ライジングストレート!〜ネネのマウンド
鈴木涼介
第1話「運命のドラフト会議」
愛知県名古屋市郊外。市の中心部から少し離れたこの街にはまだ自然が多く、街を横切るように川が流れ、その両側には土手と遊歩道がある。遊歩道は綺麗に整備されているため、犬の散歩をしたり、ランニングする人たちに人気がある。
秋の気配が漂う10月の中旬の明け方、遊歩道を走るひとりの少女がいた。走るフォームは美しく、陸上部員のように踏み込む足は力強い。
走る少女の髪が揺れる。肩に少し届くくらいのストレートの黒髪で、少し丸顔の愛嬌のある可愛らしい顔立ち、身長は160センチもないが、太くもなく痩せすぎでもなく、バランスが取れた体型をしている。
少女の名前は『羽柴寧々』、地元の高校に通う女子高生であり、現在高校三年生だ。今年の夏までは野球部のマネージャーを務めていたのだが、今は引退して受験勉強に勤しむ日々を送っている。
ネネが早朝に走っているのには理由がある。それはランニングが小学生からの日課だからだ。長い残暑も終わりを告げ、朝は涼しく、走っていても気持ちがいい。心地よい気候に導かれるように走る速度を上げたネネだったが、とある場所に着くと足を止めた。
遊歩道の途中には川辺に降りる階段がある。ネネはその場所で足を止め、階段を降りて川辺に降り立った。目の前には緩やな川が流れている。対岸まで約100メートルあり、地面には無数の石が転がっている。
ネネはしゃがみ込むと、なるべく平らな石を探し出した。これから行なうのは、もうひとつの日課である『石投げ』だ。
小学生の頃、この川辺で男子と一緒に石を対岸に向かって投げる遊びをしていたのだが、石投げはいつしか毎日の日課になっていた。
右手に平らな石を握り込むと川の対岸を見つめた。朝日に照らされ川面は輝いている。ネネは軽く肩を回すとステップを踏んだ。
そして、全身を柳のようにしならせると、女性とは思えない豪快なフォームで、石を指先から弾くように川の対岸に向かって投げた。
指先から放たれた石は風に乗り、グングンと対岸に向かって伸びていく。
力任せに投げても石は対岸には届かない。なるべく平らな石を真上から弾くようにして投げるのだ。そうすると石は風に乗り、浮くようにして飛んでいく。ネネはこの石投げのコツを掴んでいて、子供の頃から誰にも負けたことがない。
風に乗った石はやがて100メートルはあるだろう川を余裕で飛び越えて、遥か向こうの対岸に落ちた。
石が対岸に届いたことを見届けたネネは満足そうに微笑むと、土手に上がりランニングを再開した。
10キロのランニングを終えて、閑静な住宅街にある自宅に戻る頃には時計の針は七時を指していた。
シャワーを浴びて汗を流し、台所に行くと母親が朝食の用意をしていた。父親はテーブルに座り、メガネを掛けて地元のスポーツ新聞を読んでいる。姉は母親を手伝いながら職場に持っていく弁当の準備をしている。朝が弱い妹はギリギリまで寝ていて、まだ起きてこない。
父と母、そして社会人の姉と中学三年生の妹、これがネネの家族だった。
地元の自動車メーカーに勤める父は温厚で優しく野球好き。子供が産まれたら、キャッチボールをするのが夢で、長女に野球を教えようとしたが、妻に猛反対されて敢え無く撃沈。
そこで、次に産まれた次女のネネに野球に興味を持つように仕向けたところ、父の思惑通り、ネネは野球に興味を持ち、父のキャッチボールの相手を務めることになった。
だが、ネネは父とのキャッチボールだけでなく、大きくなるにつれ、男子に混ざりリトルリーグに入り、父の参加する草野球に参加したり……と立派な野球少女に育っていった。
母親が朝食をテーブルの上に置くが、それよりも父親は本日行われるプロ野球のドラフト会議の記事に夢中だ。
スポーツ紙の一面には端正な顔立ちの高校生が載っている。その高校生の名前は『織田勇次郎』といい、今年のドラフト会議の注目選手のひとりであった。
織田勇次郎は県内屈指の野球の強豪校「聖峰高校」に在学している超高校級のバッターだ。聖峰高校には全国からスカウトされた優秀な選手が集まっているが、その中でも織田勇次郎は別格の存在で、一年生の夏から四番サードのポジションに座り、春夏合わせて甲子園に計四回出場した上、通算十本のホームランを放っている。
