第29話:共鳴
ルナは杖を構え、その切っ先に魔力を集中させた。彼女の指先が、わずかに震える。それは恐れからではなく、未知の現象に対する魔法使いとしての純粋な探求心、そして目の前の存在を救いたいという静かな決意の表れだった。光を放つ紋様が杖の表面を走り、まるで彼女の意思に呼応するかのように、やがて先端に青白い輝きが集まっていく。その輝きは、鉛色の絨毯のように空を覆う針葉樹の枝の間からかろうじて届く木漏れ日よりも、はるかに強く、清らかだった。彼女の視線は、ゆっくりと近づいてくる変質した精霊へと向けられていた。その異形の存在は、先ほどまで発光性の植物を溶かしていた赤黒い粘液を滴らせながら、ゆっくりと、しかし確実に彼らとの距離を詰めてくる。鼻腔をくすぐる湿った土と腐葉土の匂いに混じって、甘く重たい異臭がさらに増し、粘液が足元の分厚い落ち葉と苔に落ちるたびに「じゅるり」と湿った音が響き、まるで深淵に吸い込まれるかのような錯覚を覚えた。
「リリア! 奴の動きと、葉っぱさんの反応を教えて!」ルナは、集中しながらもリリアに指示を出す。彼女の声は、空間に響く脈動にかき消されそうになりながらも、はっきりとリリアの耳に届いた。湿った空気が彼女の呼吸器にまとわりつき、肺の奥から重苦しさを押し上げてくる。
リリアは恐怖に震えながらも、胸元の若葉を強く押し当てた。若葉の翠色の光は、巨大な存在の赤黒い輝きに呼応するように激しく明滅し、まるで何かに苦しんでいるかのようだった。その光は、周囲の発光性の植物が放つ奇妙な明滅とは異なり、もっと生きた、感情を伴った輝きだった。「うん…葉っぱさんが…『悲しい』って…『やめて…』って…言ってる…!」リリアの幼い声は、今にも泣き出しそうだったが、その言葉には確かに、若葉から伝わる切実な感情が込められていた。
ルナは眉をひそめた。**「やめて」**という言葉は、一体何を指すのか。攻撃を止めてほしいのか、それともこの変質自体を止めてほしいのか。その判断は、彼らの今後の行動を左右する重要な情報だった。彼女の頭の中で、古文書の記憶と、目の前の現実が複雑に絡み合う。精霊の変質。それは、世界の均衡を揺るがすほどの重大な事態であり、彼女の魔法使いとしての常識を根底から揺るがすものだった。
一郎は聖剣を構え、変質した精霊の動きを注視していた。彼の聖剣は、その禍々しい気配に呼応するように、これまでにないほど強く輝きを放っている。しかし、その輝きは、周囲の闇を完全に払うには至らず、かえって彼らの影をより濃く、不気味に歪ませていた。聖剣の柄を握る手から、自身の体温とは異なる、どこか冷たい、しかし確かな警戒の熱が伝わってくる。彼の騎士としての直感は、この存在が単なる敵ではないことを告げていた。守るべきものを前にして、その聖剣が純粋な敵意ではなく、どこか哀しみを帯びた光を放っているように感じられた。「苦しんでいる」というリリアの言葉が、彼の心を強く揺さぶる。騎士として、目の前の脅威を打ち倒すことは当然の使命だ。しかし、もしそれが、かつて清らかな存在であったのなら?彼の心に、今まで感じたことのない葛藤が生まれた。
「ルナ、どうする? 完全に攻撃を仕掛けてもいいのか?」一郎が問いかける声には、わずかな迷いが混じっていた。周囲の湿った空気は、彼の呼吸器にまとわりつき、肺の奥から重苦しさを押し上げてくる。
ルナは一瞬迷ったが、すぐに決断した。魔法使いとしての探求心と、目の前の「嘆き」を前にした倫理観が、彼女に答えを導き出す。「精霊の力を宿している可能性を排除できません。完全に破壊するのではなく、動きを止め、その状態を探ります! 私の魔法で動きを封じますから、一郎さんは隙を見て、聖剣の力で浄化を試みてほしい!」彼女の瞳には、迷いを捨て去った魔法使いの矜持が宿っていた。
彼女の言葉に、一郎は力強く頷いた。迷いは消え、彼の瞳には守護者としての強い意志が宿る。リリアもまた、二人の言葉に希望を見出したかのように、若葉を握る手に力を込めた。一郎お兄ちゃんとルナお姉ちゃんが一緒なら、きっと大丈夫。幼いながらも抱いたその確信が、彼女の恐怖を少しだけ和らげた。三人の間に、固い絆が結ばれた。
