第6話:仕組まれた提案

午前五時一八分。

中央線、郊外へ向かう上り始発のプラットフォーム。

湿ったアスファルトの匂いと、眠気に滲んだ白い照明が、空間をぼやかしていた。


黒いフードを目深にかぶった俺は、無言で列に並んでいた。

喉の奥に、何か重たい鍵でもかけられているような違和感がある。

足元には、"立ち上がってはいけない提案"の余韻が、まだこびりついていた。


だが、それよりも──

昨日の“眠り”が残した感触。

思考に霞がかるような、背筋の凍るような違和感が、いまだ脳裏を離れなかった。


電車が滑り込んできた。

俺は習慣のように乗り込み、指定されたようにいつもの座席に腰を下ろす。


「おはよう、ユウダイ」


来た。

また、闇野ナナカ。


今日もベージュのコートをきっちりと着込み、髪は無造作に下ろしたまま。

表情は穏やかで、声にとげはない。


だが、俺は神経を尖らせていた。

少しでも隙を見せれば、すぐに“提案”が飛んでくる。それが、もう本能に刷り込まれている。


「――今日も、来たんだな」

「ええ、あなたがちゃんと来てくれて、嬉しいわ」


ナナカはにっこり微笑むと、まっすぐ俺の目を見てきた。


「それじゃあ――今日の“提案”をするわ」


身体が自然と強張る。

喉が乾く。息が浅くなる。


「“あなたは次に目が醒めたとき、私の理想のオンナノコであり、私の忠実なシモベでなくてはならない”」

「――っ! 拒否する」


即答だった。


意味は分かっていた。

“理想のオンナノコ”になるというのは、見た目だけじゃない。

性格も、思考も、行動も、感情も……全部、ナナカに都合のいい“女”として塗り替えられるということ。


冗談じゃない。


「拒否するって言ってんだろ……!」


言えた。声も出た。喉も動いた。

まだ、拒否は通る。そう思った──そのとき。


まぶたが、急に重くなった。


(――え?)


電車の揺れが、やけに心地いい。

でも、これは自然な眠気じゃない。


これは……“眠らされている”。


(なんで……? 俺、眠気なんて……!)


思い出した。


――提案は累積する。

ナナカは毎日、細かい「条件づけ」を仕込んできた。


“目を閉じてしまえば”

“立ち上がれなければ”

“目を開け続けなければ”

“目を閉じ続けると眠らなければ”


それらが積み重なって、俺は今日、必ず眠るように誘導されていた。


その瞬間、ナナカの声が脳裏に溶け込んできた。


「そういえば、初日にわたし、言ったわよね?“次の駅に着くまでに万が一眠ってしまった場合、あなたは私がその日出した最後の提案を却下してはいけない”」


(――あれ、提案だったのか……!?)


思考が凍りつく。


眠ったら提案は拒否できない。

つまり、今日の“提案”は、もう──確定。


(や、やばい……俺……!)


意識が、深く沈む。

“理想のオンナノコ”という言葉だけが、脳裏に残って。



──黒。


そして、鏡の前。


そこにいたのは、見知らぬ少女。


だが、その瞳は見覚えがある。

……俺だ。俺の“はず”だった。


髪型は変わらない。でも、まつ毛は長くて、唇は艶っぽくて。

前を留めたクリーム色のカーディガンに、濃緑のキュロットスカート。タイツに包まれた脚。爪先には、控えめなピンクのネイル。


(な……なんだこれ……? 俺……?)


思考が霞む。


“わたしは、ナナカさまの、シモベ……”

“ナナカさまの命令は、絶対……”

“なにをすれば、褒めてもらえるのかな……”


言葉が、俺のものじゃない。

行動も、自分で決められない。


“ユウダイ”はもういない。


上書きされたのは、“ユウナ”。


「――ユウダイ? ううん、ユウナ、起きて?」


ナナカの声。

現実へ。


ぱちりと目を開けた瞬間、自分の体が、自分のものじゃないと気づいた。


スカートの感触。締めつけるウエスト。

胸の重み。まぶたに残る化粧の気配。


(うそだろ……俺、こんな格好……!?)


声が、出ない。

いや、喉は動く。意思もある。思考もある。

でも──


(喋っちゃ、いけない……)


「よく眠れたわね、ユウナ。今日も、いい子だったわ」


ナナカが、笑う。


違う。違うんだ。喋れないんじゃない。

……喋る必要が、ない。


ナナカがいる。

また、声を聞ける。

だから──黙ってなきゃ。


背筋が伸びる。

目をそらせない。

余計な音を立てて、彼女の声を邪魔しちゃいけない。


(――違う。これは、俺の意思じゃない……)


でももう遅い。

彼女の声を“待つ”ことが、最優先になっていた。


喋るなんて、必要ない。

“黙って、聞く”。それだけ。


彼女の言葉が、何より正しくて、価値のあるもの。

そう思わされてしまうほどに、甘く、静かな沈黙のなかで。


「また明日。最後の提案をしましょうね」


ナナカが立ち上がり、扉の前へ。

電車が減速し、駅が近づいてくる。


ユウナ──いや、俺は、ただ座っていた。


脚にまとわりつく濃緑のキュロットの裾を整え、前髪を撫で、両手を膝に揃える。


誰に言われたわけでもない。

でも、それが“当然の仕草”だった。


(――おかしい。これはおかしい、のに……)


違和感がかすかに残っていた。

でも、それを追う前に、意識はまた沈んでいった。



電車の揺れが、心地よかった。

音が遠ざかっていく。

まぶたの裏が、やわらかく光に包まれる。


(だめだ、こんな……こんなふうに……)


でも。

“わたし”は、もう抵抗しない。

する理由も、必要も、もうないのだから。


静かに、まぶたを閉じる。

深く、深く、眠っていく。


それはただの睡眠じゃない。

仕組まれた提案に従い、従順さを深めていくための、甘やかな反復の眠りだった。


やさしい声が、また夢のなかで響いてくる。


『アナタは、わたしの理想のオンナノコでなくてはならない――』


その言葉だけが、何度も、何度も、心に染みこんでいく。


わたしは、静かに息を吐いた。

そして、深く、深く、眠りについた。


(つづく)

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