特異環境制御課-第零班-

繭墨みづき

『零ノ檻 - episode:00 眠らぬ少女』

雨の止んだばかりの夕暮れ。住宅街の空はまだ薄く濁り、街灯が点るには少し早い。空気は湿気を帯び、生乾きのアスファルトがむわりと熱を返していた。


水城舞は、パトカーの助手席で無線を聞きながら、眉をひそめていた。


「眠ったまま目を覚まさない? ……それ、ただの病気じゃないの?」


同僚の先輩警官がハンドルを握りながら答える。


「一応な。だが妙なんだ。通報者の声が途中で切れた。それに、発信履歴も非通知で、記録に残ってないらしい」


「えっ、そんな……」


「ほら着いたぞ」


舞が顔を上げると、目の前には古びた二階建ての一軒家。どこにでもありそうな、だが今は妙に静けさが濃い。


二人は玄関先で簡単に名乗りを済ませ、家人の案内で二階の少女の部屋へと通された。


薄暗い室内。


少女は布団に横たわっていた。瞼を閉じずに、天井の一点をじっと見つめている。まばたき一つせず、目だけが空虚に開いていた。


「……反応が、ない」


先輩が呼びかけながら近づく。その瞬間、室内の空気が微かに震えた。


ピチリ。


何かが割れるような、乾いた小さな音。舞の耳にだけ、異音が届いた。


次の瞬間、先輩警官が耳を押さえ、呻きながらその場に崩れ落ちた。口をぱくぱくと開閉し、酸素を求めるように呼吸が荒くなる。


「せ、先輩……!?」


だが、声は届かない。彼の意識はすでに“別の場所”に落ちていた。


舞は思わず後ずさる。しかし、視線の先にある“何か”に気づく。


少女の目が見つめるその先。天井の角。誰もいないはずの空間に、黒い、紙片のような……“影”が、浮かんでいる。


(……なにこれ)


それを見てはいけないと、本能が警告する。けれど目を逸らせない。逃げたら、少女がどうなるか。


「……怖くたって、見なきゃ守れない」


舞は震える声で呟く。


「私が見てる。だから、あの子に構うな……!」


恐怖を押し殺すように叫んだとき、脳裏に一つの声が甦った。


――踏み込む覚悟のない奴に、引きずり込む資格なんてない。


昔、道端で助けてくれた警官の女の人。名前も、所属も、もう思い出せない。 けれど、その言葉だけが、今も身体に染みついていた。


その瞬間。


背後から、かすかに足音。


舞が振り返ると、そこには見知らぬ二人の男がいた。


一人は黒い手帳を持ち、無表情で空中に万年筆を走らせている。もう一人はレンズ付きの記録装置を構え、じっと何かを観察していた。


異様だった。まるで、“それ”に慣れているように、あまりにも冷静だった。


「“眠り紙”、確認。封字、始めます」


黒い墨が空中に文字を描いた。


“封”。


その瞬間、空気が逆巻き、少女の目から黒い霧が吸い出されるように抜けていった。


乾いた息を吐く音とともに、彼女のまぶたがようやく閉じた。


舞は茫然としながらも、二人の男を睨むように問いかけた。


「あなたたちは……何者なんですか!? ……いま、何をしたんですか!?」


男――黒瀬は、ただ一瞥をくれただけで、淡々と答える。


「“視た”まま、崩れなかった。君は、残せる側だ」


それだけだった。


舞はその意味を理解できなかった。ただ、恐ろしくて、そして……少しだけ、心が揺れた。


あの恐怖を見ても、自分はまだ立っていた。


――彼らは、それを試したのかもしれない。


事件の翌日、舞は警察署内の聞き取り室にいた。


同僚の先輩は命に別状はなかったが、意識は依然として戻っていないという。医師の診断は原因不明。脳波に異常はなく、身体的な損傷もない。ただ、まるで夢の中に閉じ込められているようだという報告だけが上がってきていた。


聞き取りに応じた舞は、少女の様子、異常な空気、そして“あの二人組”についても説明した。だが、話を進めるにつれて、担当の上司の表情は次第に曇っていく。


「……で、その男たちの身分証や所属は?」


「ありません。けど、確かにあの場にいたんです。彼らが、あの異常を……止めたんです」


上司はしばらく黙っていた。


「……水城、お前は疲れてるんだろう。しばらく休め」


「でも、映像記録が残ってるはずです。ボディカメラのデータ、解析すれば――」


「データは破損していた」


その言葉に、舞は目を見開いた。


「破損……?」


「詳細は調査中だ。だがな……これ以上、この件には首を突っ込むな。上からの指示だ」


その声には、明確な“圧”があった。命令というより、封じ込めの気配。


舞はそれ以上何も言えなかった。ただ、胸の奥に強く、冷たい違和感が残った。



---


【特異環境制御課 第零班 内部報告書(抜粋)】


> 件名:局所発生型 眠り拘束型怪異仮称:眠り紙の鎮静・封緘報告 担当:封緘術師 黒瀬 / 記録官 乾 日時:20XX年X月X日 場所:██県██市 ██住宅街内 個人宅




■ 発生状況:


対象は10歳前後の女子。発見時点で意識は不明瞭ながら、開眼状態を維持。 対象周辺にて複数名の軽度幻視・意識混濁が発生。 空間内における「夢意識定着反応」および「視線誘導型干渉波」を確認。


■ 処理経過:


・到着時点で一般警察官一名が幻聴・昏倒。 ・別の警官(水城舞)が対象少女の防衛行動を取り、怪異の「注視状態」を逸らす。 ・当該警官、水城舞は怪異干渉下にありながらも意識明瞭、精神崩壊兆候なし。 ・封字【封】【静】を併用し、対象への干渉波を遮断 → 書封術にて墨封鎮圧。 ・副次反応なし。現場は即時解除。


■ 特記事項:


・水城舞は非能力者ながら高い精神耐性および観測適性を示す。 ・記録官乾より「記録補助官候補」として上申済。 ・墨封過程において異常なし。ただし対象への干渉終了直前、  空間内にて“微弱な意識残響”を確認 → 原因未特定。


> 本件、通報者不明。警察内部記録の改ざん痕あり。 想定される第三勢力による間接的誘導の可能性について調査継続中。





---


数日後。


舞のポストに、差出人不明の封筒が届いた。 中には政府の印が押された名刺と、墨でしたためられた言葉。


「視える者には、選ぶべき役割がある」


裏面には、こう書かれていた。


『特異環境制御課 第零班/推薦対象:水城 舞』


そしてその下に、小さくこう添えられていた。


――踏み込む覚悟、まだあるか?


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