#23「私、日本に住んでる、じゃなくて、“いる”だけ」

午後の光が、町の屋根をやわらかく包んでいた。

夏の終わり、風は冷たさを帯びて、

もうすぐ季節が変わることを、空気が静かに教えていた。


図書館の裏手にある、小さな公園。

ユイとリナはベンチに並んで座っていた。

アオはすこし離れた木の下で、風の記録をとっている。


「ねえ、ユイ」


リナが、ふと、ひとりごとのように言った。


「ワタシ、“日本に住んでる”って、言えないなって思った」


「え?」


「なんていうか……“住んでる”って言うと、

 その場所に“属してる”みたいで、ちがう気がして」


「……じゃあ、なんて言うの?」


リナは、すこし笑ってから、ゆっくり言った。


「“いる”だけ。——ワタシ、いま、“日本にいる”だけ。

 でも、“いる”って、それだけで、けっこう、すごいこと」


その言葉が、ユイの胸にすっと入ってきた。


“住んでる”と“いる”の違い。

それは、ただの言葉の差ではなかった。


住むことは、根を張ること。

でも、いることは、そこにちゃんと存在すること。


「……わたし、昔は、“いるだけ”じゃダメだって思ってた」


「ダメ?」


「ちゃんと、役に立たなきゃ。ちゃんと、“なにか”にならなきゃって。

 “わたし、ここにいていいのかな”って、よく思ってた」


リナは、そっとユイの手のとなりに、自分の手を置いた。

触れはしない。でも、ぴたりと“ちかく”にある。


「でも、今は?」


ユイは、空を見上げた。

雲が、ゆっくり流れている。

どこにも定着せず、でも、たしかに“そこにいる”。


「……今は、“いる”ことがだいじってこと、わかる気がする」


しばらく沈黙があった。

その静けさのなかに、ふたりの気持ちがゆっくりと溶けていった。


アオがそばに来て、ログを読み上げた。


【存在記録 No.614】

“住む”は所属。“いる”は存在。

“役割”のない“存在”は、長らく無価値とされたが、

“ただそこにいること”が、つながりを生む根拠になる可能性を確認。


ユイは、くすっと笑った。


「アオ、それ、ちょっと詩的だよ」


「“いる”ことは、“言葉にならない貢献”——と、表現可能ですか?」


「うん。……わたし、それ、好きかも」


リナが目を細めて空を見た。


「ワタシ、自分の国に“帰る”んじゃなくて、

 “ちがう空の下にいる自分”を見てみたいだけなのかも」


「どこにいても、“自分”でいられるって、すごいことだよ」


「……ユイも、きっと、そうだよ」


ユイは、静かにうなずいた。


その瞬間、風が吹いた。

誰にも属さず、でも、ふたりのあいだを確かに通り抜けた風だった。


「ねえ、アオ」


「はい」


「アオは、いま“どこにいる”と思う?」


アオは、一瞬だけ処理を止め、言った。


「定義不能。ですが……“あなたたちの近く”にいる気がします」


風が、木々を揺らす音がした。

それは言葉にはならなかったけれど、“ここにいる”ことの証のような気がした。


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