番外編1-3:役目の終わり、そして自由へ
春の終わりを思わせる風が、校舎の隙間をすり抜けていく。
僕――アスマは静かにその風の向こうを見ていた。
廊下の窓から、セイとタカトの姿が見えたが、僕は声をかけることもなく、そのまま視線を外した。
――僕には、関係のないことだ。
いつもそう思っていた。
彼らの関係性も、秘密も、怒りも痛みも、全部、ただ記録するだけの立場だった。
(だけど……)
ポケットに、あの小さな手帳が入っているのを感じる。
「アスミ」が記録した、無機質で冷たい観察の言葉たち。
それらが、自分の意思を超えて綴られていたことを、アスマはもう知っていた。
(そろそろ……終わる気がする)
今日に限って、あの声は聞こえてこない。
脳内に響くテレパシーも、報告を促す冷たい指令も、今日はない。
「……いないんだな」
ぽつりとつぶやいた言葉は、誰にも届かない。
――だが、次の瞬間。
『アスミ、聞こえる? 最後の報告だけでいいの。タカトは、もうすぐ“限界”を迎える』
やはり来た。
頭がずきりと痛み、視界がわずかに歪む。
「やめろ……ボクは、もう……やりたくない」
言葉に出した“ボク”に、アスマ自身が驚く。
反射的に、人格が切り替わろうとしていた。
だが、その切り替えの波の中で、アスマは――抗った。
「報告なんて、もう……必要ないんだろ?」
『あなたが決めることではないの。あなたは観察者、記録係なのだから』
「違う……!」
拳を握る。制服の胸元をぎゅっと掴んだ。
「僕は“アスマ”だ。監視なんて、報告なんて、ずっと嫌だった……!」
瞼の裏に浮かぶのは、スカートの感触。少女として教室を歩いた感覚。誰にも気づかれず、それでも確実に“ボク”として存在していた記憶。
だが、それはもう、遠ざかっていく。
『そう……あなたは、よく役目を果たしてくれた。もう、監視は必要ない。私は、満足した』
「……え?」
耳の奥に響く声が、今度は――優しげだった。
命令でも、命令のふりをした甘さでもなく、ただ事実を告げるだけの声音。
『だから、もう“アスミ”になることもない。後催眠暗示は、今をもって解除する』
その瞬間、アスマの身体が軽くなった気がした。
胸の奥から何かがスッと抜けていく。
あれほど毎晩感じていた圧力が、苦しさが、すっと消える。
代わりに、涙が頬を伝った。
「……自由、か」
ようやく、自分を“選べる”場所に立った気がする。
誰にも言わなかったし、言えなかった。
けれど確かに、自分の中には“アスミ”がいた。
それを否定しないまま、“俺”として歩き出せる気がした。
◆
昼休み、アスマは誰もいない階段の踊り場で、静かに手帳を開いた。
中の文字を、ひとつひとつ――自分の意思で破り捨てていく。
(もう記録はいらない。“ボク”も、“僕”も、俺の中にいたことは……本当だった)
風が吹いた。
制服のネクタイが少し揺れる。
そのままアスマは、静かに階段を降りた。
誰にも見送られず、誰にも気づかれず。
でも確かに、彼は“自分”を取り戻していた。
それだけで、十分だった。
(おわり)
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