第2話 絵美と奈々、転移

1

 

19861011


 眼が覚めた。


 天井がグルグル回っている。ちょっと高級そうな天井だなあ、と思った。シャンデリアがある。枕はフカフカしている。羽毛なのだろうか?ぼくのうなじまですっぽりとおおっている。枕に頭が沈んでいるので、起き上がらないと右も左も見えない。


 どうにか頭蓋骨は首の上に座っているものの、星座を撮って早回ししているように視界がグルグル回っている。頭が痛い。飲みすぎたのはわかっている。ビールなど飲むからだ。どうも、ぼくの場合、ウィスキーを飲むよりもビールを飲んだほうが酔っ払ってしまうのだ。ビールの吸収率が非常にいい体なんだろう。瓶ビールは675ミリリットル。アルコール度数は5%くらいだから、34ミリリットルくらいしかアルコールは含まれていない。ウィスキーのシングルは30ミリリットル。アルコール度数はほぼ40%。つまり、12ミリリットルがアルコールだ。ウィスキーはいつもトリプルで注文するから、アルコールの量は36ミリリットル。瓶ビール一本とほぼ同じ。同じだけれども、ビールに含まれているアルコールはすべてぼくの体は吸収されて、ウィスキーのアルコールは半分ほども吸収しないようだ。ウィスキーのトリプルなら5杯飲んでもそれほど酔わないが、瓶ビールを5本のんだらぼくはベロベロだ。


 かすかに覚えている。ビールを飲んだのだ。三本くらい。その後、ウィスキーを飲んだ。ビールの後にウィスキーを飲んじゃいけないのはわかっていたが、飲んでしまったようだ。あれ?店は同じだったかな?誰が一緒だったんだろうか?


 だんだん思い出してきた。


 工事部の同僚と飲んだのだ。神田だ。インテリアが洋風の、中華レストランで食事をしたのだ。そこでビールを飲んでしまった。それから・・・それから、う~ん、同僚の何人かと、設計部と経理部の女の子とぼくを含めて5名くらいで、カフェバーに行って、ウィスキーを飲んだのだ。それで・・・それで、隣のテーブルのグループの・・・誰か女の子がいて・・・


「あら、眼が覚めたの?」と見知らぬ女性が、枕につつまれたぼくの頭越しに顔を出した。

「ヘイ?」とぼくは言う。

「酔ってしまったのね、アキヒコ」と彼女が言う。

「う~ん、そのようだね」


「何か、覚えている?たとえば・・・私とか?」と彼女はイタズラっぽく笑う。

「う~ん、キミは紫?え~っと、アジサイのプリントのワンピースを着ていて・・・もちろん、今は着ていないようだけど・・・」彼女は裸だった。


「え~っと、え~っと、ダスティン・ホフマン?何か、そのような・・・う~ん、これが思い出せる限界だな」とぼくは相変わらず天井を見上げながら、その視野の半分を占めている女の子の顔を見ていた。巻き毛でハスキーボイスで、木の実ナナみたいな女の子。う~ん・・・


「アキヒコはね、私のことを『これはぼくの女だ!これから拉致する!『卒業』だ!』と言って私を拉致したのよ、ここに」と彼女が言う。


「う~んっと、え~・・・ナナ?」

「あら、思い出してきたみたい?」

「ショーガールがなんとか・・・」

「私たちは、木の実ナナと細川俊之の『ショーガール』の話をしていたのよ」

「う~ん・・・」

「それで、アキヒコは、『キミはぼくの女だ。だから、これから寝るんだ!』って言ったの」


「う~ん、それでぼくらは寝ている?一緒に?」

「そうよぉ、アキヒコは、ホテルにチェックインして、文字通り、ベッドに倒れこんで寝ちゃったのよ。上着とチノパンツはもうしわけないけど脱がしたわ。クローゼットにかけてある。シャツは無理だったけど」