特に今夏は甲子園で大活躍。決勝戦で二本のホームランを放ち、聖峰高校を優勝に導いた立役者だった。
「織田くんは実力だけでなく、性格もストイックで真面目だと聞く。是非ともTレックスに入団してチームを盛り上げてほしいなあ」
父親が新聞記事を見ながらそう呟いた。
『Tレックス』とは、愛知県を本拠地にする『東海レッドソックス』の愛称、名前が示す通り、恐竜打線がウリの強打のチームだが、ここ近年は下位に低迷している。それ故に織田勇次郎は久しぶりに現れた地元のスター選手でもあり、今回のドラフト会議では織田勇次郎の一位指名を早々と公言していた。
しかし、織田勇次郎の獲得はそう簡単ではない。なぜなら織田勇次郎の評価は高く、他球団も一位指名を公言しているからだ。
その中でも相思相愛と言われているのは、東京に本拠地を置き、球界の中でも人気・実力ともにナンバーワンの球団『東京キングダム』だった。
巷の噂では、織田勇次郎は東京キングダムへの入団を熱望していると言われていて、キングダムも次世代のスター選手候補として、織田勇次郎の一位指名を公言していた。
ネネはトーストを食べながら、対面の父親が広げた新聞の一面に写る織田勇次郎を見つめた。
(超高校級バッター、織田勇次郎ねえ……)
写真の中の織田勇次郎は端正な顔立ちをしているくせに、ニコリともせず厳しい表情で鋭い眼光を放っている。
(ドラフト会議で、各球団が一位指名を公言しているなんて、この人、やっぱり凄い選手だったんだなあ……)
ネネは新聞の織田勇次郎から目を逸らすように、手元の牛乳を一気に飲みほし席を立った。
朝食を食べ終えたネネは自宅を出て高校に向かった。高校までは、最寄りの駅に向かい、電車に乗り、それから徒歩の道のりだ。駅を降り、学校への道を歩くと、空には10月らしい爽やかで秋晴れの景色が広がっていた。
「よお! ネネ!」
突然、背後から男性に声をかけられた。振り向くと、がっしりした体格の坊主頭で朴訥な顔の男子高校生がいた。同級生で元野球部キャプテンの「石田雅治」だった。
「おはよ」
ネネが笑みを浮かべて挨拶を返すと、石田は乗っていた自転車を降りて、ネネの横に立ち、学校への道を一緒に歩き出した。
ふたりは並んで学校への道を歩いた。時折、石田が冗談を言い、ネネはクスクスと笑う。
ネネと石田は小学校のリトルリーグからの付き合いで、いわゆる幼馴染でもあった。幼い頃から野球に親しみ、肩が強く、男子顔負けのボールを投げていたネネはリトルリーグでピッチャーを務めており、キャッチャーの石田とバッテリーを組んでいたのだ。
ふたりは小学校を卒業し、中学に入ると同時に硬式球を使用する地元のシニアチームに入団した。シニアでもピッチャーを希望していたネネだったが、その想いは入団早々に打ち砕かれた。なぜなら女子であることを理由にピッチャーのポジションをはく奪されたのだ。
それでもネネは男子に混ざって野球を続けた。代わりに与えられたポジションは外野手だったが、野球をやめるという選択肢はなかった。野球が大好きだったからだ。
中学卒業が近づくころには、女子野球部のある高校への進学を考えるようになったが、その時、石田からある提案を受けた。
それは『マネージャー兼部員として一緒に野球をやらないか? 野球部のない高校に行き、ふたりでイチから野球部を作って甲子園を目指さないか?』と、いうものだった。
石田からの申し出を悩んでいたネネだったが、最終的には賛同して、石田と一緒に野球部のない公立の英徳高校に入学することに決めた。
高校に進学したネネと石田は一緒に部員を集め、同好会から部に昇格させると、今夏、初めて夏の甲子園予選に参加した。
しかし、結果は1回戦コールド負けで、ふたりの高校野球は終わった。だが悔いはない。やれることはすべてやったからだ。
野球に賭けた三年間が終わると、次の進路を決めなければならなくなる。
ネネは高校卒業後は女子野球部のある大学に進学して再び野球を続けるか、それとも野球は趣味として続け、普通に県内の大学に進学するかを迷っていた。
「いいじゃないか、女子野球部がある大学に行けば」
