第27話 長州藩と二条城の風音
京の冬は、ただ寒いのではない。薄暗い雲が空を覆い、瓦屋根の上に凍えた鴉が一羽、じっととどまっているような、そんな寂しい寒さである。
二条城の奥座敷にて、徳川家康は火鉢の灰を静かにかき混ぜていた。その手の動きは淡々としているが、思考は深く沈んでいた。
「長州に手を打たねばならぬ」
誰に語るでもなく、家康は呟いた。
正信がすぐに応じた。「殿、使者を立て、宥和を申し出るという手もございます」
「いや、それではあまりに弱い。彼らには、“我が覚悟”を示さねばならぬ」
家康はそう言って、硯に筆を浸した。紙に落ちる墨のしずくが、城内の静寂を切るように響いた。
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その頃、山陰道を越えて長州藩邸へと急ぐ一人の男がいた。榊原康政である。雪混じりの風が袖口から忍び込むのをものともせず、康政は馬を駆った。
「これが、我らの命運を分ける使節かもしれぬ」
彼はそう独り言をつぶやきながら、遥か遠くに見えた藩邸の灯を目指した。
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長州藩邸。板張りの広間に、冷たい床の匂いが漂っていた。
迎えたのは、老臣・宍戸璣。かつての公武合体論者でありながら、今はやむなく倒幕の流れに身を任せていた男である。
榊原は深々と頭を下げた。
「徳川公より、お言葉を賜っております。“泰平の志は変わらず。戦なき世を、共に築くべし”と」
宍戸はしばらく黙していた。炉の炭火がぱちぱちと鳴っていた。
「時代は移ろうておりますぞ。武の世から、理の世へ。徳川がそれを本気で語るのならば……」
「それを証明するためにこそ、我らはここに参った」
康政の声には、誠意というよりは、切実さがにじんでいた。
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その夜、二条城では、家康が報を待っていた。
「康政は、戻らぬな」
そう呟いた彼に、正信が慎重に言葉を選んで言った。
「殿、今一度、長州の心を読み誤れば、徳川は名のみを残し、歴史に呑まれましょう」
「名だけでよい。名こそが、後の世に残る価値であろう」
家康は、ゆっくりと立ち上がった。
「わしが望むのは、徳川が敗れぬことではない。徳川が、“憎まれぬこと”よ」
その言葉には、彼が見てきた幾多の戦と、血に染まった天下取りの記憶がにじんでいた。
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そして――その頃、御所の奥深くでは、密かに「討幕の密勅」が練られつつあった。
それが世に出るのは、もう少し先の話である。
だが、この京の冬の静けさは、ただの静寂ではなかった。風が吹けば、雪が舞い、そして――時代が動くのである。
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