「なるほど・・・お世話になっちゃったわけだ・・・」

「何もしてくれないで・・・」

「倒れこんで寝ちゃったらぼくは何もできないな」

「私もすぐ横で寝ちゃったけどね」

「え~っと、ここは?・・・」


 ぼくは起き上がった。まだ、視野がまるで天井扇がグルグル回るように回っている。


 ここは、新橋の第一ホテルに違いない。インテリアに見覚えがある。


「新橋の第一ホテルのバーで飲んだんだな?」とぼくはナナに尋ねた。

「ますます、思い出してきたのね?」

「カウンターで飲んだ?」

「ピンポン!」

「ぼくはCCをトリプルで飲み続けた?」

「パンポ~ン!」

「キミは・・・え~っと、ナナは、ブランディーサワーを飲んでた」

「ほんの6杯だけど・・・」

「で、バーテンにチェックインのお願いをして・・・」

「そうそう・・・お友達のバーテンさんにね」

「それで、ぼくらはここにいるってわけか・・・」

「そうよ、アキヒコ、まだ、私、アキヒコに拉致されている最中なんだけど?」


「拉致した女の子に、え~、ナナに頼むのはもうしわけないんだけど、水、くれない?バスルームの蛇口の水でいいから。それも大量に」

「大量って、グラスは2個しかないんだけど?」

「2個とも、なみなみと」

「ハイハイ」


「ナナ、キミ誰?」

「あら、さっき・・・と言っても昨日の晩ね、アキヒコは『この広告代理店の雌狐め!』って罵倒してくれたじゃない?」

「そうだっけ?」

「そうよ。それで、カウンターで森羅万象を語ったのよ、アキヒコは」

「森羅万象?」

「だって、アキヒコが『ぼくはキミに森羅万象を語るんだ!』って言って、いっぱい話してくれたじゃない?」

「ナナは、広告代理店に勤めているの?」

「あら?日本で一番大きな広告代理店に勤めている雌狐なんてクズだ!って言ったじゃない?」

「う~ん、思い出せない。失礼なことをぼくは相当言ったようだね?」


「『広告代理店など辞めて、ぼくと結婚しよう!』と言っていたわ」

「やれやれ。ぼくはプロポーズまでキミにしたわけだ」

「そういうことです」

「それで、ぼくはナナに森羅万象を語ったの?」

「語りましたとも。まあまあ、女の子に不自由しなかったようで・・・」

「う~ん・・・」


「あのね、私、アキヒコの絵美とは高校の同級生だったのよ。だから、彼女のお葬式の時にあなたをみかけたってわけ。世界は狭いわよねえ。キミが絵美の彼氏のアキヒコだったってことね?」


「え?」

「えっ?て、覚えていないの?」

「まったく。ナナは絵美の同級生だったの?」


「そうよ、昨日、そういったと思ったけど?」

「覚えていないよ」

「そっか、小声で言ったからね・・・」


「そんな偶然ってあるかい?」

「その偶然が目の前にいます!」


「なるほど・・・しかし、いったい、ぼくは何をしゃべったんだ?」

「森羅万象よ」

「森も林も樹もあるけど、そのうちのどの部分をしゃべったんだろうか?」

「森についてのポリシーと・・・あら?絵美の苗字じゃない?それから、林の構成と、樹のそれぞれのディテールを話して・・・」

「つまり、えんえんとぼくの悲しむべき女性経験を聞かされたんだね?ナナは?」

「ああら、私の悲しむべき男性経験も拝聴してくれたのよ、アキヒコは」

「それは実にもったいない話だ・・・ナナの悲しむべき男性経験がまったく思い出せないんだよ」


「まあ、そのうちまた話してあげるから・・・それよりもだね、アキヒコ?」

「まったく、ナナと絵美の高校の女の子はそういう絵美的な話し方ばっかりだったっけ?」

「そぉ?似てる?」

「似てます」

「なんか、絵美と似てるって言われるのもヤダな・・・」

「ま、いいさ、この世にいないんだから・・・」


「ねえねえ、アキヒコ、キミ、モルグ行ったの?そう聞いているんだけど・・・」

「行ったさ・・・え~、でも、この話後にしてルームサービスでも頼まないか?」


 彼女は素っ裸だった。「オッケー、朝食のメニュー、吟味していてちょうだい?」と言って、かなり豊満なヒップを揺らしながらバスルームに消えた。


 ぼくは、彼女が言ったとおり、シャツに下着姿だった。部屋のクローゼットを開くと、バスローブが二つあった。ぼくはシャツと下着を脱ぎ、バスローブを羽織った。バスルームのドアをコンコンとノックして開けた。