気楽に発言する石田に対してネネは「そう簡単に言わないでよ」とため息をついた。
「女子野球部のある大学は限られているの。もし、入学するなら家を出なくちゃいけないし……」
そう、女子野球部がある大学は県外にあり、ネネは家を出て、仲の良い家族と離れることに抵抗があった。それが進路を迷っている理由でもあった。
「そっか……」
ネネの発言を聞いて言葉をつぐんだ石田だったが、少ししてから再び口を開いた。
「……大分、伸びたな」
「え?」
石田が何を言っているのか分からず、ネネは一瞬、キョトンとした顔をしたが、石田の目線が自分の髪の毛に向いていたことから「あ、ああ、髪の毛のことね」と言って笑った。
肩まである髪が風に揺れ、ネネは半年前のある出来事を思い出していた。
それは五月のはじめの出来事だった。
新入生が入部し、メンバーが揃い、やっと部として認められたばかりの野球部に県内最強と名高い聖峰高校から、練習試合の申し込みがあったのだ。
実績のない野球部になぜ強豪校から練習試合の申し出があったのか理解できず、石田をはじめとした野球部員たちは全員躊躇していたが、ネネだけは「何、迷ってんの!? あの聖峰高校と試合できるんだよ! こんなチャンス滅多にないよ!」と前向きで練習試合を受けることになった。
そして、GWの真っ只中、練習試合の日を迎え、聖峰高校に出向いたネネと野球部員たちは、なぜ自分たちに練習試合の申し込みがあったのか、その真意を理解した。
聖峰高校には二軍の下にケガから復帰した部員のための三軍が存在した。その三軍の相手として自分たちの野球部が選ばれた。つまり三軍の調整相手だったのだ。
「何だよ、調整相手って……俺たちを何だと思っているんだ」
相手が自分たちを軽んじていることが分かり、石田は怒ったが「でも、三軍でも聖峰は聖峰だよ、今までの成果を見せてやろうよ!」と、マネージャーであり、ユニフォームを着たネネが石田をなだめた。
聖峰高校の一軍と二軍はメイングラウンドで他県から来た強豪校と練習試合を行っている。主だった見物人やスカウトはそちらを見学に行っていて、三軍グラウンドには誰もいない。そんな状況下で試合は始まった。
ネネたちの英徳高校が先攻となり、キャプテンである石田が円陣を組んだ。
「練習量じゃ負けてない、同じ高校生だ。絶対に勝つぞ!」
「おお──!」
メンバーは気合い充分で、試合に臨んでいった。
「みんな、頑張れー!」
一番バッターが打席に向かい、ベンチからネネが率先して声援を送った。
(未経験者ばかりだけど、練習はしっかりやった。きっと大丈夫、いい試合をしてくれるはずだわ)
……しかし、その期待は打ち砕かれた。
三軍とはいえ、さすが強豪聖峰高校のピッチャーのボールは速い。英徳高校の初回の攻撃は三者三振であっさりと終わってしまった。
「さすが聖峰高校ね、三軍のピッチャーと言っても球は速いわ」
「ああ、今度はウチの守りだ、どれだけアイツが踏ん張れるかだな」
ネネがキャッチャーを務める石田の防具を付けるのを手伝っていると、石田はひとりの背の高い男に目を移した。
それは一年生のピッチャー佐々木だった。数少ない野球経験者で、わずか一カ月だが、ネネがしっかり鍛えた。球はそう速くないが、コントロールは良い。
「大丈夫よ、佐々木くんはかなりコントロールが良いから」
「そうだな」
防具を付けた石田は佐々木の元に行き、背中を叩くと、グラウンドに飛び出していった。英徳野球部のメンバーは最近揃ったばかりで人数は九人しかいない。選手たちが各ポジションに散らばっていく。
(同じ高校生だ。みんな練習を頑張ってきた。きっと大丈夫……)
一回裏、聖峰高校の攻撃が始まり、ネネはベンチから声援を送った。
しかし、現実は残酷だった。
聖峰高校のメンバーは三軍とはいえど、バットのスイング、打球の速さ。そのすべてが、素人に近い英徳高校野球部と比べてレベルが違った。怒涛の攻撃が始まり、ピッチャーは打ち込まれた。スコアボードにはどんどんと数字が書き込まれていき、マウンドに立つ佐々木は顔面蒼白になった。
「ヘイヘイ、ピッチャー、しっかりしろよ! こんなんじゃあ小学生の方がマシだぜ!」
