第8話:キスしてはいけない
ワタシの友人――カズキが、ストッキング越しにワタシの脚をそっと撫でていた。
もう朝の通勤ラッシュは終わったのか、車内は閑散としていて、先ほどまで斜め前にいたサラリーマンの姿もない。
この車両にいるのは、ワタシと彼だけ。
(……こんなこと、許されるわけがないのに)
そう思うのに、身体は拒絶の言葉を選べない。
キュロットスカートの裾をかすめていく指先。ぞくりとした感覚が太ももを這い上がり、喉奥に熱を残す。
「ユウナって、ほんと、可愛い脚してるよね」
そんな言葉、聞きたくなかった。
でも言われた瞬間、心のどこかが柔らかくなった。
褒められることに慣れているはずなのに、今だけは違う。
それが“カズキ”の言葉だから、胸がぎゅっと締め付けられた。
「ん……ちょっと、やめ……」
言葉は途中でかき消える。
彼のもう片方の手が、カーディガンの裾から中へと滑り込んできたのだ。
胸の谷間を撫でられ、ワタシは反射的に息を呑む。
けれど、振り払えない。抵抗という選択肢が、遠い。
目の前の“彼”が、いつのまにか「そうすることが当たり前」な存在になっていた。
耳元でささやく声が、甘く絡みつく。
「ねえ、キスしていい?」
唇が近づく。
「キスしようよ?」
どこか懐かしい声色。
けれど今のワタシたちは、恋人同士なのか、友人同士なのか、それさえも分からなかった。
「ホントはキスしたいんでしょ?」
「キスするの、嫌い?」
(やめて……そんなこと、言わないで……)
なのに、心は言葉の洪水に溺れていく。
「キス」という単語が、だんだん頭の中を支配していく。
(だめだって、こんなの、だめ……)
でも、顔が自然と上を向いた。
視線が絡まった。
距離が、ゼロになる。
キス寸前――
「――お客様?」
その瞬間、車掌の制服を着た女が、静かにドアの隙間から現れた。
「……!」
一瞬で、空気が冷える。
カズキの手が、私の体から離れた。
誰もいなかったはずの車両に、女が立っている。
赤いスカーフ、つややかな黒髪、完璧なアイライン。
「……あら。お二人とも、とても仲が良いのですね」
淡々としたその言葉。
なのに、どこか底知れぬ悪意が滲んでいた。
車掌帽の下から、じっと私を見つめる視線。
視線の奥にあるのは、観察でも警告でもない。
それはまるで、“評価”するような目だった。
一瞬だけ目が合う。
すると、脳が、震えた。
名前も知らないはずなのに、彼女の“存在”だけが、記憶の奥底で暴れた。
(誰……?)
何かを思い出しそうになるのに、そこへ到達する直前で、思考がすり抜ける。
忘れてはいけないことが、どうしても思い出せない。
彼女は車掌らしく、チケット確認をするような仕草をした。
けれど誰の切符も求めることなく、そのまま奥の車両へと姿を消していく。
(今の……誰?)
彼女が消えると、再び車内に静寂が戻った。
そしてその静寂の中で、私は――もう、我慢できなくなっていた。
カズキが、小さく呟いた。
「……ねぇ、さっきの……」
その視線に対して、もう拒絶の意志は浮かばなかった。
「……してもいい?」
ワタシの方から、言葉がこぼれていた。
キスしていいか、なんて。
聞くまでもない問い。
唇が重なった。
静かな、でも確かに“本物の”キスだった。
電車の窓ガラスに映る、自分の姿。
その顔が、赤く火照っていて、どこか……他人のようだった。
(……何かが、失われた)
その感覚だけが、胸の奥にじんわりと残った。
◆
遠く、連結部の隙間からこちらを覗く“車掌”がいた。
彼女は、不気味な笑みを浮かべていた。
「提案、成立――かしら」
車内アナウンスが鳴った。
到着を告げる、優しい声。
でもその声の中には、どこかしら狂気の余韻が残っていた。
(つづく)
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