そう考えて、僕は家を出て大学に向かったのだ。

 真理愛は朝になっても帰ってこなかった。いくつかメッセージを送ったけど既読にもならない。

 ダンジョンに潜っているのだろうか? でもそれならそうと真理愛なら伝えてくれると思う。


 じゃあダンジョン以外? どこに? なんてことは僕にはわからない。最近帰りが遅いことと関係があるのだろうか。

 帰れないって連絡があったから、何かに巻き込まれたとか、そういうことじゃないと思う。いや処理できないくらいしんどい仕事みたいなのを任されたとか、そういう意味での巻き込まれはあるかもしれないけど。


 ……まさか浮気? なんて一瞬思ったけど、まあ違うと思う。帰りが遅くなる日はあっても必ず僕に伝えてくれるし、本当に浮気をしてるとかだったら帰りが遅くなる理由を聞いた時に適当な嘘を吐くと思うし。

 真理愛は教えてくれないだけで、別に嘘を吐いて煙に巻こうとしてるわけじゃない。それに真理愛の性格からして、浮気をするくらいならさっさと僕と別れてると思う。


『今はそうかもしれません。でも先の未来はわかりませんから』


 ふいに加賀美さんの言葉が思い起こされた。

 いや……まさか。


『私に、他に好きな人ができたって言ったら、君はどう思う?』


 ギリッ……と歯が軋む音が聞こえて、そこで初めて自分が結構な力で歯を食いしばっていたことに気付いた。

 意識してゆっくりと顎から力を抜いていく。完全に力を抜いたところで軽く息を吐いた。


 ……はぁ。

 考えてもわからない。


 心配ではあるけど、僕が心配したところで何かが変わるわけじゃない。

 真理愛は僕なんかよりよっぽど強いんだから大丈夫だ。もし仮にダンジョンにいるなら兄さんも一緒だろうし、滅多なことで何かが起きるわけでもないはずだ。


 とりあえず大学に行こう。

 真理愛なら帰ってくる前に連絡くらいくれるはずだ。


 そう考えて、僕は家を出て大学に向かったのだ。






 がやがやと騒がしいお昼時の食堂。大勢の学生が持参したお弁当を並べたり、カウンターで注文した定食を運んだり。

 いつもと変わらないお昼休みの光景だ。


「今日は午前中で終わりですか?」

「そうだね。加賀美さんは?」

「私は四限にもう一つだけ。今日はそれで終わりです」


 大学に来ていた僕は、お昼休みに偶然顔を合わせた加賀美さんと一緒に昼食をとっていた。食堂の隅で向かい合わせに座って、それぞれの昼食を目の前に置いている。

 加賀美さんとはゼミが一緒なだけで普段の講義とかは被ったり被らなかったりだから、こうして昼食を一緒にとることは珍しかった。


「それで? 真理愛さんが昨日から帰ってきていないと?」

「うん。昨日の晩に『今日は帰れない』って連絡があって、それっきり。こっちからメッセージを送っても既読にならないし。真理愛なら何があっても大丈夫だとは思ってるけど、それでも心配なものは心配なんだ」

「なんなんでしょうね? ダンジョン探索に手こずっているとかですかね?」


  真理愛は緊急連絡先に実家と僕の連絡先を指定しているから、本当に真理愛に何かあったときは僕に何かしらの連絡があるはずだ。そういうのがないということは、まあ無事ではあるんだろう。

 少なくとも緊急事態にはなっていない。じゃなければ「心配だ」と口にしながら大学に来るなんてことはしない。僕はそこまで薄情になったつもりはない。


「お兄さんには聞いてみたんですか?」

「あ……忘れてた。ていうか頭に思い浮かんでなかった」


 加賀美さんに言われてハッとする。

 確かにダンジョン探索なら兄と真理愛は一緒にいるはずだった。普段兄に連絡することなんてないし、真理愛はいつも必ず帰ってきてくれたから、兄に連絡して真理愛の居場所を聞くなんて思考が全くなかった。


「ふふ……自分で思ってるよりも焦ってるんじゃないですか?」

「そうかな……いや、そうかもしれない。ありがとう、加賀美さん。兄さんに連絡してみる」


 スマホを取り出してロックを解除する。

 兄に連絡を取るのは久しぶりだけど、特に気負うようなことはない。僕と兄の出来の違いを除けば、僕と兄は別に仲が良いわけでも悪いわけでもない普通の兄弟だ。


 メッセージアプリを立ち上げて、兄の連絡先を開こうとしたところで目の前に座っている加賀美さんが「あっ」と声を漏らした。

 その声を聞いて僕はスマホに向けていた目線を加賀美さんに向ける。加賀美さんは驚いた表情で僕の後ろの方を見ているみたいだった。


 加賀美さんの視線の先を辿るように振り返る。

 ざわざわと人が行きかっていたはずの食堂が、その視線の通り道だけ時が止まったかのように静まり返っていた。


 そうして動きが止まった人たちの向こう側には――昨日家を出ていった時と同じ服装のままの真理愛が立っていた。

 僕から見て真理愛が立っているところは逆光で、真理愛の顔を細かいところまで見ることができない。それでも雰囲気で真理愛が疲れたような、焦ったような、そんな顔をしているのがわかった。


「真理愛……?」


 兄とパーティを組んでから真理愛が大学に来ることはほとんどなかった。探索者の仕事が忙しかったから大学を休学していたし、そもそも大学に来るような時間も取れなかったから。

 だから、真理愛が大学に姿を現すのは実に数ヶ月――下手したら一年ぶりくらいで、その間に真理愛は大学内外でとても有名な存在になっていたから、食堂のその静けさは真理愛がそこに立っていることが原因なのはすぐに分かった。


 どうして真理愛が大学に来ているのかはさっぱりわからない。でも連絡も返さなかった真理愛がこうして無事に立っていることに安堵を覚えた自分もいて。

 僕は真理愛を呼ぼうと片手を上げかけた――その瞬間。


「――帰ろ」

「うわ、びっくりした」


 いつの間にか真理愛が目の前にいて、上げかけた僕の腕を掴んでいた。

 そのままグイっと引っ張られて椅子から立ち上がらせられる。


「真理愛? どうしたの?」


 今までにない真理愛の態度に僕の口から疑問の声が漏れる。

 どうして連絡を返してくれなかったのかとか、聞きたいことは他にあったんだけど。


「帰って、君の作った料理が食べたい」

「それはいいけど……」

「昨日の夜から何も食べてないの。だから早く帰ろ」


 ぐいぐいと僕を引っ張る真理愛。本当なら僕なんて力ずくで引っ張っていけるんだろうけど、そうしない辺りが真理愛の優しさで。

 僕は加賀美さんに「ごめん。そういうことだから」と告げて、真理愛と一緒に歩き始めた。


 移動する直前、真理愛が加賀美さんに視線を向けていたような気がするけど……。

 一瞬のことで、それが本当にあったかどうかは僕にはわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る