三軍ベンチからヤジや笑い声が飛び交い、ワンアウトも取れずにスコアボードに「9」の数字が刻まれた。
ネネはマウンドで意気消沈している佐々木を見て胸が痛んだ。高校生になり初めての試合でワンアウトも取れずに9点も取られたのだ。ピッチャー経験者として佐々木がどんなに辛いかが分かる。
それと、他のメンバーも一緒だ。ここまで圧倒的な力を見せつけられたら、野球が嫌いになってもおかしくない。
(私が……私が練習試合を決めたばかりに、みんなをこんな辛い目に……)
ネネは悔しさと歯がゆさと後悔の感情を抱えて、膝に置いた両拳を握りしめた。
そんな中、相手チームのコーチがベンチに歩いてくるのが見えた。
「監督はいるかな?」
「ウチは部として認められたばかりだから監督はいません。何かあれば私が話を聞きます」
浅黒い顔をしたコーチが話しかけてきたのでネネが対応した。
「ああ、そうか、いやね、キミたち弱すぎて話にならないよ。ウチがあと1点取って、10点取った時点でコールドゲームにしていいかな?」
「は?」
ネネは耳を疑った。騙すように練習試合を組んでおきながら、一方的に試合を打ち切ろうとしているのだ。
「何ですか、それ……? ちょっと一方的すぎやしませんか?」
ネネは生来気が強い。ひるむことなくコーチを睨みつけた。
「でも仕方ないだろう? このまま続けても調整相手にすらならないし、おたくらもこれ以上、恥をかきたくないだろう」
コーチは白い歯を見せて笑い、ネネの怒りは頂点に達した。
「それなら……」
「うん?」
「この後、一点も取られなかったら、このまま試合を続けていいってことですよね?」
コーチはネネが何を言ってるか理解不能な表情を見せていたが、やがてその真意が分かると大笑いした。
「ああ、いいとも。このまま一点も取られなかったら試合を続行しようじゃないか。ただ、あのピッチャーにそんな力があればだけどな」
コーチは笑いながらマウンドの佐々木を横目で見ると、そのまま踵を返し、自軍のベンチに戻っていった。
ネネは怒りに満ちた目で救急箱を開けると、テーピングを切るハサミを手に取った。
一方、マウンドにはキャッチャーの石田をはじめ内野手が集まっていた。ピッチャーの佐々木は目に涙を浮かべ、皆、心が折れていた。このまま試合放棄を申しでるか迷っていた。
そのマウンドにネネは歩いて行った。帽子を目深に被り、スパイクを履き、左手にはグローブを持って。
「何、落ち込んでるの? 試合はまだ終わってないわよ」
ネネが笑顔で声をかけると、皆、驚いた顔でネネを見た。
ネネは肩まであった髪をバッサリ切っていた。帽子を目深に被っているから髪は見えず、パッと見は女性に見えなかった。
「ね、ネネ……何だよ、それ……?」
石田が驚きの声を上げた。
「どう? これなら女性には見えないでしょ?」
ネネは笑顔を見せると「佐々木くん、よく投げたわ、立派だったよ」とピッチャーを労った。
「は、羽柴先輩……」
佐々木は涙を拭った。
「後は任せて」
「は? 何を言ってるんだ?」
石田がネネを見た。
「私が投げるわ」
その言葉にマウンドに集まっていた選手たちは度肝を抜かれた。
「ちょ……ちょっと待てよ! お前が投げるのか!?」
「そうよ、さっき相手のコーチが来て、言ったの『あと一点取ったら、この試合はコールドにして打ち切る』って。それで頭に来たから言ってやったわよ『このままの点数なら、九回まで試合をしていいってことですよね?』って」
口元に不敵な笑みを浮かべるネネを見ながら、石田は呆然とした顔をしていた。
「だ、だからといってだなあ……ゲッ! あ……あいつは……!?」
聖峰高校のベンチ前で素振りをする男の姿を見て石田が驚きの声を上げた。英徳高校の野球部員もベンチ前を見て、全員血の気が引いた。
突然、現れた素振りをする男は聖峰高校不動の四番バッター「織田勇次郎」だった。百八十センチを超える身長に引き締まった筋肉質な体型。端正な顔立ちで髪は短く刈り込まれている。
「な、何で織田勇次郎がここに……?」
「三軍にいるってことは、怪我でもしてたんじゃない?」
動揺する石田とは対照的に、ネネは悠然とした態度で織田勇次郎の素振りを見つめていた。
