第38話 血と筆と、二条の夜

二条城。

その広大な回廊を、井伊直政の足音がしずかに響いた。


彼の袴には、かすかに返り血が残っていた。

しかし、顔には疲労の色も怒気もなく、ただ、任を果たした者の静けさがあった。


「直政……おぬし、生きて戻ったか」


文机の前で筆を置き、顔を上げたのは徳川家康である。


「何人か、待ち伏せておりました。しかし、討ち果たしました」


「左様か……ならば、それでよい。敵が焦っておる証左じゃな」


家康は手元の書状に目を戻した。

その筆跡は、整いながらもわずかに乱れていた。


文面は、朝廷のある公家に宛てたものである。

内容は、朝議を通じて徳川の立場を認めさせ、無用な戦を避けるための――“最後の文”であった。


**


その夜、城内の一室では、本多正信と榊原康政が対座していた。

燭台の炎が揺れるたび、正信の細い目に、策士の色がちらりと浮かぶ。


「敵は焦り、そして散らばっております。今は、打って出る時にあらず」


「ならば、守るか?」


康政の問いに、正信は首を横に振った。


「守るのではなく、“生かす”のです。徳川の名を、時代に」


**


一方その頃、薩摩屋敷では西郷吉之助が密書を手にしていた。

文には、長州・木戸孝允の言葉が記されていた。


――『いま一度、御所の動静を確かめたい。徳川の影、深まる。』


西郷は唇を噛み、文を焚き火に投じた。


「動くのは、まだ早か。されど、徳川が“筆”で勝とうとするなら、我らは“剣”で応えねばならぬ」


誰にも聞こえぬように、そうつぶやいた。


**


そして――。

二条城の天守から見下ろす夜の京は、まるで深い湖の底のように静かだった。

されどその湖底では、水脈がぶつかり合い、いくつもの流れが渦を巻いていた。


家康は、筆を止めた。

その顔に浮かぶのは、勝利の予感ではない。

未来に託すための覚悟――“生き延びる”ための知略であった。


「正信……筆で世を変えることが叶わぬとき、我らは剣を執らねばならぬのか?」


「筆もまた剣に勝るものでございます。されど、それを信じるには、時が味方せねばなりません」


家康はうなずき、そっと書状に封をした。


今宵、徳川の命運を賭けた一通の文が、京の町へと放たれようとしていた。

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