変質した精霊が、さらに一歩、彼らに近づいた。その動きは、まるで巨大な粘液の塊が地面を這うかのようだった。その体から噴き出す粘液が、地面に落ちるたびに「じゅるり」と嫌な音を立て、あたりに不快な臭いが充満する。足元の落ち葉と苔は、踏みしめるたびに「じゅるり」と湿っぽい音を響かせ、まるで深淵に吸い込まれるような感触があった。発光性の植物は、その粘液に触れるとみるみるうちに光を失い、悲鳴を上げているかのように萎れていく。森の異様な光景が、彼らの心をさらに締め付けた。
ルナは詠唱を開始した。彼女の口から紡ぎ出される言葉は、この古の領域に満ちる重苦しい気配とは異なり、清らかな響きを持っていた。それは、澱んだ空気を切り裂くかのように、あたりに澄んだ波動を広げていく。詠唱が進むにつれて、杖の先端に集まる青白い光が、まるで生き物のように脈動し始める。彼女の集中は極限に達し、周囲の音や気配が遠のき、ただ目の前の存在と、その変質を止めるという決意だけが彼女の中に存在した。肌を刺す冷気が、今度は全身を覆うように重くのしかかる。
「【凍てつく縛鎖(フリーズン・チェイン)】!」
ルナが叫ぶと同時に、杖の先端から青白い光の鎖が何本も飛び出し、変質した精霊の体を絡め取った。鎖はみるみるうちにその表面に張り付き、凍てつく冷気を放つ。変質した精霊は、その冷気に反応するように、体の表面の赤黒い輝きをさらに強めた。粘液が鎖に触れると、瞬時に凍りつき、凍りついた粘液が砕け散る音が響く。しかし、その動きは完全に止まったわけではなかった。鎖に絡め取られながらも、変質した精霊は粘液を噴き出し、体をねじりながらもがく。その体から放たれる「嘆き」の気配が、より一層強まった。森全体が、彼らの戦いに呼応するかのように、重く、深くうねる。
「一郎さん、今です!」ルナが叫ぶ。彼女の声には、焦りではなく、確かな計算と冷静さが込められていた。
一郎は、ルナの言葉に呼応するように聖剣を高く掲げた。聖剣は、変質した精霊の苦しみに共鳴するかのように、これまでにないほど強く輝きを放ち始める。その光は、周囲の闇を切り裂き、変質した精霊の体を包み込んだ。聖剣の柄から伝わる冷たい熱は、彼自身の体温とは異なる、純粋な警戒と決意の熱だった。
「精霊よ、その苦しみから解き放たれよ! 聖なる光の元に、本来の姿へ還れ!」
一郎が聖剣を振り下ろすと、聖剣から放たれた光の波動が変質した精霊へと向かって放たれた。光の波動は、変質した精霊の表面に張り付いた粘液を焼き尽くし、その奥に隠された**「何か」**を露わにしようとする。その光は、まるで清らかな水が泥水を浄化するように、変質した精霊の禍々しい気を洗い流していくかのようだった。光が触れた部分から、赤黒い輝きがわずかに弱まるのが見て取れた。
光の波動が変質した精霊の体に触れると、その体からさらに激しい「嘆き」の気配が放たれた。しかし、その「嘆き」の中には、微かに、しかし確かに、**「安堵」**のような感情が混じっているのを、リリアは感じ取った。若葉の翠色の光が、今度は安堵を示すかのように、穏やかに脈動し始めている。
「葉っぱさんが…『温かい』って…『ありがとう』って…言ってる…!」リリアが震える声でつぶやいた。その声は、恐怖から解放された、純粋な喜びと安堵に満ちていた。
リリアの言葉に、ルナと一郎は希望の光を見出した。彼らの心に、温かい感情が広がる。この攻撃は、ただの破壊ではない。それは、変質した精霊を苦しみから解放し、その本来の姿へと導くための行為だったのだ。彼らの騎士道精神と魔法使いとしての知性が、ここに結実した。
聖剣の光とルナの魔法が、変質した精霊の体に深く浸透していく。その体から噴き出す粘液は、徐々に透明な液体へと変化し、甘く重たい異臭も、清らかな森の香りに変わり始めた。高く伸びた針葉樹の枝の間を縫って、わずかに差し込む木漏れ日が、以前よりも明るさを増したように感じられる。澱んだ空気は少しずつ澄み、重苦しかった気配が薄れていく。変質した精霊の体表を覆っていた赤黒い輝きも、徐々に薄れていく。
彼らの目の前で、信じられない光景が繰り広げられていた。それは、ただの敵の討伐ではない。失われたものを取り戻し、穢されたものを清める、まさしく「聖なる戦い」だった。森の奥深く、古の領域は、ゆっくりと、しかし確実に、本来の清らかさを取り戻し始めていた。
(第二十九話完)
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