「な……何、言ってんだよ! 分かってんのか!? 次のバッターに、あの織田勇次郎が立つってことだぞ!」
「関係ないわよ、相手が誰だろうが」
ネネはキッパリそう言いきると、聖峰ベンチを睨みつけた。
「羽柴先輩……大丈夫ですか?」
マウンドに集まっている後輩たちが心配そうにネネを見つめたが、ネネは笑顔を見せた。
「大丈夫、それより見ててね。アイツから三振を奪って、スカッとさせてあげる」
ネネはマウンドに立ち、軽く投球練習を始めた。試合前に佐々木相手にキャッチボールをしていたから肩はほぼ出来上がっていた。
そして、ノーアウト満塁、スコアは9対0、という場面で試合は再開された。
代打に送られた織田勇次郎は右バッターボックスに入り、悠然とバットを構えていた。相手がどんな格下だろうと全力で叩き潰す、というオーラが滲み出ていた。
「また、えらい小さいピッチャーが出てきたな! 勇次郎、一発かましたれ!」
三軍ベンチからヤジと笑い声が飛んだ。ネネは自分が女性ということがバレないか、内心心配していたが、相手も早く試合を終わらせたかったこともあり、誰もネネのことを気にしてなかった。
又、ネネはいわゆる女性らしい体型ではないため、髪を切って帽子を被ればパッと見は女性に見えなかった。
マウンドに立つネネは塁上のランナーを目で牽制するとボールの握りを確かめ、そのまま大きく振りかぶった。
ノーアウト満塁、ピッチャーが振りかぶれば盗塁のチャンスだが、塁は埋まっていてランナーは走ることができない。
ネネは右腕を引き絞り、素早いモーションから一球目を投じた。女性が投げたとは思えない糸を引くような軌道のストレートは、ズバン! という乾いた音を立てて、ど真ん中に構えた石田のミットに飛び込んだ。
「ストライク!」
織田勇次郎はバットを振らず、悠然とボールを見送っていた。
(久しぶりに実戦で投げたけど、指のかかりは悪くないわ)
ネネが微かな笑みを浮かべていると、タイムをかけてキャッチャーの石田がマウンドに駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「い……いや、いつも練習で投げているより球が速いから……」
「当たり前じゃない。練習ではバッティングピッチャーだったから、全力で投げてないわよ」
ネネが呆れたように答えた。
「そうか……あと、それから……」
「それから何?」
「何か球の軌道がおかしいんだよな……想像以上にボールが伸びてきて、浮いているような感覚なんだよ」
(ボールが浮く?)
話が終わり、石田がキャッチャーポジションに戻った後、ネネは自分の指先を見つめていた。
(そう言えば、石投げをする時、石は浮きながら空を飛んでいったなあ)
そんなことを思い出しながら打席に目を移すと、織田勇次郎が打席の一番後ろに立ち直すのが目に入った。恐らくボールの軌道をじっくり見るためだろう、とネネは推測した。
二球目、石田は内角にミットを構えた。急造のバッテリーだからサインも何もない。ネネはミットの動きに頷くと、再び振りかぶって二球目を投じた。
ストレートが唸りを上げて、織田勇次郎の内角を突く。しかし、ボールがミットに飛び込むかと思った瞬間、今まで見たことのないスピードで織田勇次郎のバットが一閃した。
カキ──ン!
金属バットが鋭い音を立てた。ネネのストレートは完璧に打たれて、打球はレフト方向へ飛んでいった。
「よし! いったあ!」
聖峰ベンチから大歓声が上がった。
しかし、織田勇次郎が打ったボールはレフトスタンドのわずか左……ファールゾーンに落ちた。それでも余裕でフェンスを越える大ファールだった。
(な……何て恐ろしいスイングなの……)
織田勇次郎の規格外のスイングと打球の飛距離を見たネネは背筋が凍った。
(これが聖峰高校の四番バッターを務める織田勇次郎……こんなスイングスピードと打球は見たことない。この人、私たちとレベルが違いすぎる……)
今更ながら、目の前に立つ織田勇次郎の凄さを実感したネネは、同じ高校生とは思えず鳥肌が立った。
だがその時、自分の胸の鼓動が高まり、身体は熱くなり、気分が高揚していることにも気付いた。
(何……? この感覚は?)
