全自動ガンダム起動セズ
沼崎ヌマヲ
第1話 平蔵門外の変
日本経済没落の
この日、橘は、東京都
ホールは、ほぼ満席。
約500人の聴衆を前に、世界経済の現状を説き、日本経済のダメな点を突く、講演は橘のいつもの
橘、
日本の会社は
戦後80年を経ても、近代化したのはオフィスビルと工作機械だけ。
キモノから洋服へ着替えても、人間のマインド自体は19世紀から何も変わっていない。
日本人は、日本経済は、「
すべてのビジネスパーソンは
日本人は江戸時代からつづく「藩=会社」への忠誠を捨て、国も雇用の流動化をいっそう推し進め、未だ残る官営企業、公営事業を
日本最強のグローバリストにして「黒い目をしたアングロサクソン」とも呼ばれる、橘一流の弁舌だった。
ここで橘蔵之介、元金融自由化担当大臣、元経済対策庁長官の業績を簡単に振り返っておこう。
慶応貴族大学経済学部卒。同大学博士課程修了。経済学博士。
民放の経済番組で辛口エコノミストとして
橘の政策は「限界なき異次元の自由化」すなわち人的資本、金融資本、社会資本の徹底的な自由化、流動化であった。
明治以来の「中途半端な近代化」こそがわが国の今日の停滞を招いている、というのが橘の
この「橘イズム」を武器に、与党の中で冷や飯を食っていた野心的な政治家、
当初の目的を果たし満足したのか、二期六年の議員活動を終え、橘蔵之介は
あれから20年────。
橘が言うところの「郷士」「素浪人」が街にあふれていた。彼ら彼女らは別に「脱藩」したわけではなく、ただ「藩」に入れなかったのだ。
「藩士」社員の多くは日本人でも、「
橘が政治の表舞台を去ったあとには、巨大なグローバル企業に部品を買いたたかれる
分厚かった社会の中間層はいつの間にか掘り崩され、成長する活力を失い
かつて
当の橘は、一経済評論家として、日本経済の没落を時の政府が橘の政策を
「中途半端な自由化、中途半端なグローバル化が原因」
「日本の企業はグローバル経済という〈黒船〉に乗り損ねてしまった」
「船に乗るための努力を
まるで他人事のような口ぶりである。
わが国の失われた30年……そのうち後半15年は橘の〝功績〟と言ってもいい。
誰が作ったのかは不明だが、中島みゆきの名曲「
人々の
これが「ポンド之介」の
しかし────。
今、会場では、講演を終えたばかりの橘蔵之介に向けて、
代わりに、
どうやらこの会場には「橘イズム」で割を食った者はいなかったようだ。
あるいは政府がやむなく続行中の「限界なき異次元の金融緩和」という痛み止めのお陰で、実は割を食っているのに気がつかないお人よしばかりなのだろうか。
講演時間は1時間弱。
時給にして200万円の仕事を終え、足取りも軽やかに橘は壇上から降りた。
控室で休憩後、不定期でコメンテイターを務めている動画サイトの番組収録へ向かうため、橘は秘書の
車が駐車場から、大通りへ出る直前だった。
突然、歩道の左側から駆け込んできた男が何か叫びながら車両の前に立ちはだかった。
芝原がブレーキを踏むと、その男はボンネットにダイブするようにして、車両のフロントウインドウに
ガラスを手でバンバン叩きながら、男が叫ぶ。
「オイッ、コラッ、ボンドノスケ!」
「降りろよ! 出て来いよ!」
「せ、先生……」
三十になったばかりの芝原は橘の個人事務所に入ってまだ八か月、ほかにベテランの秘書もいたが今日はたまたま彼が同行していた。
「先生、どうしましょう!?」
芝原は、フロントウインドウに貼りついて
「落ち着け。クラクションだ。クラクションを鳴らせ」
後部座席の橘は、冷静だった。
政治家時代、演説中に
この世界には一部マスコミの論調を
芝原は
「もっとしっかり鳴らせ」
「は、はい」
「タチバナ! オイッ! コラッ!」
男はまだボンネットの上で大騒ぎしている。
橘は後方のリアウインドウから建物の奥を
「先生……」
「いいから、ずっと鳴らしていろ」
芝原は橘の指示通り、クラクションを鳴らし続けた。
こうして鳴らしていれば、異変を
ほら、来た。
駆けつけた二人の警備員が、フロントガラスに貼りついた男を捕らえて、引き
男と警備員たちの格闘で、車体が、ガクン、ガクン、大きく、揺れた。
男は車から引き離されたが、まだ暴れている。
二人の警備員が、暴れる男をやっとこさ
もう大丈夫だ。
一安心する車内。
その時、ドンと、後部座席の右のドアに何かがぶち当たってきた。
正面の騒動に気を取られているうちに、真横から衝撃が来て、橘は思わず
衝撃で丸くひびが入ったガラスの向こうに、もう一人、男がいた。
右のサイドウインドウへ、先の
「タチバナ!」
