとても信じられないのです』


あの日、私は答えられなかった。


だが、彼女の直感は正しかったのかもしれない。


私は須田さんの何を見て、何を信じていたのだろう。


「ねぇ、須田さん! 答えてくださいよ! 須田さん! 須田さん!」


私の声は悲鳴に変わり、叫びとなっていた。


「起きて! 説明してくださいよ!」


理性が崩壊する。


「落ち着いてください! 困ります!」


騒ぎを聞きつけた警備員たちが駆けつけ、私を羽交い締めにする。


「離せ! 聞かなきゃいけないんだ! 須田さん!」


私は暴れた。


子供のように、なりふり構わず叫び続けた。


そんな狂乱の中で須田さんだけが静かに、安らかに微笑んだまま佇んでいた。


​……。


……なんだろうか。


足が重い。


病院を閉め出された私は、疲労困憊で自宅のドアを開けた。


酒を飲んだわけでも無いのに、帰ってくるまでの記憶はほぼ無い。


意識を手放していても家にはちゃんと帰れるし、落ち込んでいても喉は渇くし腹も減る。


「あーあ……生きちゃってるなぁ」


小さなアパートの部屋に入ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に半分ほど飲んだ。


少し零しながら飲んだビールは、味もよく分からない。


ただ冷たい液体が喉を通るだけだった。


零れたビールがワイシャツに黄色いシミを作っていった。




更にビールを呷って残りを飲み干す、結構酔いが回ってきた。


冷蔵庫から新しいビールを取り出した俺の目は、机の上に置かれた一枚の新聞記事の切り抜きに釘付けになった。


『横領で起訴の元会社員、執行猶予付き判決』


その見出しが、心を締め付ける。


五年前。


俺がまだ大手法律事務所のアソシエイト弁護士だった頃の、悪夢。


​当時の俺は若く、組織の論理に抗えなかった。


依頼人は、無実を訴えていた。


『私はやっていません!』


必死の訴え。


しかし、事務所の方針は違った。


『証拠は揃っている、無罪を主張しても無駄だ。有罪を認めて情状酌量を求める、それが一番軽い刑で済む方法だ』


上司の言葉は絶対だった。


俺は葛藤しながらも、依頼人を説得した。


結果は事務所の読み通り、執行猶予付きの判決。


『勝訴』に近い結果だと、事務所は満足げだった。


しかしそれは、依頼人の人生を壊すには充分な判決だった。


あぁ、そんな事は端からわかりきっていた。


判決から二年後。


執行猶予期間が終わった頃、俺はふと気になって彼のアパートを訪ねた。


社会復帰できただろうか。


元気でやっているだろうか。


そんな軽い気持ちだった。


ノックをしても反応はなく、ドアは開いていた。


「お邪魔します……」


静まり返った部屋。


明らかな不法侵入だが、思わず足が動いてしまった。


奥の部屋のドアを開けた瞬間、俺の時間は凍りついた。


ふと、目の前でネイビーのスラックスが揺れる。


俺はゆっくりと視線を上に向ける。


それは、天井からぶら下がる依頼人だった。


足元の床には、紙切れが一枚。


『無実だ』


震える文字で、それだけが書き殴られていた。


俺は吐き気を覚えながら、その場に崩れ落ちた。


​翌日、俺は震える手で上司のオフィスのドアを叩いた。


「入れ」


冷たい声。


俺は昨日見た光景を報告した。


言葉を探し、我ながら辿々しく伝える。


「二年前の横領事件の依頼人が……自殺したんです、無実だったって……」


上司は冷ややかな目で俺を見た。


「で? それがどうした? 我々は依頼された仕事をこなしただけだ、勝訴したあとのことまで気にしだしたらこの仕事は身が持たないぞ」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが切れた。


「冗談じゃない!」


叫びながら、目の前の机をひっくり返した。


「人が死んだんだぞ! 俺たちのせいで!」


怒りに任せて暴れ続けた。


書類を床に投げ散らし、椅子を蹴り飛ばす。


誰も俺を止められなかった。


セキュリティが到着し、取り押さえられるまでにオフィスは完全に荒れていた。


その日のうちに、即刻解雇された。


懲戒委員会による六ヶ月の業務停止処分。


処分期間が終了した後も、大手事務所の影響力は恐ろしいほど大きく他の事務所も俺を敬遠した。


新規の依頼はほとんど来なくなり、わずかに残っていた顧客も次々と離れていった。


『もう二度と依頼人を死なせるようなことはしない』


あの日、そう誓ったはずだった。


​「……それが、このザマだ」


俺は空になったビールの缶を握りつぶした。


結局、俺は何も学んでいなかった。


また同じ過ちを繰り返したのだ。


いや、今回はもっと酷い。


思わず失笑する。


冷蔵庫にはもうビールはない。


深いため息をついて、スーツのままベッドに寝転ぶ。


何もする気が起きない。


ただ天井の染みを見つめていた。


ガチャリ。


玄関のドアが、遠慮なく開けられる音がした。


「いるー?」


無遠慮な声。


久美子だ。


黙っていたが、彼女は当たり前のようにズカズカと侵入してくる。


「うわっ、めんどくさ!」


ベッドに転がる俺を見て、久美子が声を上げた。


顔が赤いのを見て、酔っていると察したのだろう。


「俺がどうしようと勝手だろ……ほっとけよ」


「げ! 口調まで戻ってるし、更生したんじゃないの!?」


彼女は吐き捨てると、部屋の中を見渡した。


そして目ざとく例の茶封筒――十河警視から受け取った司法解剖の結果――を見つけ、勝手に中身を取り出した。


「ああ、あんたも見たんだ」


彼女の声のトーンが変わる。


「こんな事してまで勝とうだなんて……本当にクソだわ」


彼女は吐き捨てるように言った。


俺は体を起こした。


「お前……知ってたのか!?」


「……」


「何で黙ってた!?」


憤る俺に、彼女は平然と言い放った。


「言ったら、何か変わった?」


その言葉に、俺は言葉を詰まらせた。


変わった、だろうか?