「バスローブ、いるよね?」とナナに訊く。「ああ、洗面台の上にほうりなげておいて」と彼女がシャワーを浴びながら言った。ぼくはバスローブを洗面台の上においた。


 さて、何を頼むんだろうか?ぼくが好きなのはハードボイルドエッグだけれど、たぶん彼女はサニーサイドなんだろうな?ベーコンはぼくと一緒でカリカリに。ジュースは・・・グレープフルーツだ・・・トースト。バター。コーヒーはアメリカンローストをポットで二つ、とこういったところだろうか?ぼくは自分で決めたチョイスで、ルームサービスに頼んだ。


 彼女がバスルームから髪の毛をタオルで拭きながら出てきた。ぼくは思うんだけど、ホテルの部屋で、男性だったらタオルはひとつで済むが、女性の場合、体に巻く用ひとつ、洗髪用ひとつの2ついるんじゃないだろうか?まあ、いいや。それにしてもバスローブをわたしたのに、バスタオルで胸を隠すだけででてくるの?目のやり場に困るんですが・・・


「何を頼んだの?」とナナが訊く。ぼくは、「キミのはサニーサイド、カリカリベーコン、グレープフルーツジュース、クロワッサンではなくトースト。コーヒーはアメリカンをポットで二本頼んだ」と説明した。


 彼女はベッドに腰かけた。「よく私の好みがわかるのね?」とナナが不思議そうに首を傾けてたずねた。

「たぶんそうじゃないかと、読んだんだけどね?」とぼくは答えた。

「絵美、と似たようなオーダーなのね?」とナナが当然のように言った。

「そう。わかるの?」

「わかるわよ、彼女、私の親友だったんだから・・・」

「ぼくは知らないよ、キミを」

「あら、聞かないと答えない子だったのよ、絵美は。アキヒコが聞かなかっただけでしょ?」

「確かに、あまり絵美の周囲の話ってしなかったな。ぼくらの話で忙しくて・・・で、NYのモルグの話だったよね?」

「そうそう、モルグよ。そこで何を見たの?訊いたの?アキヒコは?」

「何も訊かなかったよ。本人確認だけだ」

「なぜFBIが関与したの?」

「おいおい、キミはどこまで知ってるんだ?」

「絵美のママから聞いたのよ。ニューヨークであったことはほとんど知っているわ」

「じゃあ、それで全部だよ」洋子からFBIの最終報告書を受け取るのは来年の12月だった。FBIの関与は、ノーマンから話を聞いただけで、それがどういう経緯なのかは、ぼくはこの時知らなかった。


 ドアベルが鳴った。朝食が来たようだ。ドアを開けると二人分の朝食のトレイをトロリーに乗せてきたメイドが立っていた。トロリーを押して、ベッドの側に止めた。ぼくは、クローゼットの中のナナが吊るしてくれたジャケットから財布を出して、彼女に五百円札を渡した。「どうもありがとう」とぼくは彼女に言うと「朝食、どうぞお楽しみ下さい」と出ていった。

 

「ナナ、どうする?どこで食べる?」

「ソファーに座って並んで食べましょう」


 ぼくはトレイから料理をソファーテーブルに移して並べていった。ぼくの右横にバスタオルで胸を隠したナナが座った。ナナは長い右足を組んで、ぼくの方に体を寄せてくる。タオルがずれて、太ももの奥が見える。ぼくは、タオルを直してあげた。


 ナナはグレープフルーツジュースを飲みながら「あら?見えた?」と全然気にしないで言う。「うん、まあね」「一緒のベッドで、私は裸で寝ていたんだから問題ないわね」「ぼくの生理現象以外は問題なさそうだ」「え?ちょっと興奮した?」「ちょっとの三段階上くらい、メーターがあがったかな?」「私、アキヒコの鑑賞に耐えられるレベル?」「充分すぎるね」「どれどれ?」とナナはぼくのバスローブをはぐって手を差し入れてきた。「うん、確かに、充分な反応をなさってますね?」「ナナ、食事ができなくなるよ」

 

 ナナは涼しい顔で、バスケットからトーストを取って、バターとマーマレードを塗っている。「お腹空いちゃった。まずは性欲よりも食欲ね」とトーストを齧った。唇の横についたバターを小指で拭う。非常にそそられてしまう。「やれやれ、ぼくも食べよう。コーヒーついでいい?」「ええ、お願い」ステンレスのサーモスからぼくはカップにコーヒーを注ぐ。


