呪願の代償
藍上央理
呪願の代償
序章
序章 1
雨がしとしとと降っている。
空を見上げると、灰色の曇天が視界いっぱいに広がっている。止まない雨はないと大人が言っているのを聞いたことがあるが、この雨はいつまでも止みそうにないと、傘もなく濡れそぼった
ランドセルがやけに重たい。中にある三年生用の教科書はビリビリに破かれている。クラスメイトの
このまま小学校に行けば、また教科書を破かれたり、あと数本しかない鉛筆の芯を折られたりするんだろうと思うと、胸が塞いできて泣きたくなってくる。
涼々の通う
父の
夕季も意地悪だ。母の
それでも毎日食べられるなら少しは我慢出来るけれど、最近は給食しか口にできないことが多くなった。
腹が鳴るが口に出来る物がなくて、空腹のあまり、涼々は天に向かって口を大きく開けると、口の中に落ちてくる雨を舐めた。
「お腹空いたなぁ」
小さく呟き、涼々は重たい足取りで小学校へ向かった。
『涼々ちゃん、人喰い婆の家に引っ越したって本当?』
一年前、小学二年生の時に、クラスメイトの愛菜に問われた。
『人喰い婆?』
数年前に夏生が事故で働けなくなって、これまで月乃が家計を支えていたが、それも難しくなり、町内で一番家賃が安い借家に引っ越したのだ。
『そう、赤ちゃんをたくさん殺して食べてた人喰い婆の家。おじいちゃんから聞いた。人喰い婆の幽霊が出るって言ってたよ』
涼々は、引っ越してきたばかりの薄暗い借家のことを思い浮かべる。家のあちこちに闇が蟠り、それが人の形をしているのは知っている。でも、全部気のせいだと見ないようにして、無視していた。あの黒い人の形をしたどれかが人喰い婆の幽霊なのだろうか。
途端に涼々は怖くなって、不安そうに眉を歪めた。
『あのね、今度、涼々ちゃんの家に遊びに行っていい? 人喰い婆が出るか見てみたい』
『え!』
涼々は愛菜の言葉に戸惑った。
家に来るのは構わない。けれど家には夏生がいる。夏生を怒らせたらとんでもないことになってしまうと、涼々は焦った。
『ダ、ダメ』
すると、愛菜が不機嫌そうな表情を浮かべた。
『じゃあ、いつなら遊びに行っていいの?』
夏生がいる限り、ダメなものはダメだった。涼々は無言で首を振った。
『そう』
愛菜がくるりと後ろを向き、仲良しグループの元へ戻っていった。涼々に聞こえないようにこそこそと何かを話しながら、愛菜達が涼々を見た。
涼々は居心地が悪くなって教室を出た。
多分、それがいじめの最初のきっかけになった。それ以来、涼々は愛菜達から無視されるようになったのだった。
濡れそぼった涼々が教室の引き戸を開けると、愛菜を囲んでクラスメイト達が、最近小学校中で噂になっている、『死ぬ電話』の話をしていた。
その電話に出ると、必ず死んでしまうらしい。まことしやかに囁かれているが、本当に年齢関係なく突然死する生徒が、ここ最近、箕形第一小学校でやたらと増えていた。
涼々が教室に入ってきたのを察知した子が口をつぐんで、隣の子の脇をこづいた。それが連鎖して、みんなが涼々に目をやり黙りこくった。
「なんか、臭くなーい?」
愛菜がわざとらしく大きな声で言った。
「なんか臭いね」
ざわざわと、クラスメイトが口にする。
臭いのは涼々のことだ。使用料金が払えず、ガスが止まり、シャンプーやリンスも買えなくて、水で体を洗うことが多い。そのせいで夏場は少し垢臭くなる。
涼々は唇を噛んで席に着く。机に、鉛筆の小さな文字で、「くさい」とたくさん書いてあった。黙って筆箱を出すと、小さくなった消しゴムで嫌な言葉の羅列を一所懸命に消した。
二年生の時は進級すれば、クラスはバラバラになるはず。三年生になったら、愛菜と別のクラスになれると思って、我慢出来た。でも、運が悪いことに愛菜と仲良しグループは、三年生になっても、涼々と同じクラスに振り分けられた。だから、涼々は愛菜から逃げようがなかった。
地味で執拗な虐めが、もう一年も続いている。最初は気丈に振る舞えたが、月乃が家を出て行ってからは、辛抱出来なくなってきていた。早く給食の時間が来て昼休みになってほしいと、涼々は目を固くつぶって祈った。
給食をかき込んで食器を下げると、涼々は走って運動場に出た。
朝から降っていた雨も今はやみ、梅雨のわずかな晴れ間に一年生達が泥だらけになるのも構わず、校庭に出てきた。
一気に運動場が騒がしくなる。
涼々は、運動場の隅にある濡れた遊具に腰掛けて、用心深く周囲を見回す。三年生は教室から出てきそうになかった。ほっとして、騒ぐ年下の子供達をのんびりと眺めた。
すると、二人の男の子がこちらに向かって走ってくる。追いかけっこでもしているのかと思って涼々は見ていた。
追われる背の高い一年生の男の子が、ガラスのラムネ瓶を握った腕を、天に向かって突き上げている。それを、追いかけてきた同い年くらいの体の小さな男の子が、つま先立ちになり腕を上げて、「返してよ」と泣いていた。
「学校にジュースを持ってくるほうが悪いんだろ。先生に言ってやろ」
「ジュースじゃないよ。返してよ!」
「ラムネはジュースじゃん。おまえんちインチキ除霊師だもんな。嘘つき!」
ラムネ瓶を持った男の子が、まだ中身が入っているか確かめるように、片目をラムネ瓶の飲み口に当てた。
「やめてよ」
小さな男の子は泣きながら、ラムネ瓶を取り返そうとした。それを、片手で振り払われる。
「ぎゃ」
突然、ラムネを覗いていた男の子が叫んだ。
小さな男の子が体をすくめる。
涼々は、ラムネ瓶を凝視したまま体が固まった。
ラムネ瓶の飲み口から、灰色に透けた無数の腕が沸いて出た。腕はむっちりとして短く、まるで赤ん坊の腕のようだった。芋虫のような指が手探りで男の子の顔を這い回る。見開いた目玉を押しのけて、ぎちぎちと分け入っていく。
鼻にも口にも、穴という穴に、赤ん坊の指と腕が無理やり押し広げるように侵入していく。
男の子の顔が、無数の灰色の赤ん坊の腕にすっかり覆われた。
男の子が立ったまま痙攣している。握っていたラムネ瓶が地面に落ちた。ずるりとラムネ瓶の飲み口から沸いて出た赤ん坊の腕が抜ける。灰色の腕は満開の花のように、男の子の頭部を包み込んで、ゆっくりと中に吸い込まれていった。
さっきまでラムネ瓶を返してと泣いていた男の子が、急いでラムネ瓶を拾うと、痙攣している子を尻目に走って逃げてしまった。
無数の灰色の赤ん坊の腕と指が男の子の中にずるずると入り込んでいく様子が、涼々の脳裏に焼き付いていた。それが一体何なのか分からない。涼々が初めて見るものだった。
怖いと言うよりも驚いた。
倒れた男の子に気付いた生徒が教師を呼ぶまで、涼々は声も出せず、立ち尽くしていた。
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