ネネは自分でも気付かないところで、織田勇次郎というバッターを前に、かつてない興奮と高揚を感じていた。
それはネネのピッチャーとしての本能だった。ネネは無意識のうちに織田勇次郎との対決を楽しんでいたのだ。
カウントは0-2、ノーボールツーストライク、とカウント上は追い込んでいる。石田は導かれるようにミットをど真ん中に構えた。ミットの動きを見たネネはコクリと頷いた。
『困ったらど真ん中へ全力のストレート』
それが小学生の頃にネネと石田が交わした、ふたりだけが分かるサインだった。
「オラオラ! どうしたどうした、ピッチャー、ビビってんぞ!」
聖峰ベンチからヤジが飛んだ。しかし、ネネはそんな声を無視するように、三たびゆっくりと振りかぶった。左足を高く上げながら、軸足となる右足をヒールアップしたので、身長158センチのネネの身体が身長以上に大きく見えた。それはまるで獲物を狙うネコ科の動物のような、しなやかな動作だった。
高く上げた左足を踏み込むと同時に右腕をムチのようにしならせる。そして指先に全パワーを集約させ、石投げと同じ感覚で思い切りボールを弾いた。
唸りを上げ、ストレートが飛んだ。
だがコースは甘い。ど真ん中だ。織田勇次郎がボールを十分に引き付けて渾身の力でフルスイングを始めるのが見えた。
その時、マウンドのネネは見た。指先から放たれたボールが浮き上がる軌道を描き、織田勇次郎のバットの上をすり抜けるのを──。
ガン!
だが、次の瞬間、大きな音が聞こえた。それはネネの投げたボールを石田がキャッチできずにキャッチャーマスクに当たった音だった。石田が後ろに倒れるのが見えた。
ボールは転々とグラウンドに転がり、辺りは沈黙に包まれた。空振り三振に倒れた織田勇次郎は何が起こったのか分からず、バッターボックス内で呆然としていた。
織田勇次郎を三振に仕留めたのだが、キャッチャーを務める石田が倒れた衝撃で意識を失ったため、人数不足で試合続行は不可能となり、そのままゲームセットになった。
整列も何もなく試合は終わったため、ネネが女性であることは結局最後までバレなかった。
これが五月に起こった聖峰高校三軍との練習試合の顛末だった──。
「……今日、ドラフト会議だよな、アイツはどこに指名されるのかな?」
石田の言葉にネネはハッと我に返った。石田が言う『アイツ』とは勿論、織田勇次郎のことだ。
「どうだろう? 新聞だと、結構指名が重複するって書いてあったけど」
「でも、よくよく考えたら、凄えよな。そんなヤツから三振を奪ったんだから、もしかしたら、ネネもプロ野球でやれたりして?」
「ちょっとやめてよ、その話は。それより急がないと遅れるわよ」
ネネは歩く速度を早めたが、織田勇次郎から空振りを奪った残像は、なかなか頭から離れなかった。
そして、ネネたちが学校に向かう頃、東京ではドラフト会議の準備が行われていた。
『ドラフト会議』、それはプロ野球12球団が高校生、大学生、社会人を対象に新人選手の獲得指名を行う一大イベントだ。
毎年10月に開催され、将来のスター選手を求めて各球団が指名を行なう。また指名を待つ選手たちも自分の将来が決まる大事な一日だ。
会議は東京都内のホテルの一室を借り切って開催される。
定刻通り、午後四時に運命のドラフト会議が始まった。
「第一回選択希望選手……」
各球団が獲得を希望する一位指名の選手の名前が読み上げられていく。
毎年、ドラフトには人気選手がどこに指名されるか注目の的になるが、今年のドラフト会議の目玉は超高校級バッターの織田勇次郎であった。その当の本人は聖峰高校に設置された会場で野球部の監督や部長、野球部員たちと自分がどの球団に指名されるか、テレビの生中継を見ながら結果を待っていた。
そんな中、ドラフト会議前の予想通り、織田勇次郎の名前は次々と読み上げられていった。
セリーグからは、一位指名を公言していた球界の盟主「東京キングダム」それから、地元名古屋の「東海レッドソックス」、またパリーグからは、昨年の日本シリーズの覇者「福岡アスレチックス」、高校生の育成には定評がある「北海道ブレイブハーツ」が織田勇次郎を一位指名した。
ここまでは事前の予想通りだったが、ひとつだけ予想外の出来事があった。それはセリーグから、もう一球団、全くノーマークの球団が織田勇次郎を指名したことだ。
その球団とはセリーグの弱小球団『大阪レジスタンス』だった。
『大阪レジスタンス』
大阪に本拠地を置く、プロ野球設立時からある伝統の球団だが、近年は低迷しており、三年連続最下位、十年連続Bクラスという悲惨な成績を残している。
マスコミや球団関係者たちはざわめきあった。なぜなら、レジスタンスがドラフトで織田勇次郎を指名するのは異例の出来事だったからだ。
弱小球団のため、選手たちからも評判が良くないレジスタンスはいつも目玉選手を避け、冒険をしないドラフト戦略がウリなのだが、今年は競合上等! とばかりに目玉選手である織田勇次郎獲りに参戦していた。