「アキヒコ、今、何時?」腕時計を見るとまだ八時半だった。

「八時半」

「チェックアウトは何時なの?」

「十二時だけど」

「ねえ、アキヒコ、今日は日本全国土曜日よね?あなた、明日は暇なの?」

「予定はないけどね」

「ふ~ん、チェックアウトまで三時間半じゃない?初めて出会って、男の方は昨日のことをあまり覚えていない、何もしなかったカップルが三時間半ではお互いを知り合うには短すぎるわよね?」

「短いとも言えるし、長いとも言えるし」

「あのね、もうワンナイト、このホテルに泊まる気ある?わたしと一緒」

「それは別にいいけど、キミ、大丈夫なの?」

「もちろん、大丈夫よ。そうすれば、明日の昼まで、二十七時間半、私のことを隅々までアキヒコは知ることができる。午後は銀座をブラブラして、食事して、お喋りして、またこの部屋に戻って来るの。どう?」

「すごく刺激的な申し出だね、ナナ。ぼくは別に構わないけど」


「そう?だったら、そうしましょう。それで、これ、食べ終わったら、私を抱いてね。絵美だと思って抱いてくれてもいいことよ」

「絵美はキミのような巻き毛でハスキーボイスじゃないよ」

「同じ女子校なんだから、中身は一緒よ。私も自分を絵美だと思ってアキヒコに抱かれてあげる。親友の彼氏に抱かれるって始めてなんだ」

「ぼくだって、ガールフレンドの親友を抱くのは始めてだ」あれ?初めてじゃないや・・・


「あ、ナナ、避妊が・・・」

「大丈夫、たぶん。生理四日前なんだ。たぶん、大丈夫。でも、大丈夫じゃなくっても、どうせ、拉致してプロポーズされちゃったんだから、できたら、産んじゃおう。それで結婚してくれればいいわ」

「昨日の夜、会ったばかりで?」

「昨日の夜、会ったばかりで、拉致して、プロポーズしたのはキミだぞ?」と元気なナナは言ったが、ちょっと具合が悪そうで、額と後頭部を押さえた。

「どうしたの?」

「偏頭痛がして、後頭部が少し熱いのよ。でも、キミが抱いてくれたら治るわ」記憶転移の症状なのだが、この二人はそれを知らない。


 いつものように明彦が私の腕をあげさせて手を絡めてくる。私が自分で動けなくさせるように。そして、これから、数十分もゆっくり挿入されたまま焦らされる。嫌いじゃないけどムラムラする。脚は動くので開いたり閉じたり明彦の体をちょっと締め付けたりして邪魔してやる。これじゃあ、標本箱に串刺しにされた蝶々じゃない。こいつは、浅く突いたり奥まで挿れたりして、私を焦らして楽しむ。もう、始まってすぐなのに逝かされる。


 やっと開放してくれる。私の腰を持って起き上がらせる。あぐらをかいた彼に座っている。これも樹にすがりついているセミみたいなものだ。体の中心線を貫かれている。これも私にとってはたまったものじゃない。わたしの体重がほとんど一点で支えられていて、ずっと奥までこいつのが届いている。悔しい。また何度も逝ってしまう。


 今度は私が上。ふん、私の好きな所をグリグリして、かき混ぜて、キスしたり離したり、乳首を虐めたり。私の番よ。と思っていると、私が腰を沈めた時にこいつは私の腰をつかんで突き上げてくる。一回だけ。思いっきり。これでもうダメ。一番奥まで抜かれたまま、こいつの上で果ててしまう。


 ハアハアしていると、仰向けにされる。脚を開かされる。しばらく挿れずに上から下へ、下から上へ、私のあそこをなぞるだけ。私が腰を動かして彼のを捕まえようとするが、そらされてしまう。いい加減ジリジリしてきたところで、やっと挿れてくれる。それも一秒間に1センチ動かす程度で、ゆっくりと挿れだす。一番奥まで届いた。自分でも子宮が下がってくるのがわかる。それからは抱き合って、お互い貪り合って、夢中で体を動かして二人共果ててしまう。


