第7話:空白のノート

――朝の教室。

タカトは自分のノートを開いた瞬間、全身に寒気が走った。

ページはすべて、真っ白だった。


(――嘘だろ。昨日、確かに……)


数式も、メモも、授業中に取ったはずの記録も、なにもかも消えている。指でなぞっても、ペン跡すらない。まるで最初から、何も書かれていなかったように。


「なんで……」


隣の席では、セイが静かにこちらを見ていたが、目が合うとすぐに視線を逸らした。

その目の下には、赤黒い痣のようなものがうっすら残っていた。


(それ、……どうしたんだよ、セイ)


訊ねようとして、喉が詰まる。

まるで「訊ねる」という行為そのものが、自分に禁止されているようだった。



1時間目。


教科書の文字が視界の端でゆがみ、先生の声が遠く感じられる。

それでも、ノートに何かを書こうとした。だが、手が動かない。


(セイに……謝らないと)


――そう思った瞬間、心の奥で“何か”が動いた。


『それは必要ない。あの子は自分で勝手に傷ついてるだけ』


(――タカネ?)


声は、脳内に直接響いてくるようだった。

それなのに、どこか“自分の思考”のようにも思える。境界が曖昧になる。


『アナタが謝る理由なんて、ない。むしろ、もっと見せてあげましょう。“優しさ”がどれだけ無力かを』


黒板の方へ顔を向けたまま、口元だけが勝手に笑った。



――昼休み。

セイは人気のない図書室の奥、通信端末の前にいた。

手にしたカード型端末には、【MtM内部通信】と表示されている。


『セイ。状況報告を』

「――対象は依然、暗示の影響下にあると思います。でも、自覚が……あります。本人が“おかしい”と感じ始めてる」

『では、解除可能か?』

「――まだ。暗示が深すぎる。解除の“キーワード”を言おうとしても、口が止まってしまうはずです」


一拍の沈黙。


『ならば、“次の段階”に入る。監視レベルを引き上げる。こちらも動く』

「――まだ、回収は早すぎます。彼の中に、本人の意志が残っている」

『ナナカの影響は既に深刻だ。被害が出れば、強制措置に移行する』

「強制は逆効果です。前例があるはずでしょう? 暗示に“狂暴化トリガー”が埋め込まれていた件」

『――わかった。慎重にやれ。ただし、次に被害が出たら、即時回収だ』


セイは少しだけ目を伏せ、唇を噛んだ。


「――わかりました」


通話を切ると、ポケットの中で何かが震えた。

先ほど届いた、また一通のメッセージ。


【死ね、オカマ】


短く、残酷な言葉。そして、匿名の送り主。


(――またか)


机の上には、誰かがこっそり置いていったであろう紙切れもあった。

それにはこう書かれていた。


【次は顔に残るようにしてやる】


セイの手が震えた。だが、それでも彼は顔を上げ、教室へと戻っていった。



――放課後。

教室の窓際には、小さな血の跡が残っていた。

セイの机の中には、裁断されたプリントの切れ端、削がれた鉛筆、そして、細く裂かれた制服の袖。

タカトはその様子を見ても、驚きもしなかった。

むしろ、どこかで「知っていた」ような感覚すらある。


(――誰がやったんだ)


そう思ったとき――

頭の奥から、異様な快感がこみ上げてくる。


『ねぇ、ゾクゾクするでしょ。あの子がどんどん壊れていくのが』


(ちがう……そんなの、俺は……)


『でも、“嬉しかった”でしょ? あの子が怯えたとき。震えてたとき。泣きそうな顔をしたとき……アナタの中にある“本当の気持ち”が、喜んでた』


タカトは自分の喉を押さえた。


(ちがう、ちがう……言わなきゃ……『俺も、自分が怖い』って……言わなきゃ……)


けれど、その言葉だけは、どうしても喉から出てこなかった。

それを超えようとするたびに、全身に電流のような痛みが走り、舌が動かなくなる。


(――口が、動かない。誰かが、俺の中で、止めてる……)


タカトは机に突っ伏し、震えながら目を閉じた。


彼の内側で、タカネは笑っていた。


「だから言ったでしょ? “アナタ自身”が、私なのよ」



――夜。タカトの自宅。

玄関を開けると、母親の穏やかな声が出迎える。


「おかえりなさい、タカネちゃん」


その隣に立っていたのは――ナナカだった。

黒のワンピースに身を包んだ彼女は、優しい微笑を浮かべながら言った。


「ねぇ、今日も“あの子”に会ったの? セイくんは元気そうだった?」


タカト――いや、タカネは、無言でうなずく。

そしてソファに座った途端、ナナカの指先がすっと額に触れる。


「じゃあ、今日もちゃんと、暗示を整えておかなきゃね。“自分”を、守るために」


(――セイ)


その名を呼びかけたはずの心の声は、どこか遠くで、闇に飲まれていった。


(つづく)

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