第10章:風鳴る迷宮、囁く岩と道標
風呼びの山の夜は、長く、そして寒かった。
仮眠をとっても、体の芯まで冷え切ったような感覚は抜けきらない。
空が白み始め、巨大な月がその青白い光を失いかける頃、あたしたちは再び歩き始めた。
山の中腹へと続く道は、道と呼べるようなものではなかった。
切り立った黒い岩壁を、手足を使ってよじ登っていく。
足場は
風は相変わらず強く、体を岩壁に押し付けていないと、吹き飛ばされそうになる。
「しっかり掴まれ! 足元をよく見ろ!」。
キオが、少し先で声をかけてくれる。 彼の動きは、こんな悪条件の中でも、驚くほど安定していた。
あたしは、必死に彼に食らいついていく。
敵が残した痕跡は、確かにこの上へと続いている。
どうやって、奴らはこんな場所を、あんなに早く登ったんだろう。
あたしたちとは違う、何か特別な移動手段でも持っているのかもしれない。
しばらく登り続けると、景色はさらに奇妙なものになっていった。 道は、まるで巨大な蟻の巣みたいに、いくつにも枝分かれし、複雑に入り組んでいく。
切り立った黒い岩壁が、空を狭い線のように切り取り、自分が今どこにいて、どっちへ向かっているのか、全くわからなくなる。
太陽の光も、ほとんど届かない。 薄暗い迷宮の中を、手探りで進んでいるような感覚だ。
そして、風の音が、ますます人の声のように聞こえ始めた。 それはもう、気のせいだとは思えなかった。
囁き声、すすり泣く声、時には、あたしの名前を呼ぶ、はっきりとした声まで聞こえる気がする。
『戻れ…』。
『ここは、お前のような穢れた者が来る場所ではない…』。
『力を持つ者よ… なぜ、目覚めようとしない…? もっと、深く…』。
『助けて… 苦しい…』。
様々な声が、四方八方から聞こえてきて、あたしの頭を混乱させる。
山自体が発している声?
それとも、この山に囚われているという、たくさんの魂の声? あるいは、あたし自身の心の声が、この場所に共鳴しているだけ…?
「…うるさいっ!」。
あたしは、思わず耳を塞いで叫んでいた。 声が多すぎる。 どれが本当で、どれが幻なのか、わからない。
「しっかりしろ!」。
キオの声が、あたしを現実に引き戻した。
「幻聴に惑わされるな。 自分の感覚を信じろ」。
自分の感覚…。 あたしは、左目に意識を集中させた。
ズキズキとした痛みの中に、微かな、けれど確かなエネルギーの流れを感じる。
敵の気配と、そして、もっと奥深くにある、何か温かいような、懐かしいような、微弱な光の気配。 あれは… 老女…?
「キオ、こっちだと思う」。
あたしは、左目が示す方向を指差した。
「こっちに、何か…」。
キオは、黙って頷いた。 彼は、あたしの左目の力が、ただの幻聴ではない何かを捉えていると、信じてくれているようだった。
その信頼が、混乱するあたしの心を、少しだけ落ち着かせてくれた。
あたしたちは、左目が示す方向へと、狭い岩の裂け目を進んでいった。 壁が、両側から迫ってくるようで、息苦しい。
どれくらい進んだだろうか。 不意に、視界が開けた。
そこは、円形の、闘技場のような広場だった。 周囲は切り立った崖に囲まれ、見 上げると、空が丸く切り取られている。
そして、広場の中央には、ひときわ大きな、卵のように滑らかな黒い岩が、まるで祭壇のように、どっしりと鎮座していた。
その岩の表面には、蜂の巣みたいに、無数の小さな穴が開いている。
風が、その穴を通り抜けるたびに、ヒュウウウ… コォォォ…と、まるで巨大な笛のような、高く、澄んだ、けれどどこまでも物悲しい音色を奏でていた。
風の囁きは、ここで一つの、終わることのない
そのあまりにも異様で、どこか神聖な光景に、あたしは一瞬、言葉を失った。
そして、視線を足元に落とした時。
あたしは、それを見つけた。
中央の大きな岩の、その根元。
黒い砂利と土埃の中に、半分埋もれるようにして、小さな、木彫りの鳥が落ちていた。
手に取ってみると、それは間違いなく、老女がいつも大切そうに、首から下げていた飾りだった。
木の表面は滑らかで、まだ、ほんのりと、彼女の温もりが残っているような気がした。
「老女は… ここにいたんだ!」。
あたしは、声を震わせながら言った。
「これを、あたしたちのために、残してくれたんだ…!」。
キオも、あたしの隣に来て、周囲を鋭く見回した。
「争った形跡はないな。 だが、誰かがここにいたのは確かだ。 この飾り… 間違いない。 彼女は、生きている」。
その時、あたしは気づいた。
中央の大きな、笛の音が鳴り響く岩の表面。 そこに、新しい傷のようなものが、引っ掻くようにして付けられていることに。
それは、文字…?
あたしは、息を詰めて、その傷跡を指でなぞった。
力を込めて刻んだのだろう、岩の表面は少しだけ
『…タ…スケ…』。
『…ヒトミ… チカラ… ネラワレ…』。
やっぱり! 老女が残してくれたメッセージだ! 彼女は生きている!
でも、どこかに捕らわれていて、助けを求めている。
そして、敵は、あたしの「瞳」の力を狙っている!
『キタゾ! ウシロダ!』。
突然、頭の中に、切迫した、あの無機質の声が、雷鳴のように響き渡った!
「キオ、後ろ!」。
あたしが叫ぶのと、キオが振り返って剣を構えるのは、ほぼ同時だった。
風の笛の音が、ピタリ、と止んだ。
そして、次の瞬間、広場の入り口――あたしたちが入ってきた、あの狭い谷間から、複数の影が、音もなく、滑るように現れた。
冷たい、金属の輝き。 無機質な動き。 先端が青白く光る、棒状の武器。
執行者…! その数は、五体。
彼らは、あたしたちを認識すると、一切のためらいなく、武器を構えた。
彼らの目的は、あたし。 あたしの左目と、そこに宿る力。 老女のメッセージは、そのことを警告していたのだ。
あたしは、キオと背中合わせになった。 心臓が、激しく高鳴る。
風鳴る山の広場。 笛の音が、再び、今度はまるで戦いの始まりを告げるかのように、鋭く、高く、鳴り響き始めた。
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