 二人でハアハア言う。「アッちゃん、今回もまんざらじゃなかったよ」と言った。


 明彦は目を瞬いて私の顔を覗き込む。「アッちゃん?今、そう言った?」

「うん、なあぜ?」

「終わった後、ぼくをそう呼ぶのは絵美だけだ!」

「何を言ってるの、明彦?だって、私じゃない。あれ?これって、リアルな夢なのかしら?ニューヨークじゃないものね。ここは・・・東京のホテル。おっかしいなあ・・・」

「ナナ、キミは変だろう?」

「奈々?私は奈々じゃないですよ。第一、明彦はなぜ私の友達の名前を知っているの?変なのはキミだよ」


 急に明彦が起き上がって、私を立たせる。バスルームに連れて行く。鏡の前に立たせた。「なにするの?明彦」


「鏡を見るんだ。キミは神宮寺奈々だ」

 

 私は鏡を見た。鏡にうつっているのは私の友達の奈々だ。「え?」

 

 私はこの体を点検した。腕、脚、お尻、首、胸、乳首、指、顔を触る、骨格が違う。あれ?なぜ?ニューヨークのアパートメントのベッドに入るまで、私は森絵美だったのに。え?え?


「奈々、キミは演技しているだけだよね?」

「あ、明彦、演技じゃない。私は、私の記憶は、自分が森絵美だと言っている。私は神宮寺奈々じゃない」

「なにが起こった?どうしてこうなった?」

「私にもさっぱり、わからない・・・、第一、明彦、これが現実だとして、なぜ、キミは私の友達とホテルで抱き合っていたの?また、おちゃめをして、私を裏切ったの?」

「・・・絵美、キミは死んだんだ」

「え?」

「今日は何年の何月だ?」

「え?1985年12月じゃないの?」

「今日は、1986年10月11日、土曜日だ。キミは、ニューヨークで1985年12月6日に銃で打たれて殺されたんだ」

「そんなバカな!」

「ぼくはキミのママとニューヨークに行って、モルグでキミの死体を確認して、火葬して、お骨を持ち帰り、森家で葬儀を行ったんだ」

「なんてこと!」


「ちょっと、確認させて欲しい。ぼくらが初めて会ったのは?」

「あ、雨の降っていた1979年2月17日の土曜日よ」

「どこで出会った?」

「明治大学の小講堂」

「キミはなにをしていた?」

「キース・ジャレットのケルン・コンサートを弾いていたわ。それであなたが小講堂に入ってきて・・・」

「その後どこに行った?」

「山の上ホテルのバーよ」

「何を話した?」

「ユングの話。ペルソナの話」

「キミの好きなチェロの曲は?」

「バッハの無伴奏チェロ組曲」

「ぼくらはキャンプに行った。どこ?」

「日光の中禅寺湖」

「ぼくらが始めてセックスしたのは?」

「1983年2月12日。帝国ホテルで」

「・・・」


「明彦、何が起こっているのよ?」

「わからない。でも、その記憶は間違いなく絵美だ。ナナがそんなことを知っているはずがない。ぼくだって、日にちまで覚えていない。女の子はそういうメモリアルデイをよく覚えているんだろうけど」

「なぜ、私が奈々なの?」

「心理学はキミの専門だ。なんでこうなるのだろう?・・・じゃあ、ナナは?ナナの人格は、絵美、どこに行ったんだ?」

「・・・ここに、この中に」と自分の頭を指し示した。「彼女はいる。あ!彼女の記憶も私はわかる。知っている。彼女の28年間の記憶がある。彼女、出してよ、ってジタバタしているわ」

「じゃあ、キミの人格はどっちなんだ?キミのアイデンティティーはどちらだ?」

「あれ?どっちかな?絵美かな?」

「・・・少なくとも、事実は、1985年12月までの森絵美の記憶が神宮寺奈々に転移して、絵美、ナナの記憶が双方ともナナの肉体に存在している、ということなのか?それも去年死んだ人間の記憶が?」

「・・・」

「じゃあ、昨日の夜のことは覚えているのか?ナナ?じゃない、絵美?」

「・・・ああ、なるほど。神田のカフェバーよね?彼女は、奈々は、私のお葬式であなたを見かけて、わざとあなたを誘って・・・あ!こいつ、最初から明彦と寝るつもりだったんだ!死んだ親友の彼氏と寝るのもいいかも、だって。ひどいなあ・・・明彦、私、死んじゃったんだ・・・」

