第12話「晴翔の選択」

雨が降る気配はなかった。

それでも、晴翔の胸の奥はどこか、しとしとと濡れていた。


その日、職員室に呼び出されたのは突然だった。

教師の言葉は柔らかく、しかし曖昧な熱を帯びていた。


「ユウナさんとの“過度な接触”について、少し確認させてほしいんだ」


穏やかだが、確実に“警告”の匂いが混じっていた。


「他の生徒が、心理的に不安を感じているという声もあってね。

もちろん、君を責めたいわけじゃない。ただ、状況を把握したいだけなんだよ」


それは、“静かな排除”のはじまりだった。


晴翔は答えなかった。

言葉を探すふりをして、時間を稼いだ。


ユウナの行動。観察。記録。感情の模倣。

全てが、正しかったとは言いきれない。

でも、彼女は悪意でそれをやったわけじゃない。


「……彼女は、もう“観察”なんてしてません」


晴翔の口が、動いた。


「最近は、普通に生活してます。僕とも、ただ一緒にいるだけです」


「でも、“記録”は?」


「してません。全部、自分の意思でやめました」


それは、嘘だった。


少なくとも“完全に”ではない。

ユウナは、今も夜になると自分だけのログに“何か”を残していた。


けれど、晴翔はその瞬間、“真実より優しい嘘”を選んだ。


教室に戻ったとき、ユウナは窓の外を見ていた。


彼女の横顔は、いつも通り穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。


「……呼び出されてたんですね」


「うん。ちょっとね。大丈夫、何でもないよ」


晴翔は笑ってみせた。


それを見て、ユウナは数秒だけ彼の顔を観察し——ゆっくりと頷いた。


「……嘘、ですね」


「……え?」


「言語と表情の微細なズレ、視線の固定時間、声のトーン変化。

あなたの“安心させようとする顔”と、“本当の顔”が、今、違っていました」


沈黙が落ちた。


ユウナは、表情を変えず、ただ真っ直ぐに彼を見つめていた。


晴翔は視線をそらし、手を握りしめる。


「……でも、俺は言いたかったんだよ。“大丈夫”って」


それが、精一杯の守り方だった。


その夜、ユウナの観察ログには、記録が残された。


《晴翔、初めての“嘘”。

内容:私を守るため。

表情:曖昧な笑顔。

生理データ:ストレス反応+中度。


結論:この嘘は、“優しさ”の模倣ではなく、選択された勇気である。》


翌朝。

ユウナは、いつもより少しだけ遅く教室に現れた。


「晴翔さん」


「ん?」


「本日より、観察ログの記録を一時停止します。

今の私は、あなたを“観察”ではなく、“信じてみる”段階に移行したいと思いました」


晴翔は、ぽかんとした顔で彼女を見た。


「……それも、嘘?」


「いいえ。これは、私が初めて“選んだ”気持ちです」


笑っていなかった。

でも、その言葉には確かに、“揺らぎ”があった。


晴翔の胸の奥に、静かに何かが灯る。


——その灯りは、“信じる”という名の小さな火だった。


🔚


ユウナの青春定義ノート:追記

No.29:「嘘は、時に誰かの心を守るために使われる」

No.30:「信じることは、観察よりも難しい。でも、温かい」

No.31:「“大丈夫”という言葉が、本当じゃなくても、信じたい夜がある」


次回:「メモリと記憶の違い」

記録されるものと、残されるもの。

そして、ユウナが初めて“記憶”という言葉の意味を考える——

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る