「……わかんねぇだろ」


悔し紛れに返すのが精一杯だった。


久美子は少し意外そうな顔をしたが、すぐにため息をついた。


「じゃあ、一つ教えてあげるね」


「あ?」


「私さ、例のDNA鑑定を疑ってたの。どう考えても時期が少しずれるから」


「須田さんと五十島さんの?」


「そう、それでずっと調べてた」


「ずっと?」


「親子関係が無いって結果が出ても何度も」


彼女の執念深さに、俺は呆れた。


「おみくじで大吉出るまでやる、じゃねぇんだから」


「うっさいわね……まぁとりあえずその結果」


彼女はそう言って、自分のバッグから別の茶封筒を差し出してきた。


俺はドキドキしながら確認する。


「……鑑定不能?」


意味がわからず、顔を上げる。


「そ、理由見て」


備考欄に、小さな文字で記されていた。


『染色体キメラの可能性あり』


「染色体……キメラ?」


聞き慣れない単語だ。


「ざっくり言うと、DNA鑑定で親子関係を証明しにくい体質なんだって」


久美子は淡々と続けた。


「青木先生がこの結果を見つけて、私に教えてくれたの。本当に嬉しかった、だって沙良さんは悪くない可能性が出てきたんだから」


​「青木先生? あの証人尋問の……」


「そう、あの青木先生。彼が優司のDNA検査をして、染色体キメラだってわかったんだ」


「えっ、じゃああの時の証言で……」


点と点が繋がる。


あの法廷での青木医師の慎重な物言いと、須田さんの動揺。


納得すると同時に、一抹の寂しさが胸を撫でる。


「お前……俺に話してない話、多すぎないか?」


俺は一応依頼人な訳だから、それくらいは主張させて欲しい。


「黙ってても何でも話してもらえると思うなんて、烏滸がましいわよ」


久美子はふんと鼻を鳴らした。


「この結果を見つけて、本当に嬉しかった。だって沙良さんは悪くない可能性が出てきたんだから」


彼女の声が、少し湿り気を帯びる。


俺は嫌な予感がしてきた。


「……誰かに、聞いてほしかったの」


久美子が淡々と告げる。


俺はハッとした。


久美子はこの事件の当事者たちの近くにいながら、誰にも真実を話せなかったのだ。


沙良さんも紗季さんも亡くなり、優司さんも逝ってしまった。


彼女は一人で、この重い真実を抱えていたのか?


抱えて居られたと言うのか?


俺は、嫌な予感がした。


「……もう、それ以上は話さなくていい」


俺は彼女を制した。


久美子にはこの事件の関係者6人との繋がりがあった。


須田沙良・紗季・優司・皆原誠・青木誠一・そして俺。


この話はそもそも青木先生により発覚した。


須田沙良・紗季の姉妹は亡くなり、久美子は須田さんとは話していないと言っていた。


俺ももちろん聞いていない。


「でも!」


久美子は納得していない。


自分がこの事を話してしまった結果、事件が起こったことを理解していて自分を責めているのだ。


胸を貸して、目一杯泣かせてやりたい衝動に駆られる。


俺はわざと、馬鹿にしたように囁いた。


「なんだ? 可愛い顔してるな、俺の胸に飛び込んできてもいいんだぞ?」


久美子の泣き顔は、好きじゃない。


だから、茶化した。


「……は?」


久美子の顔が引きつる。


あ、ちょっとやり過ぎたか?


バチンッ!


「……いっ!」


乾いた音が部屋に響き、俺の頬に激痛が走った。


「……馬鹿!」


久美子は真っ赤な顔で俺を睨みつけ、肩を怒らせて部屋を出て行った。


「あー……いってー……」


頬をさすりながら、俺は苦笑した。


少しは、元気出たかな?


​静かになった部屋で俺は、ベッドに腰掛け天井に目を遣る。


……。


……。


……。


あ、眠ってしまっていたらしい。


微睡みの中で、ぼぅっと考え込む。


もし。


もし五十島さんと須田さんが実の親子だったと言うのなら、この事件は本当に何だったのか。


目を閉じると、須田さんとの初対面の場面が蘇ってきた。


留置所の面会室。


アクリル板の向こうで、穏やかな笑顔を浮かべていた彼。


『須田さん、私があなたの弁護人の高津です』


『よろしくお願いします』


須田さんの声は静かだった。


『事件について教えてください』


真剣な表情で尋ねた私に、須田さんはゆっくりと頷いた。


『僕は罪を犯したことを認めます』


しかし、それ以上の言葉は続かなかった。


動機や犯行の詳細を聞き出そうとしたが、須田さんは微笑むだけで何も語らなかった。


『須田さん、どうか私を信じて真実を話してください』


私の言葉を聞いて、須田さんは更に深く微笑んだのだった。


『その真実とやらに、どれほどの価値があると言うのですか?』


須田さんのその言葉が、今でも耳に残っている。


皆原の自殺、染色体キメラ。


真実を知っていた彼は、どんな思いであの質問を口にしたのだろうか。


「……価値、か」


呟きは闇に消え、私は深い眠りの底へと落ちていった。

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