第27話:古の領域への誘い

森の奥深くへと進むにつれて、空気の重さは増し、陽光はほとんど届かなくなっていた。高く伸びた針葉樹の枝は、互いに絡み合い、まるで分厚い鉛色の絨毯のように空を覆い尽くしている。かろうじて届く木漏れ日は、地表に奇妙な模様を描き、森を一層神秘的で不気味な場所に変えていた。足元の落ち葉と苔はさらに厚みを増し、踏みしめるたびに「じゅるり」と湿っぽい音が響き、まるで深淵に吸い込まれるような感触があった。鼻腔をくすぐる湿った土と腐葉土の匂いは、これまで感じていた森の清々しさとは全く異なり、どこか澱んだ、重苦しい気配を纏っていた。

「…さっきの魔物とは、気配が違うわ」

ルナが小さく呟いた。その声には、魔法使いとしての鋭敏な感覚が捉えた、漠然とした違和感が滲んでいた。彼女の言葉に、一郎も同意するように聖剣の柄を握る。聖剣が微かに温かい光を放ち、まるで彼自身の体温のように、警戒心と緊張感が伝わってくる。周囲の空気は、瘴気とも魔物の殺気とも異なる、もっと根源的な「重さ」を纏っていた。それは、生き物としての気配ではなく、大地や岩、そして悠久の時が蓄積したような、どこか途方もない存在の気配だった。肌を撫でる風は、外の草原で感じた爽やかなそよ風とは全く異なり、凍えるような冷たさで彼らの肌を刺した。

リリアの胸元の翠色の若葉は、先ほどまでの激しい明滅ではなく、ゆっくりと、しかし確実に強い光を放ち続けている。その輝きは、まるで森の奥に眠る何かと共鳴しているかのように、規則的な脈動を繰り返していた。リリアは不安げに、若葉をそっと撫でる。その小さな指先からも、若葉が放つ微かな振動が伝わってくるようだった。

「葉っぱさん、何か言ってるのか?」

一郎の問いかけに、リリアはこくりと頷いた。彼女の瞳は、不安げに揺れながらも、若葉の示す先を見つめている。

「うん…『古の領域』って…この森の、もっと奥の方にある、すごく古い場所のことだって…『精霊様が、ずっとずっと昔に作った場所』って言ってる…」

リリアの言葉に、ルナが息を呑んだ。精霊樹の地図にも「古の領域」としか記されていなかった場所。その言葉の響きは、ただの地名ではなく、深遠な歴史を秘めた場所であることを示唆していた。それが、精霊自身によって作られた場所だという事実に、ルナの魔法使いとしての探求心が掻き立てられる。しかし同時に、この森の異様な気配と結びつき、漠然とした不安が胸に広がった。

「精霊が作った場所…だと? しかし、これほどの敵意が満ちているとは…」

一郎が眉をひそめた。彼の知る限り、精霊が作った場所は、清らかな気が満ちているはずだ。しかし、この森の空気は、先ほどの戦闘で感じたものとは異なる、もっと重く、深い場所から発せられる明確な「敵意」を宿している。聖剣を握る手に、自然と力がこもる。

「…精霊樹様がお伝えくださった『この地の異変』と関係があるのかもしれません」

ルナは熟考するように杖の先端を顎に当てた。彼女の脳裏には、精霊樹の、そして古文書に記された精霊の知識が巡る。精霊樹がこの地の異変を彼らに託した理由が、少しずつ、しかし確実に繋がっていくような予感がした。

「もしかしたら、その『古の領域』もまた、何らかの理由で汚染されている、あるいは…本来の姿を失っているのかもしれません」

彼女の言葉は、三人の心に新たな不安を抱かせた。精霊の作った聖域が変質しているのだとすれば、それは彼らが想像するよりもはるかに深刻な事態を意味する。もし、この場所が精霊の聖域であったのなら、これほどの禍々しい気が満ちていることに、ルナは得体の知れない恐怖を感じていた。

その時、森の奥から、微かな、しかし耳に残る「音」が聞こえてきた。それは、風が木々を揺らす音とも、獣が歩く音とも違う、まるで巨大な何かが深く息づいているかのような、低く響く脈動だった。その音は、彼らの鼓膜だけでなく、身体の奥底にまで響き渡り、本能的な畏怖を呼び起こす。森の暗闇に、その脈動に合わせて、時折、淡い光が瞬くのが見えた。

リリアが、その音に反応するように、若葉を強く握りしめた。彼女の小さな体は、脈動に合わせて微かに震えている。

「葉っぱさんが…『もうすぐだよ』って…言ってる…」

彼女の声は震えていたが、その瞳には、恐怖の中に微かな好奇心と、そして仲間への揺るぎない信頼が宿っていた。一郎お兄ちゃんとルナお姉ちゃんが一緒なら、どんな怖い場所でも大丈夫。リリアの心には、そんな純粋な思いが満ちていた。