しかし、レジスタンスが強気の指名を行なったのには、それなりの理由があった。それは来季からレジスタンスの新監督に就任する「今川猛」の強い意向が反映されていたのだ。
今川猛、39歳、元大阪レジスタンスの内野手。
高校卒業後にレジスタンスに入団し、勝負強いバッティングで一年目からレギュラーに定着。その年は新人王、その後、打点王二回、ホームラン王を一回獲得。「闘将」の異名を取り、レジスタンスを代表する選手だ。
晩年はケガに悩まされるも、代打の切り札として活躍。二年前に引退したが、一年間の浪人生活を経て、レジスタンス復活の切り札として来季のレジスタンス監督に就任していた。
性格は豪快で親分肌、見た目は一歩間違えればチンピラ風。今日もド派手なスーツに金のネックレスという格好でドラフト会議に臨んでいた。
全球団の一位指名が終わり、最終的に織田勇次郎を指名したのは大阪レジスタンスを含めた計五球団だった。
指名が重複した時は、くじ引きで獲得指名権を決めることになる。織田勇次郎を一位指名した五球団の代表がモニターの前に整列した。監督、球団社長、GM(ゼネラルマネジャー)……と、くじを引く人は自由であり、レジスタンスは今川監督が代表として抽選の場に立った。
五人の前に大きな白い箱が置かれた。箱の上部には穴が空いていて、穴から手を入れて、中にある封筒を取り出す。封筒の中には白い紙が入っており、そこに「交渉権獲得」の赤いハンコがあれば当たりで、当たりくじを引いた球団が一位指名した選手の入団交渉権を得られるシステムだ。
くじを引く順番は今季のチームの順位が反映される。レジスタンスは最下位であったため、一番最初にくじを引くことができる。
今川監督はスーツの袖をまくると、白い箱の中に勢いよく腕を突っ込み、一番上の封筒を取った。続いて二人目、三人目……と順に封筒を取っていく。
聖峰高校にいる織田勇次郎も固唾を飲んで、テレビの向こうで行われているくじ引きを見つめた。
球団を代表する五人全員が封筒を取り終わると、司会者の声に促されて一斉に封を開封した。
ひとり……またひとり、と自分の開けた封筒の中身が真っ白だと分かると、顔を見合わせた。誰が当たりくじだ……? 各自、他球団の代表の挙動に注目した。
すると、突然ひとりの男がドヤ顔で高々と紙を頭上に掲げた。その紙には赤字で「交渉権獲得」という文字が書かれていた。
会場がざわめく。織田勇次郎の当たりくじを引いたのは何と大阪レジスタンスの今川監督だった。
「織田勇次郎はレジスタンスだ!」
マスコミたちが騒ぐ一方で、レジスタンスが自分の交渉権を引いた映像を見た織田勇次郎はあからさまに不快な表情を見せた。
またドラフトの目玉選手である織田勇次郎の結果を報道するために、会場にはテレビ局のディレクターやカメラマンたちが同席していたが、織田勇次郎はテレビ関係者たちを尻目に、監督に付き添われて無言で席を立った。
「かわいそうに……」
野球部員たちから同情の声が上がった。なぜなら織田勇次郎は東京キングダムへの入団を熱望していた一方で、絶対に行きたくないと球団だと話していたのが大阪レジスタンスだったからだ。
ドラフト会議の目玉選手であった超高校級のバッターの一位指名権を獲得したのはダークホースの大阪レジスタンスとなり、こうして波乱のドラフト会議は幕を閉じた。
そして、その日の夜……羽柴家では、リビングでネネの父親がビールを飲み、テレビのニュースを見ながら、Tレックスが織田勇次郎のくじを外したことにブツブツ文句を言っていた。
ニュースでは『織田勇次郎はレジスタンスの入団を拒否の構え』と報じている。どうやら織田勇次郎はレジスタンスに指名されたことがかなり不満で、入団を拒否して社会人野球に進む可能性があるようだった。
「全く……まさか、レジスタンスが当たりくじを引くなんてなあ、織田勇次郎がレジスタンスに行くわけないのになあ……」
ビールを口にしながら父が悪態を付く。
「そんなにレジスタンスはひどい球団なの?」
一緒にテレビを見ているネネが尋ねる。
「ああ……三年連続で最下位、しかも十年連続Bクラスのセリーグきっての弱小球団だぞ」
「でもさあ、プロ野球選手になれるんだよ。だったら、どの球団でもいいと思うんだけど……」
「まあな……でも、あそこまで拒否反応を示すってことは、恐らく織田勇次郎にはどうしてもレジスタンスには行きたくない理由があるんだろうな」
父親はそう言うと、空のグラスにビールを注いだ。
ネネはそれ以上話すことはやめて、再びテレビに目を向けた。テレビの中では、プロに指名された選手たちが笑顔を見せていた。
ネネはテレビに映る選手たちを見つめながら、子供の頃を思い出した。
子供の頃……誰もが無邪気に夢を見ていた頃、ネネの将来の夢は、もちろんプロ野球選手だった。
(でもいつからだろう? その夢を見なくなったのは?)
