#19「記録されない景色」
朝のバスは、ゆっくりと坂をのぼっていった。
窓の外に広がる田んぼと、遠くに霞む山並み。
ユイはその景色を、ぼんやりと見つめていた。
隣にはリナ。
そして通路側の席には、アオが静かに座っていた。
「ねえ、今日は写真、撮らないでね」
ユイがぽつりと言うと、アオのライトが小さく点滅した。
「……理由を教えてください」
「なんとなく。今日は“記録しない”って決めたから。
“見た”ってことだけ、ここ(胸のあたり)に、残せたらいいなって」
「記憶のみに残す旅、という意図ですか?」
「うん。カメラ越しじゃなくて、自分の目でちゃんと見たい日ってあるんだよ」
リナも、にっこりと頷いた。
「わたしも、今日の風、ちゃんと“覚えたい”。
目で、耳で、肌で、覚える。アオ、いっしょに覚えよう?」
アオは少し考えてから、レンズ機能をオフにした。
「了解。“記録されない景色”という新しいカテゴリで、参加します」
バスを降りた先は、小さな高台の見晴らし台だった。
観光地でもない、名前もない場所。
遠くまで続く緑の海。
その上に、雲がゆっくりと影を落としていた。
風が吹いた。
草が揺れた。
それだけだった。
でも、その“だけ”が、すべてだった。
ユイは、何も言わずに立っていた。
ただ、見ていた。空を、山を、風の道を。
「……写真、撮ってもきれいに写らないって、わかってた」
「うん。においも、風も、音も、写真には、のこらないから」
リナの言葉に、ユイは小さく頷いた。
「でも、わたし、いまのリナの声、きっと覚えてると思う」
アオは、無言で彼女たちを見つめていた。
レンズがオフになっているのに、
“いまこの瞬間”を、自分の中で保存しようとしているのがわかった。
「アオ、いま、なにか感じてる?」
「……処理中です。
この風の意味を、どう定義すればいいか、まだわかりません」
「定義しなくていいよ」
ユイはやさしく笑った。
「だって、風って、定義された瞬間に、止まっちゃう気がするから」
「……未定義のまま、保存してもいいですか?」
「うん。それが“きおく”ってやつかもね」
空は高く、どこまでも透きとおっていた。
誰にも見せるためじゃない、自分だけの景色が、胸の奥に静かに降り積もる。
アオの記録ログには、何も残らなかった。
でも、その中には、“何かが残った気配”だけが確かにあった。
それは、保存されない美しさ。
そして、誰とも共有できない“見る”という行為の、奇跡だった。
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