一郎は聖剣を抜き、その刃が放つ聖なる光が、僅かながら周囲の闇を照らした。彼の表情は、一瞬の戸惑いを捨て去り、決意に満ちたものに変わっていた。

「気を引き締めろ。ここから先は、さらに何が起こるか分からない」

ルナもまた、杖を構え、いつでも魔法が放てるよう身構える。彼女の瞳は、未知の領域への警戒と、しかしそれを解き明かしたいという探求心で輝いていた。彼女の魔法使いとしての矜持が、この得体の知れない空間の謎を解き明かせと囁いているようだった。

脈動する音は、次第に大きくなり、それはまるで彼ら自身が、巨大な生き物の内部へと足を踏み入れているかのように感じられた。空気はさらに湿り気を帯び、苔むした岩が剥き出しになり始める。足元は、もはや落ち葉だけでなく、何千年もかけて複雑に絡み合った木の根と、ぬかるんだ大地へと変わっていった。足を踏み出すたびに、根が軋むような音がした。

古の領域、顕現

そして、彼らの目の前に、突如として開けた空間が現れた。それは、これまでの森とは全く異なる光景だった。

そこは、まるで森の心臓部。巨大な木々が、まるで意思を持ったかのように複雑に絡み合い、天井を形成している。その幹は、見る者を圧倒するほど太く、樹齢を感じさせる無数の皺が深く刻まれ、まるで古の物語を刻みつけたかのようにごつごつとしている。その表面には、古代文字のような奇妙な模様が、まるで生き物のように蠢いているように見えた。

地面には、これまでの森では見たこともない、奇妙な形をした発光性の植物が群生していた。淡い緑色、あるいは青みがかった紫色の光を放ち、ぼんやりと周囲を照らしている。その光は、幻想的であると同時に、どこか不気味な雰囲気を醸し出しており、彼らの影を長く、奇妙に歪ませていた。湿った空気の中、その植物からは、土と苔の匂いに加えて、独特の、甘く重たい芳香が漂っていた。

そして、空間の中央には、ひときわ大きく、周囲の木々とは異なる異質な輝きを放つ、**巨大な「何か」**が聳え立っていた。

それは、木々のように見えて木々ではない。岩のように見えて岩ではない。まるで、生き物と鉱物と植物が混じり合ったような、形容しがたい存在だった。その表面は、灰色と緑色が混じり合ったような複雑な色合いで、何千年もかけて風雨に晒されたかのように荒々しく、しかし同時に、有機的な滑らかさも感じさせた。そして、その表面には、先ほどの魔物の体にあった禍々しい模様が、より複雑に、より巨大に、まるで生体組織のように脈打つように光を放っていた。その光は、赤黒く、そして時折、蒼白い光を放ち、脈動に合わせて空間全体を不気味に照らし出した。彼らの目の前にある巨大な存在こそが、森全体に響き渡っていた脈動の源であることが、肌で感じ取れた。

「…これが…『古の領域』…」

ルナが呆然と呟いた。その声には、驚愕と、そして微かな戦慄が混じっていた。彼女の魔法の知識、古文書に記されたあらゆる情報をもってしても、目の前の光景を完全に理解することはできなかった。ただ、その存在が持つ途方もない力と、それが放つ「嘆き」の気配が、彼女の全身を震えさせた。

リリアは、胸元の若葉を両手でぎゅっと握りしめていた。若葉の翠色の光は、その巨大な存在の赤黒い輝きに呼応するように、これまでにないほど強く、激しく明滅している。それは、歓喜のようでもあり、あるいは悲鳴のようでもあった。リリアの小さな体は、若葉の振動に合わせて、小さく震えている。

「葉っぱさんが…泣いてる…」

リリアの言葉に、一郎はハッとした。彼はリリアの言葉を疑ったことはなかった。若葉が放つ光の中に、確かに悲しみのような感情が混じっている。その「嘆き」は、森全体に満ちている重苦しい気配とは異なり、もっと個人的な、深く、そして長い年月を経て蓄積されたような悲哀の感情だった。一郎は聖剣を強く握りしめ、目の前の巨大な存在から放たれる、形容しがたい負の感情に警戒を強めた。

この「古の領域」は、一体何なのだろうか。精霊が作った場所が、なぜこのような姿になっているのか。そして、その中心にある巨大な存在は、彼らが探し求めるものと関係があるのか。

彼らの旅は、今、真の核心へと迫ろうとしていた。


(第二十七話完)

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