1991年、日本プロ野球機構(NPB)は女子のプロ野球選手の参加を正式に許可した。つまり実力さえあれば、女子でもプロ野球選手になれるのだ。
しかし、現在に至るまで女子がNPBでプレイしたという記録はない。
ルールでは定められてはいるが、男と女の間には体格や力という大きな壁が立ちはだかっている。
ネネも中学に入ると身長は止まり、体格も男と差が出るようになり、力もかなわなくなった。シニアでもピッチャーをはく奪され、男と女の壁を痛感することになった。
……そして、いつしかプロ野球選手になる夢を見ることを止めた。
だが最近になり、再びその夢を見ることが増えた。それは、織田勇次郎から三振を奪ったことが原因だった。その男の名前が大きくなればなるほど夢を見る。
織田勇次郎から三振を奪った浮き上がるストレート。あのストレートが通用するなら『女の私でも、プロでやれるんじゃないか?』と──。
(いやいやいや!)
ネネは頭をブンブンと振った。
(夢物語だ。そんなこと……女の私がプロ野球なんて絶対に無理だ……)
ネネは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
(忘れよう……あの日の出来事は忘れないと……)
ソファーから立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとした。その時だった──。
ピンポーン。
突然、玄関のチャイムの音が鳴った。
「誰かしら? こんな時間に……」
時計の針は八を指していた。台所で洗い物をしていた母親が玄関に向かった。
「……はい」
母親がドアを開けると、そこにはスーツを着た体格の良い中年の男性が立っていて、名刺を差し出してきた。男が差し出した名刺には「大阪レジスタンス」の名前が載っていた。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、大阪レジスタンスの東海地区のスカウトを担当している伊藤と申します。羽柴寧々さんは、ご在宅でしょうか?」
「は、はあ?」
想定外の訪問者に母親は呆気にとられ、すぐにネネを呼んだ。慌てて玄関にやって来たネネは伊藤の顔と名刺を見たが、伊藤の顔に見覚えはなく、また、なぜこんな夜間にレジスタンスのスカウトが自宅に来たのか思い当たる節もなかった。
「あ……あのお……羽柴寧々は私ですが、私に一体、何の用ですか?」
ネネは不審そう目で伊藤と名乗るスカウトを見た。そんなネネに伊藤スカウトは笑みを向けた。
「ああ、失礼失礼、いきなりアポなしで自宅に押しかけたら、そりゃあ警戒するよね?」
伊藤はゴホンと咳払いをすると、真剣な目でネネを見つめた。
「単刀直入に申します。今日、私がここに来た理由は貴女をスカウトするためです」
「え?」
「大阪レジスタンスは、貴女をプロ野球選手として、正式にプロ契約したいと考えております」
そう言って伊藤スカウトは深々と頭を下げた。
「は……はあ!? プロ野球選手!?」
あまりに突拍子な話に、ネネは驚きの声を上げてその場に立ちすくんだ。隣に立つ母もあ然とした表情を浮かべた。
当然だろう、何の前触れもなくプロ野球のスカウトがいきなり現れ、実績も何もない、しかも女性である自分をスカウトしたい、と告げてきたからだ。
(な……何なのこの人? 一体、何を考えているの!?)
呆然した顔で立ちすくむネネ。
しかし、伊藤と名乗ったスカウトは、ネネとは対照的に日焼けした浅黒い顔に満面の笑みを浮かべていた。
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