【毎日朝7時投稿】『還る征夷大将軍 〜徳川家康、幕末を再興す〜』

湊 マチ

第1話 終わりの京、始まりの気配

慶応三年、夏。

蝉の声はまだ高く鳴き、京の空には熱気が淀んでいた。


瓦屋根の上に、濁った雲が幾重にもかさなり、遠くで雷の音が低く響いている。

焼けた石畳の匂い、湿った風、町の空気はどこか重く沈み――まるでこの国そのものが、終わりの季節に息を潜めているようだった。


二条城の奥、静まり返った書院造の一室。

文机の前に座る男の筆が、ふと止まった。


徳川慶喜。

徳川幕府第十五代征夷大将軍。

若くしてその座に就き、そして今――政権を朝廷に返上しようとしている男。


机上にあるのは、上申文の草案。

「大政奉還」という文言が記された紙に、慶喜はしばらく目を落としたまま動かない。


蝉の声が遠くなる。

外の陽光はまだ眩しいはずなのに、室内には奇妙なほど影が深かった。


「……ここまでか」


その声には怒りも嘆きもなかった。

ただ、諦念と、わずかな迷いだけが残されている。


彼の耳には、瓦版売りの声や駕籠の音がかすかに届いていた。

時代は、すでに「徳川」を追い越して走っている。

それを、慶喜は痛いほど知っていた。



そのころ――。


京の北、賀茂川のほとりで、町人たちがざわついていた。


「……あれ、なんじゃ?」


「……時代劇の撮影か?」


真夏の川辺に、突如として現れた五人の武者。

陽に照らされて輝く甲冑、威風堂々たる佇まい。

だが、彼らの姿には時代錯誤も甚だしい“異質さ”があった。


先頭に立つのは、老齢の男。

短く刈り込まれた白髪、しわ深い顔、だが目は鋭く、背筋は伸びていた。


脇には、巨大な蜻蛉切の槍を握る筋骨隆々の男。

もう一人は、赤い鎧をまとい、隙のない構えで周囲を警戒している。


「……これは、戦国絵巻じゃ」


誰かが震える声で呟いた。


やがて、老武者が一歩、川辺に進み出る。


そして、空を見上げた。


「――三百年の泰平。されど、終わりを見届ける者なきか」


低く、深く、響く声だった。


本多忠勝が口を開く。


「殿……これは、いかなる夢にございましょうか」


「夢ではあるまい」と、井伊直政が言う。「この空気、この臭い。時の流れに身を置く感覚――すべてが現実にござる」


家康は黙ったまま、町の方角を見つめた。

洋装の人々、人力車、街角に貼られた瓦版。

そこには、自らが築いた泰平の世とはあまりにも異なる“別の国”が存在していた。


「……あれが、我らの末か」


つぶやいた声に、誰も返さなかった。


ただ、風だけがそっと吹いた。

それは、滅びを知らせる風だったのか。

あるいは、新しき時代を運ぶ風だったのか。


家康の目が、静かに燃えた。


「ならば、この目で見届けねばなるまい。

 この国が、果たしてどこへ向かうのかを――」



夜。二条城。


慶喜の前に、密偵が跪いていた。


「……“徳川家康”と名乗る武士が、京の北に現れました」


「家康?」


慶喜は眉を寄せた。


「……この国を開いたはずの男が、終わりの時代に帰ってくるか。

 まるで、天が皮肉を仕掛けてきたようだな……」


襖の隙間から、月の光が差し込んでいる。

静かな月の光は、まるで時の流れさえ照らしているようだった。


蝉の声は、もう鳴り止んでいた。

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