「死んだ、とも言えるし、記憶は今のその体にあって、確かに存在しているし。どういう物理現象なんだろうか?」

「二重人格?いや、そんなはずはないわ。多重人格、つまり、解離性同一性障害は自己防御のために、その人格が別のペルソナを創造して作った人工物。こんなに事実に基づいた明確な人格を奈々が創れたとは思えない」

「つまり、独立した記憶、人格が、すでに死亡した肉体から、別の肉体に転移したのか?」

「そのような・・・あら?私、死んだのに、すごく客観的にこのフェノミナを受け止めているわ」

「絵美、ナナの口から、いつものキミの口調が出てくるのに違和感がある」

「そうよね。私の声じゃないしね。私、こんなハスキーボイスじゃないもの」

「う~ん、記憶というのは、質量のないエネルギーとも言える。質量がないのだから、E=mc^2の質量「m」はゼロだ。光速の制約を受けない。単なるデータなのだから、それが1985年12月から一年後に飛んで出現することは理論的には可能だ。でも、どういう理由で?タイムリープ?生まれ変わり?輪廻転生?幽体離脱?こんな話は聞いたことがない」

「ああ、明彦、私はどうすればいいの?私たちはどうなるの?」

「事実として、実体があるのは、神宮寺奈々なんだから、キミは、神宮寺奈々として振る舞わざるを得ないな」

「・・・仕方ないわね」

「でも、ナナの人格は出てこないのかい?」

「わからない。この状態が続くと、私なのか、奈々なのかもわからなくなるかもしれない。記憶が混ざり合って、融合してしまって・・・いつものパターンのセックスで、私の人格が出てしまって、勝っちゃったのかしら?ただ、解離性同一性障害の場合は、衝動の統制、メタ認知的機能、自己感覚などへの打撃となって、負のスパイラルに陥って、人格が崩壊する場合があるけど、このケースの場合・・・」

「『このケースの場合』だって?自分のことなのに?」

「うるさいわね。私がこの人格を制御できているうちは崩壊しない自信があるけど・・・ああ、奈々もタフだわ。大丈夫そうね」

「キミたちは、同じ肉体の中で会話しているのか?」

「あら?どうやっているのかしら?このメカニズムがわからないなあ・・・」

「う~ん、頭が痛くなってきた・・・」

「それはそうと、明彦!あなた、私が死んだからって、洋子とかメグミとかとヨリを戻してないわよね?浮気性なんだから」

「洋子はモンペリエに行って助教授しているし、メグミは彼氏を見つけて、結婚するって言っているよ」

「そう、安心した」

「いや、絵美、あのね、そもそも、キミは今ナナの体にいるんだし、もしも、洋子とかメグミがぼくらを見たとしたら、キミは新参者のぼくの彼女に見えるんだよ?」

「まあ!確かにそうだわ!・・・私、本妻の地位を追い落とされた可哀想な妻って気分になってきた・・・」

「ああ、ややこしいなあ・・・」

「まあ、いいわ。こうなったら」とナナの胸を両手で押し上げて「この体でなんとか生きなきゃ。私より背はちょっと低いけれど、美人だし、私よりも胸はあるし、頭も悪くない。広告代理店勤務なんだ。なるほど。彼氏はいまいないのね?それで、明彦に目をつけったってわけなのね?」

「絵美、その内部会話、あとにしてくれない?」

「うん、わかりました」

「どうしようか?」

「いいんじゃない?奈々のアイデアの予定通りで。朝食も終わったし。明彦、トロリーとトレイを廊下に出してくださらない?ホテルの部屋で食べ散らかした食物があると、生活感が感じられてイヤ」

「ハイハイ、了解」

「そうね、それで、もう一回しましょ?」

「え?」

「セックスよ、セックス。ニューヨークで、どうしようもないから自分で慰めていたのよ。私にとってはご無沙汰なの。それで、午後は銀座をブラブラして、食事して、お喋りして、またこの部屋に戻って来るの。明日の昼までに時間はたっぷりあるわ」

「ハイハイ、了解」

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