割れた窓から男が叫ぶ。
「このぉ、ポンド野郎ッ! 覚悟しろッ!」
橘は反対側のドアに頭をぶつけるように
男は力かませにドアを引っ張っるが、開かなかった。
割れた窓に腕を突っ込んでドアロックを探るが、もどかしさに切れたのか、残りのガラスを叩き壊して車内へ強引に入り込んできた。
ハンマーはすでに投げ捨てられ、男の手には、刃渡り10センチほどのナイフが握られている。
二人の警備員は、こちらを助けに動こうにも、暴れる一人目の男を押さえつけているので精いっぱいの様子だ。
「あ、先生、あぶ、危ない、危ない……」
運転席の芝原も、何もできない。ただハンドルを力いっぱい握りしめて
橘は急いで左のドアから車外へ出ようとするが、開かなかった。運転席のほうでロックがかけられている。
「ドアを開けろ! ロック解除だ!」
「はい、解除……え、解除って?」
すっかり
「タチバナ!」
男は身を乗り出し、胸まで車内へ突っ込んできた。
「タチバナ! タチ、痛ッ……」
車内に閉じ込められた橘は、男の頭を足で
そこへ三人目の警備員が急ぎ駆け込んできた。
「何やってるんだ! やめろ! やめるんだ!」
警備員が男の背中に
なおも抵抗する男は、橘に向かって逆手に握ったナイフを振り下ろす。
皮のシートにザクッと刺さる、ナイフ。
橘はとっさに脚を縮めて、刃をよけていた。見かけによらず反射神経はいいのだ。
すぐ上の階で点検作業をしていた管理会社の従業員が、騒ぎに気づいてこちらへ向かってきた。
警備員が叫んだ。
「警察だ警察に連絡を! 早く早く!」
やっと我に返った芝原が、ドアのロックを解除。橘を置いて先に外へ逃げ出していた。
橘もドアを開け、
男が、警備員を振り払って、車内へ突っ込んできた。
まだシートに残っていた橘の下半身へ襲いかかった。
「ッウ! ッア!……」
声にならない叫びを上げて、橘の体は車外へ転がり落ちた。
警備員と駆けつけた従業員にがっちりと押さえつけられた男の手からは、ナイフが消えていた。
あのナイフは?
どこだ?
駐車場のコンクリートの上に腹ばいになった人物の腰の辺りにナイフの
ナイフは、うつ
男の手が、ナイフの柄から滑って抜けたのだ。
もう一度振り
警備員たちがようやく二人の暴漢を取り押さえ
警察と救急車がやってきて事態の
サバイバルナイフは
低い声でうめき続ける
橘蔵之介の硬直した
* * *
「まさか、本当に刺すとは思わなかった」
最初に車の前に飛び出した男、
計画では主犯の
石塚の役割は、橘が乗る車を停止させ、藤谷の犯行時間をできるだけ
もう一人の共犯者、撮影担当の
主犯である藤谷俊彦の罪状は「殺人未遂」の現行犯。
石塚、尾上ともに、藤谷が橘をナイフで刺したことはまったくの想定外だったという。
藤谷が最初から橘を刺すつもりでいたかどうかは、
SNSで知り合ったという犯人グループ。
三人は自動車部品工場の
なぜ橘のような「歴史に残る
「誰も行動を起こさないので、前から不思議に思っていた。誘われたので、よし、やってやろうと思ったが、急に怖くなってやめた」(尾上)
「いつか誰かがやるだろう。きっとやるはずだ。それがたまたま自分だったというだけ」(石塚)
マスコミでは「橘蔵之介さん襲撃事件」と呼ばれることになったが、ネット、SNSでは「ポンド之介改めポン尻之介さん襲撃事件」とか「ケツ之介さん襲撃事件」「尻之介さん襲ケツ事件」などと
橘の右臀部の
橘の尻の肉が厚く、ナイフの刃が動脈まで達しなかったのも幸いした。
「フジリの男」
「鉄の尻アイアンヒップ」
「ポン尻刺すとも自由化刺せず」
「人もし
橘の
犯人グループには当然のように厳しい言葉が投げつけられた。
「今ごろやる? 20年遅いわ」
「失われた30年が爆弾もろくに作れない
「中途半端なテロが日本をダメにした」
「限界なき異次元の流血化に失敗しやがって」
事件当日が日曜日でオフィス街にはほとんど通行人がいなかった。
代わりに誰が描いたのか、橘の尻に刺さったまま抜けなかったサバイバルナイフを、岩に刺さった勇者の剣に見立てたイラストが、SNSで拡散された。
もしかして、この聖なる短剣を橘の尻山から抜いた者が、日本経済の救世主となるのであろうか。
そんなこと知らない。知りたくもない。
* * *
報道が一段落した頃には、犯行現場の最寄りの駅が東京メトロ地下鉄
桜田門外から165年……。
「平蔵門外の変(尻)」で束の間うっぷんを晴らした令和の日本人たちは、これがやがて始まる
(つづく)
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