第38話 血と筆と、二条の夜
二条城。
その広大な回廊を、井伊直政の足音がしずかに響いた。
彼の袴には、かすかに返り血が残っていた。
しかし、顔には疲労の色も怒気もなく、ただ、任を果たした者の静けさがあった。
「直政……おぬし、生きて戻ったか」
文机の前で筆を置き、顔を上げたのは徳川家康である。
「何人か、待ち伏せておりました。しかし、討ち果たしました」
「左様か……ならば、それでよい。敵が焦っておる証左じゃな」
家康は手元の書状に目を戻した。
その筆跡は、整いながらもわずかに乱れていた。
文面は、朝廷のある公家に宛てたものである。
内容は、朝議を通じて徳川の立場を認めさせ、無用な戦を避けるための――“最後の文”であった。
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その夜、城内の一室では、本多正信と榊原康政が対座していた。
燭台の炎が揺れるたび、正信の細い目に、策士の色がちらりと浮かぶ。
「敵は焦り、そして散らばっております。今は、打って出る時にあらず」
「ならば、守るか?」
康政の問いに、正信は首を横に振った。
「守るのではなく、“生かす”のです。徳川の名を、時代に」
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一方その頃、薩摩屋敷では西郷吉之助が密書を手にしていた。
文には、長州・木戸孝允の言葉が記されていた。
――『いま一度、御所の動静を確かめたい。徳川の影、深まる。』
西郷は唇を噛み、文を焚き火に投じた。
「動くのは、まだ早か。されど、徳川が“筆”で勝とうとするなら、我らは“剣”で応えねばならぬ」
誰にも聞こえぬように、そうつぶやいた。
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そして――。
二条城の天守から見下ろす夜の京は、まるで深い湖の底のように静かだった。
されどその湖底では、水脈がぶつかり合い、いくつもの流れが渦を巻いていた。
家康は、筆を止めた。
その顔に浮かぶのは、勝利の予感ではない。
未来に託すための覚悟――“生き延びる”ための知略であった。
「正信……筆で世を変えることが叶わぬとき、我らは剣を執らねばならぬのか?」
「筆もまた剣に勝るものでございます。されど、それを信じるには、時が味方せねばなりません」
家康はうなずき、そっと書状に封をした。
今宵、徳川の命運を賭けた一通の文が、京の町へと放たれようとしていた。
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